結局、名前は初めて彼氏と帰路を共にする日、彼氏のことよりも御幸のことで頭がいっぱいだった。けれども彼氏はそんな名前に気付いていないのか、気付いていて触れなかっただけなのか、何も言ってくることはなく。彼を選んだのは自分なのに、このままで良いのだろうか、と。名前は不安を抱いていた。
そもそも、名前が身形を整え新しい彼氏を作ったのは、御幸を見返すためである。御幸に、この女と別れたのは間違いだったと後悔させたいがために必死になっていたはずなのに、当初の目的が達成できていないどころか、御幸に翻弄されているのが現状だ。このままではいけない。名前は更に自分磨きに奔走し始めた。
それまであまり見たことのないファッション雑誌を購入し、上手な化粧の仕方を研究した。髪の手入れも念入りにするようにし、ふわりと良い香りがするように香水も吟味して選んだ。そうやって少しずつ変化していく度に、彼氏はその変化にきちんと気付いて褒めてくれた。可愛いね。似合ってる。自慢の彼女だ。それらの言葉は名前の自信には繋がったけれど、言われて嬉しかったかと尋ねられると首を傾げてしまうものだった。
今の彼氏にどれだけ認められても、名前は満足できない。御幸に認められなければ意味がない。どうしてこんなにも御幸一也という男に固執するのか。フラれてすぐに彼女をつくられて悔しかったから。見返したかったから。それは確かにあるだろう。けれども、例えば今の彼氏に同じことをされたとしても、名前はここまで必死になることなどないと自分で分かっていた。その理由は明確でないけれど。
「今日も一緒に帰る?」
「うん。いいよ」
名前が今の彼氏と付き合い始めてから1ヶ月ほどが経過していた。良く言えば穏やかに、悪く言えば何の面白みもなく過ぎていったこの1ヶ月。名前はいつかと同じように彼氏の部活が終わるのを待つべく、教室からぼんやりと窓の外を眺める。グラウンドで汗だくになりながらボールを追いかけている彼氏は、とても優しくて気が利いて、文句のつけようもない良い彼氏だ。名前がどんどん容姿を変えていくことを一緒に楽しんでいるような感じも見受けられ、きっと彼以上の男の人なんてそうそういないだろうとすら思う。
それでも、名前の胸はちっとも高鳴らない。そうして名前は、今の彼氏に恋をしているわけではないということに気付いてしまった。というより、最初から、好きだから付き合い始めたわけではなかったということを思い出してしまった、という表現の方が正しいかもしれない。何にせよ、名前の心の中には、自分を好きだと言ってくれている彼氏に対して非常に失礼で申し訳ないことをしているということに、今更ながら罪悪感が募っていた。
別れた方が良いのかなあ。それこそ今更なことを考えていた時だった。あの時と同じように、ガラリと音を立てて誰かが教室に入ってくる気配。まさか、と名前が振り返った先にいたのは、この場合やはりと言うべきか、御幸一也だった。
まるで名前がここにいることを随分と前から知っていたとでも言うかのように、待ってるんだろ?と問いかけながら距離を詰めてくる御幸は、やはりユニフォームにゴーグルをつけた姿で。名前の頭の中には、こんなところでサボっていて良いのかという純粋な疑問が浮かぶ。けれども、その疑問をぶつける前に御幸の方が口を開いたものだから、名前の発言は音になることなく飲み込まれていった。
「なんか変わったよな、名字」
「どこが?」
「んー、俺と付き合ってる時より気合い入ってんなーと思って」
「…そう?」
澄まして言ってはみたものの、名前は内心、そりゃあそうだろう、と得意気だった。御幸と別れたことがきっかけで変わろうと努力し始めたのだから、そう思ってもらわなければ困る。御幸は、今の自分をどのように見ているのだろう。別れたことを、すぐに新しい彼女をつくって乗り換えたことを、少しでも後悔しているだろうか。名前は続く言葉に期待を寄せる。
