×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -
最愛のひとに再愛
走って走って走って。ただひたすら、お母さんに教えてもらった住所のところまで走り続けた。途中、何人か擦れ違う人にギョッとした顔をされたような気もするけれど、そんな視線なんか気にならないぐらい必死だった。なぜこんなにも必死なのか、自分でも分からない。急いだって急がなくたって、英太はきっと逃げたりしない。そんなこと分かっているのに、私の足は止まらなかった。
息を切らして震える手でチャイムを鳴らすと、私が来ることなど予想だにしていなかったであろう英太が姿を現した。あまりにも全力疾走しすぎたせいで息が弾んでいて、私はちらりと英太を確認したきり、顔を上げていることすらままならない。


「えい、た、」


いまだ整わぬ呼吸のまま、呼びたくてたまらなかった名前を口にする。その言葉が英太に届いていたのかは定かではないけれど、暫くの沈黙の後、入れよ、と言ってくれたところを見ると、何かしらは伝わったらしい。私はやっと落ち着いてきた呼吸を更に整えるべく、大きく深呼吸をしてから英太の家に入った。
男の人の家だというのに思った以上に片付いた部屋は、私をどこか懐かしい気分にさせる。私が辺りを見渡していると、英太がこちらに振り向いたことに気付いて、胸がとくんと脈打った。やっとのことで静かになってきた心臓が、またゆっくりと鼓動を速めていく。


「なんで、ここに?…なんで、泣いてんだよ…」


戸惑いながらも、私を心配してくれていることがありありと分かる声音が心地よくて。それまでの不安だとか混乱だとかが嘘のように、私は自然と微笑むことができていた。そして涙が頬を伝ったのを合図に、私はゆっくりと口を開く。


「会いたくて、」
「…え、」
「英太に、会いたくて、」


壊れたラジオみたいに同じ言葉を繰り返す私を、英太は驚きと期待と不安が入り乱れたような、複雑な表情で見つめている。


「まさか、記憶、戻った…?」


期待を孕んだ表情に、申し訳なさが募る。嘘を吐いたってすぐにバレるに決まっているし、何より英太に偽ることなんてしたくなかった。私は項垂れながら小さく首を横に振る。まともに顔を見ることはできないけれど、きっと英太は、今、相当落ち込んでいることだろう。
期待させるようなことを言ってしまったのは申し訳ないと思うけれど、本心だったのだからどうしようもない。本当に、ただ会いたくなってしまっただけなのだから。


「何も、思い出せなくて、ごめん…」
「…仕方ねぇって言ったろ」
「でも私、気付いたことがあって、」
「気付いたこと?」


俯いたままでも、英太が私のことを見つめていることが分かる。喉がカラカラに乾いていてうまく言葉が出てこないけれど、きちんと伝えなければ。
私はたどたどしくも、できるだけはっきりと、言葉を紡いだ。この気持ちが少しでも英太に伝わるようにと願いながら。


「事故に遭って目が覚めた時、英太のこと、誰?って思ったのは確かだけど、なんとなくホッとした。毎日お見舞いに来てくれて、退院してからも様子を見に来てくれて、いつの間にか、英太に会えるのが楽しみになってた」
「…、」
「でも英太は、私といるのが辛そうで、だから、思い出さなきゃって、思って…、英太との思い出、探した」
「……無理に思い出すなって、言ったろ…」
「ごめん、でも、どうしても、思い出したくて、」


恐る恐る顔をあげれば、困ったように笑う英太の顔が瞳に映って、止まっていたはずの涙が次から次へと流れ始めて止まらない。脳裏を過るのは、幸せそうに笑う私と英太の写真。


「私、いつも英太の隣にいた。いつも、幸せそうに笑ってた。英太も、幸せそうに見えた」
「…そうか」
「ごめんなさい…、まだ、何も、思い出せないの…、でも、あの、違うかもしれないんだけど、私、英太と、特別な関係だったんじゃないかなって、気付いちゃったの…」


