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まだ眠るには早いから

御幸が名前のことを普通の女子とは違う特別な存在として認識するようになったのは、3年生になってからのことだった。名前が笑うと周りにいる人間までつられて笑ってしまうような、そんな雰囲気に惹かれたのだろう。自分にはないものを持っている。それが魅力的に映っただけかもしれない。野球のことで手いっぱいだからと、色恋沙汰にはちっとも興味のなかった御幸だけれど、そんな風に好意を寄せていた相手に告白されたとなれば、断るなんてことはできなくて。気付けば、恋人同士という関係がスタートしていた。
名前は、御幸が思っている以上に聞き分けの良い彼女だった。野球漬けの毎日を送っている御幸に文句のひとつも言わず、もっと構ってほしいなどと我儘を言うこともない。寮生活の御幸と学校の近くにある自宅から通う名前では帰宅を共にすることはできないけれど、それに不満を言ってくることもない。御幸が一番懸念していたメールでのやり取りもほとんど送られてくることはなく、たまに送られてくるのは、お疲れ様とおやすみぐらい。御幸にとって、それは非常に有難い気遣いではあったけれど、これで付き合っていると言えるのかと、御幸なりに疑問を抱いていたのも事実だ。
そして御幸が最も気になったのは名前の表情の変化だった。あれほど惹かれていたはずの笑顔は、気付けばほとんど見ることがなくなっていた。よくよく思い返してみれば、自分と付き合い始めてから表情に影が落ちることが増えたかもしれない。近くで笑ってくれているだけで良いと思っていたはずなのに、それすらも叶わない。その時、御幸は気付いた。手前勝手な理由ではあるけれど、やはり自分に野球と恋愛を両立させることは無理だったのだ、と。


「別れた方が良いと思うんだけど」
「え…、」


御幸が切り出した別れの言葉に名前はひどく傷付いた顔をしたけれど、どうせ一緒にいても付き合い出す前のような笑顔を見ることはできないのだから、自分の選択は間違っていない。御幸は自分にそう言い聞かせて名前との関係を白紙に戻した。
御幸が名前と付き合っているということはそれなりに知られていたのだけれど、別れたらしいという噂もどこからか広がっていくもので。別れてすぐに、御幸は可愛いと評判の女子から告白された。可愛い女子が嫌いなわけではない。けれども、正直、惹かれはしなかった。別れたとは言え、御幸の脳裏には名前の笑顔がこびりついて離れなかったから。
勝手に纏わりついてくることにも、甘ったるい声で名前を呼ばれることにも、あまりいい気持ちはしていなかったけれど、いちいち波風立てるのも面倒臭い。だからと思って放っておいたら、いつの間にか彼女と付き合っていることにされてしまい、御幸にとっては迷惑極まりなかった。
そんな中、名前に新しい彼氏ができたと聞いて、御幸は心底驚いた。自意識過剰かもしれないけれど、まだ自分は名前に好かれていると思っていたからだ。しかも、その容姿はみるみるうちに綺麗さを増していき、自分の時にはそこまでしていなかったくせに、と嫉妬に駆られる始末。揺さぶりをかけようと思っていた矢先、本当にたまたま、放課後の教室に忘れ物を取りに行ったら名前がいたものだから、御幸は声をかけずにはいられなかった。


「お前のそういうとこ、好きだよ」


気紛れでもなんでもなく。口からするりと出た本音はどれだけ名前に伝わっていただろうか。御幸は柄にもなく、不安に駆られていた。そして同時に、たとえ別れても、ただのクラスメイトになっても、新しい彼氏ができても、それとは関係なく応援してくれると言う、名前の純粋さに。御幸はどうしようもなく駆り立てられる。
皮肉にも、その一件があってから、名前の姿は益々綺麗さを増していった。そのことになぜか焦りを覚えることが御幸にとっては滑稽だったけれど、名前のことを好きなままであれば当然の焦燥感かもしれないと妙に納得する部分もあって。何よりも大切な野球の練習をほんの少し抜けてでも、名前と2人きりになることを望んでいる程度には、特別な存在になっていた。
カッコをつけて別れを告げた結果、こうなった。自業自得だ。けれども御幸は諦めが悪かった。あくまでも余裕たっぷりに。けれども発言に嘘は交えず、本当のことだけを伝える。それが名前にとってどれだけの効果があるかも不明瞭なままで。本当は、拒絶されたらどうしようかと不安を抱えていることに気付かれないよう、平静を装って。


