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その呪文で音色を消してよ

人生山あり谷ありとはよく言ったものだけれど、名前は驚いていた。少し容姿に気を遣えば、それなりに男子からのウケがよくなるのではないかと少なからず期待してはいたものの、まさか隣の席の男子に告白されてトントン拍子で付き合うことになるなんて、そこまではさすがに予測できず。御幸にフラれてどん底だった気持ちは、いとも簡単に浮上し始めたのだった。
名前の隣の席の男子、つまり彼氏となった男子は、サッカー部に所属している爽やかなスポーツマンだ。ポジションはフォワードで、最近はよくスタメンで出場するらしい。サッカーだけでなくスポーツ全般の知識に疎い名前ではあるけれど、自分の彼氏になる人がことごとく凄い才能の持ち主だということだけはなんとなく分かっていた。


「名字、今日の放課後って時間ある?」
「うん。どうして?」
「一緒に帰るのどうかなって…」


名前に告白してきた時もそうだった。彼氏となった男子は、恥ずかしそうに、自信なさそうに、けれどもきちんと正面から目を見据えて言葉を投げかけてくる。そんな真摯な姿勢に、名前は好感を抱いたのだ。御幸と付き合っていて最近別れたことも知った上で、すぐにとは言わないんだけど…と控えめな告白をしてきたことも好印象だった。彼となら穏やかに過ごせそうだな。そう思って告白を受けた名前は、やはり自分の選択は間違っていなかったと再確認する。
いいよ、と。微笑みを携えて答えた名前に、彼氏である男子も嬉しそうに笑う。名前が求めていたのはきっとこういう関係だったのだ。恋人とは、彼のように優しくて温かくて包み込んでくれる存在に違いない。そう思うのに、ちらつくのはなぜか御幸の存在。御幸は元カレであって、もう何も自分とは関係ない。御幸にも自分にも新しい恋人ができたのだから、思い出す方がおかしいじゃないか。何度もそう言い聞かせているのに、ことあるごとに頭の中にふっと現れるものだから、名前はその度に首を小さく横に振った。


◇ ◇ ◇



放課後、名前は教室で彼氏の部活が終わるのを待っていた。名前の席は窓側で、ちょうどサッカー部がグラウンドで走り回っている姿がよく見える。勿論、彼氏の姿もよく見えるので、宿題をしながら時々グラウンドを眺めては頬を緩ませているのだ。彼氏の部活をこうしてさりげなく見ることができるのは幸せなことだ、と。名前はひしひしと感じていた。
御幸と付き合っている時は、練習風景を見ることなど全くなかった。野球部の専用グラウンドは校舎から離れた位置にあるので、見学しようと思ったらわざわざ出向かなければならない。自分の存在で御幸のコンディションが崩れたり集中力が途切れたりすることはないだろうけれど、それでも、名前の深層心理の中には、御幸の野球を絶対に邪魔をしてはいけないという妙な緊張感があって、見に行くことができなかったのだ。
その代わり、練習試合や公式試合は必ず応援に行っていた。いつもかけている眼鏡から野球専用ゴーグルに変えて白球を受ける御幸の姿は、恋人という贔屓目を抜きにしてもカッコ良かった。ここぞという時に気持ちよくヒットを打って得意げに笑う姿も、ピンチの時にマウンドで投手に声をかけ楽しそうに笑う姿も、御幸の全てが名前には輝いて見えていた、のに。
ほんの少し前のことなのに随分と昔のことのようにぼんやりと思い出しながら、ほとんど進んでいない宿題へと視線を落とす。数学に向き合う気分じゃないなあ。どうせどんな時だって勉強に向き合う気なんてないくせにそんなことを思った名前は、気分を変えて別の教科の宿題に取り組もうかとカバンの中を漁ろうとした。すると。
ガラリと音を立てて教室の扉が開く音がして、振り返る。そして、すぐにやる気のなかった数学の教科書と真っ白なノートに向き直った。そうせざるを得なかったのだ。教室に入ってきたのが、つい先ほどまで、そしてもしかしたら今も名前の脳内を支配しているかもしれない、御幸一也だったから。
勝手に心拍数が上昇していく名前のことなど見向きもせず、御幸がロッカーを漁る、ごそごそという物音だけが響く。御幸はただロッカーの中に忘れ物をしただけのようで、名前に話しかけてくる様子はない。それが有難いような、寂しいような、名前はとても複雑な心境だった。話しかけてほしくはない。けれど、無視もしないでほしい。名前にだって分かっているのだ。こんなのは、ただの我儘だ、と。