私がそう言った時の英太の顔は、奇跡を目の当たりにしたとでも言いたげで、私の方が驚いてしまった。勝手に記憶をなくして、勝手に思い出そうとして、勝手にそうだったらいいなと妄想して。私は勝手なことばかりしている。今だってそうだ。勝手に自分の思いの丈を伝えて、勝手に満足しようとしている。
けれど、どうせなら。最後まで勝手なことを言う私を、許してほしい。涙は全然止まらなくて、拭っても拭っても後から後から溢れてくる。何が悲しいのか、何が嬉しいのか、それすらも分からないのに。


「勝手なことばっかり言って、困らせて、ごめんね…。今はまだ、記憶、ないけど、絶対に思い出すから、英太とのこと、もう忘れたりしないから、傍にいさせて、くださ、い…っ、」


今の私に言える精一杯のことを伝えたつもりだった。嗚咽交じりできちんと届いたかは分からないけれど、英太は固まったまま動かなくて。突拍子もなさすぎて、きっと混乱しているんだろうなと思った。そんなこと、急に言われても困るよね。
ひくひくと子どもみたいにみっともなく泣きながら、頬に伝う涙を拭おうとした時だった。頬に伸ばしかけた手が英太の手に絡み取られ、強く引っ張られたかと思うと、私は英太の胸の中にすっぽりと包み込まれていた。痛いぐらいの力で、まるで離さない、とでも言うかのように抱き締める腕は、噎せ返るほど優しい。英太は私を胸に閉じ込めたまま、首元に顔を埋めてくる。


「そんなの、良いに決まってんだろ…っ、」


耳元で聞こえた英太の声は、震えていた。


◇ ◇ ◇



俺の問いかけに、会いたくて、と。そんな答えを返してくるものだから、記憶が戻ったんじゃないかと期待した。けれど、やはりそう都合よく失ったものが元に戻ってくるわけもなく、首を横に振る名前を見て、がっかりしつつもどこか諦めに似たものを感じていた。
けれど、記憶が戻ったわけではないのに俺に会いたいと思ってくれたことは嬉しくて、少しは以前のような気持ちに近付いてくれたのではないかと、裏切られるであろう期待をしてしまう。期待するな。希望を持つな。何度も言い聞かせてきたのに、どうにも上手くいかない。
それは名前のせいだ。今だって、気付いたことがあると言って、勝手に俺の心を乱していく。無理に記憶を思い出させないために努力してきたというのに、名前はそんな気持ちを無視して突っ走ってしまったようだ。名前らしいけど、それがまた、俺の心を締め付ける。
幸せそうだったって、当たり前だろ。幸せだったんだから。言いかけた言葉を、必死に飲み干す。もうこれ以上、期待させないでほしい。期待して、裏切られるのが怖いから。耳を塞いでしまえば良いのに、結局のところ名前の言葉を待っている自分がいて、矛盾しているなと思った。


「ごめんなさい…、まだ、何も、思い出せないの…、でも、あの、違うかもしれないんだけど、私、英太と、特別な関係だったんじゃないかなって、気付いちゃったの…」


まさか、こんなことがあって良いのだろうか。記憶は戻っていないはずなのに、名前は俺との関係に気付いてしまった。そんなの、奇跡としか言いようがない。
思い出してほしいと願っていた。前みたいに戻りたいと思っていた。それが叶わないのなら、生きている意味なんてないとさえ感じていた。それなのに、こんな展開、誰が予想したと言うのだろう。
名前は涙をボロボロ零しながら、それでも必死に訴えかけてくる。そんなに泣かないでくれ。何がそんなに悲しいんだよ。戸惑う俺をよそに、名前が口にしたのは。


「勝手なことばっかり言って、困らせて、ごめんね…。今はまだ、記憶、ないけど、絶対に思い出すから、英太とのこと、もう忘れたりしないから、傍にいさせて、くださ、い…っ、」