「俺と付き合い始めて、名前、笑うこと減ったろ?」
「そんなことないよ」
「俺に気ィ遣ってばっかだったんじゃねぇの?」
「そんなこと…ない、」


そんなことない。そう繰り返す名前の表情は困り果てていて、そんなことある、と言っているようだった。とても分かりやすい。


「名前が俺といてつまんねぇなら付き合ってる意味ねぇなと思って別れた方が良いんじゃないかって言っただけ。嫌いになったわけじゃねぇよ」
「…でも、彼女、すぐにつくったくせに…」
「は?何それ」


御幸はそこで漸く全ての辻褄を合わせることに成功した。おかしいと思ったのだ。自分に好きだと告白してきた名前が、簡単に他の男に靡くなんて。御幸に彼女ができた。だから、自分も彼氏をつくろう。つまりは、そういうことじゃないか、と。御幸の頭の中でひとつの仮説が生まれる。


「俺、彼女なんていねぇけど」
「あのA組の子と仲良さそうなところ、何回も見たのに?」
「あっちが勝手に纏わりついてきてるだけ」
「…本当?」
「嘘吐いてどうすんだよ」


もしかして、俺に彼女ができたから彼氏つくったわけ?
仮説を実証すべく御幸が尋ねたことに言葉を詰まらせた名前は、たっぷり時間をかけてからコクリと頷いた。勿論、その反応を見た御幸は口元に弧を描く。そして、やはり自分は間違っていなかったのだと、漸く本来の自信を取り戻した。


「好きでもないヤツと付き合ってんの?」
「…優しいし良い人だもん」
「へぇ。じゃあこのまま付き合うんだ?」


本来の御幸一也という男は、基本的に頭の回転が早く自分に自信をもっている。それゆえに、名前のことをいとも簡単に追い詰めることができるのだ。今のように。
2人きりの夕暮れの教室内。見下ろす御幸と椅子に座ったまま御幸を見上げる名前。お互いに目を逸らしたら負けだとでも思っているのか、交わった視線を逸らすことはない。そのまま睨めっこを続けること数分。先に負けたのは名前の方だった。別れるよ、と。思っていたよりも凛とした声音で言い放った言葉に、御幸は満足そうに笑う。


「あっそ」
「…御幸は、私のこと、好き…なの?」


今度はこちらの番だと言わんばかりに、けれども自信なさそうに恐々と尋ねる名前に、御幸は携えた笑みを崩さない。どうだと思う?と意地悪く尋ね返すその表情は、さらに楽しそうに歪む。
名前は、尋ねたのはこちらの方だろうと言わんばかりに顔を顰めて、御幸からの問いかけには答えない。またもや訪れる沈黙と睨み合い…というより見つめ合いの攻防戦。こうなると先に根を上げてしまうのは名前の方というのがセオリーなのだけれど、今回ばかりは違った。


「好きだったら、どうすんの?」


そんなこときかれても。どうするのかときかれたところで、名前に決定権があるわけではないような気がして、答えに詰まる。御幸はそれを確認して、一体どうしたいのか。何を求めているのか。混乱している名前とは裏腹に、御幸の脳内ではこれからのシナリオが鮮明に描き出されていた。
それが現実のものとなるまで、あと数分。御幸は戸惑う名前の様子をひとしきり眺めて、なあ、と。シナリオの第一声を紡ぎ出したのだった。

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