「彼氏の趣味?」
「違うよ」
「じゃあ名字って元々こういう系だったの?」
「…違う、よ」
「ふーん…ま、いいけど」
くるり。何の気なしに名前の髪の毛を指で弄び始めた御幸は。
「似合わねぇよ、全然」
名前が期待しているセリフとは正反対のことを言ってのけた。その瞬間、名前の中で何かがガラガラと音を立てて崩れていく。努力なんて何の意味もなかった。この先、どれだけ自分が頑張って綺麗になっても可愛くなっても、御幸が認めてくれることはない。別れを後悔してくれる日もこない。それを悟ってしまった。必死に頑張ってきたこの1ヶ月が完全に無意味だったということを感じて、ひどく惨めな気持ちに苛まれてしまうのは仕方のないことだ。
弄んでいた髪の毛を指から離して、御幸は笑う。名前がその笑顔に心臓を鷲掴みにされていることも知らないで。
「名字、なんでアイツと付き合ってんの?」
「…そんなの、御幸には関係ないでしょ」
「あるよ」
「ない」
「あるって」
「私達、もう別れたんだから!」
関係ないじゃん…。
惨めな現実を自分自身に言い聞かせるように叫んだ声は、静かな教室内に響いた。御幸は驚くでもなく、たじろぐわけでもなく、顔色ひとつ変えずその言葉を全身で受け止める。名前の悲痛な面持ちを見ても尚、淡々と、そうだな、と返事をする御幸は一体何を考えていてどうしたいのか。名前にはさっぱり分からなかった。御幸の考えはいつまで経っても分からないことばかりだ。
「別れたけど」
「……けど?」
「名前には、俺しかいねぇと思うわ」
簡単に名前を呼ぶ。それも、つい先ほどまでは名字で呼んでいたくせに、急に、だ。その上、俺しかいない、などとふざけたことを言ってきて、本格的に何をどうしたいのかさっぱり分からなくなってきた。名前は元々、頭が良い方ではない。だから、どういう意味でその言葉を落とされたのか、毛ほども理解はできないのだ。
「そっちがフったくせに…何言ってるの?」
「確かに、別れた方が良いとは言った」
「それなら…、」
「でも俺は、嫌いになったとは一言も言ってねぇよ?」
この教室内だけ時が止まったように、お互い動かなかった。
何度も言うが、名前は頭が良い方ではない。だから、遠回しなことを言われて理解するには少々時間がかかる。数秒か数分か、続く沈黙の中で情報を整理して、けれども腑に落ちる結論は見出せない。嫌いになっていないなら別れを切り出す必要なんてなかったじゃないか。付き合っている時に、別れのきっかけとなるような出来事でもあっただろうかと必死に思い出そうとしてみても、思い当たることは何もない。
「じゃあ、どうして別れた方が良いって、言ったの?」
私、邪魔してた?鬱陶しかった?目障りだった?それらの名前が投げかけた質問全てに、御幸は首を横に振る。
「俺と付き合ってて楽しかった?」
「そんなの、」
当たり前でしょう、と言いかけた言葉は、なぜか音にならなかった。楽しかった。楽しかった?その単語に引っ掛かりを覚える。名前は、胸を張って楽しかったと言えるほど、御幸と一緒に過ごしていなかったのだ。押し黙る名前に、御幸は、だよな、と小さく息を吐く。溜息ではなく、ただ呼吸を整えるためだけに吐き出された酸素。それをまた、すうっと吸い込んで。
「俺は、お前に笑っててほしかっただけなんだけどな」
どうしてだろう。御幸は笑っているはずなのに、その表情は悲しそうにしか見えなくて。名前の心臓は潰れそうになる。グラウンドから聞こえるサッカー部の声は、名前の耳に届かない。その姿を見ることもない。もっと言うなら、現彼氏のことなんて頭から綺麗さっぱり抜け落ちていた。目の前にいる御幸一也が、名前を捉えて離さないから。
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