「彼氏、できたんだ?」
「……それって私にきいてるの?」
「この教室にいるの、名字だけだし」


ロッカーから忘れ物であろうタオルを引っ張り出した御幸は、気紛れに名前に声をかけた。ちくり。名前の胸が痛んだのは、御幸が名字と呼んだから。付き合っている時は名前、と呼んでいたのに、別れた途端これである。当たり前と言えば当たり前の距離。そんな小さなことにも敏感に反応してしまうことが、名前にとっては悔しかった。御幸はもう、本当になんとも思っていないということを実感させられたようで。


「私に彼氏ができちゃ、悪い?」
「…いや、別に」


御幸の顔色は、なにひとつ変わらなかった。動揺も嫉妬も羨望も、何も感じさせないその表情で名前に近付いた御幸は、机の上に広げられた真っ白なノートを見遣る。部活の途中で抜けてきたらしく、ユニフォームとゴーグルを身に纏っている御幸を改めて確認したところで、名前の心臓はひとりでに暴れ出した。別れても尚、自分はこの男に振り回されるのかと嫌気が差す反面、まだ関りを断ち切らなくても良いのかもしれないという、無駄に淡い期待を胸に抱く。
そんな名前の揺れ動く感情など知る由もない、そして知ろうとする気もない御幸は、ちらりとグラウンドに視線を送ってから、意味深に、へぇ、と唸った。そのたった一言で名前は悟る。御幸には全てを見透かされているのだと。


「ここで彼氏待ち?」
「…それが、御幸に関係ある?」
「ねぇよ。ただ、」
「ただ?」
「俺の時は1度も見に来なかったなと思って」


どうしてそんなことを今更言うのか。自分に未練がありそうな素振りもない。というか、今は新しい彼女がいるはずの御幸が、過去の名前と現在の名前を比べて指摘しているという事実が、どうにも納得できなかった。
本当は見に行きたかった、と言ったら。御幸は何と言うだろうか。どんな反応を示すだろうか。それを考えて、言おうとして、やめた。それを言ったからといってどうにもなりはしない。どうせ言うならもっと早く言うべきだったのだ。


「練習、戻らなくていいの?」
「戻るよ」
「…頑張って」
「別れても応援はしてくれるんだ?」
「それとこれとは関係ないでしょ…」
「お前のそういうとこ、好きだよ」


御幸はさらりとそれだけを言い残して教室を出て行った。
また1人、ぽつんと教室内に残された名前は、暫く放心状態だった。そういう意味で言われた言葉ではないと頭では理解している。そうういうとこ、とは。一体どういうところなのか。好きだよ、とは。一体どういう意味を含んでいるのか。別れようと言ったのは御幸で、先に新しい彼女を作ったのも御幸。それなのに御幸は、名前のことを好きだと言う。それがラブではなくライクの意味だったとしても、好意という意味では変わりない。
こんなの絶対におかしい。元カノ相手に簡単に好きだと言う御幸は、弄んでいるのだ。自分が戸惑うところを見て、楽しんでいるに違いない。そうでも思っていなければ、やってられない。名前の頭の中では御幸に言われた、好きだよ、の言葉だけがぐるぐると駆け巡っていた。少し視線をずらした先にあるグラウンドで輝いているのは彼氏で、本来ならその姿に胸をときめかせなければならないはずなのに、今の名前を支配しているのは御幸一也で。
やっぱりこんなの変だ。混乱する頭でいくら整理しようとしても、感情の糸は絡まるばかり。刻一刻と近付く彼氏との帰宅時刻が、名前にとってはちっとも待ち遠しいものではなくて。どうやってこの感情を取り繕おうかと、ずる賢い逃げ道を考えることしかできなくなっていた。

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