とても、陳腐な願いだった。
言ってすぐ、また泣き出す名前がどうしようもなく愛しくて。拒絶されたらどうしようとか、これで嫌われたら立ち直れないとか、そんなことを考えている暇も余裕もなく、俺は名前の手を掴んで自分の胸に抱き寄せていた。たった1ヶ月ちょっと触れていなかっただけで懐かしく感じる名前の体温が、じわじわと俺の中に染み込んでいく。
傍にいさせてくださいって、何だよ。


「そんなの、良いに決まってんだろ…っ、」


情けなくも震える声で言い放った言葉は、名前にきちんと届いたらしい。俺の背中には、ゆるりと名前の腕が回された。
これが夢だろうが現実だろうが、嘘だろうが本当だろうが、そんなことはどうだって良い。今、名前は、確かに俺の胸の中にいる。それだけで十分だ。
今なら、言っても良いだろうか。ずっと言いたくて堪らなかったこと。伝えたくて、でも伝えられなくて苦しかったこと。同じ気持ちになってほしいなんて贅沢なことは言わない。これからどれだけ時間がかかってでも、名前にもう一度、同じことを言ってもらえるように頑張るから。なあ、名前。俺は、お前のことを、


「愛してる、」
「…え、」
「ずっと、名前のことだけを…愛してるんだ」


今までだって泣いていたくせに、俺のセリフを聞くなり名前はまた、わんわんと泣きじゃくりながら俺の胸に頭を埋めて、ごめんね、を繰り返していた。何に対しての謝罪なのかは分からない。記憶が戻らなかったことに対してなのかもしれないし、子どもみたいに泣いてしまっていることに対してなのかもしれない。けれど、何にせよ、名前が謝らなければならないことなんて、何ひとつ存在していなかった。俺は名前の頭を撫でながら、泣くなよ、と笑う。


「私、英太の気持ち、忘れたままで、ごめんなさい…っ、」
「そんなのもう良い」
「でも、」
「忘れたままで良い」
「…え、」
「また、愛してもらえるように頑張るから」


思い出してくれたら良いと思っていた。今でも、そう思う。でも、思い出せないなら、何度だってあの頃に戻れるように頑張れば良いだけのことじゃないか。名前を愛し続けるなんて楽勝だ。今の名前を見ていたらうだうだ悩んでいたことが嘘のように、そうやって開き直ることができた。
相変わらず涙が止まらない様子の名前は、なんとか嗚咽を堪えながら俺を見上げる。そして、ぐっしゃぐしゃの顔で笑った。


「頑張らなくていいよ」
「…それって、」
「私ね、もう、英太のこと好きになっちゃってるの」


それこそ奇跡みたいなものだった。記憶が戻っていない以上、名前の中の俺はこの1ヶ月ちょっとでしか形成されていないはずだ。たとえ写真を見て俺達の仲に勘付いたとしても、そう簡単に人を好きになるなんてこと、普通あり得ないだろう。
そう思うのに、俺に向かって笑う名前の表情は記憶を失う以前のものと変わりなくて、俺は奇跡ってやつを信じたくなってしまった。英太、と。まるで特別な名前であるかのように俺を呼ぶ名前の声音は、馬鹿みたいに温かい。
なぜだろう。急にまた、気持ちを伝えたくて堪らなくなって。


「あいしてる」
「あいしてる」


重なった言葉に、不覚にも視界が滲んだ。



◇ ◇ ◇



それからの私達はと言うと、特に何も変わらない。私の記憶は相変わらず戻らないし、英太もそのことについて触れることはなくなった。正直、英太との思い出だけはどうにかして思い出したいと思っていた。けれど英太は、昔のことよりこれからのこと考えろよ、と笑っていたから、最近はそこまで深く思い悩んだりはしていない。いつか記憶がなくなったことさえも、あんなことがあったね、と思い出にできたら良いなと思う。
あの日、英太に詰め寄って今までの私達の関係を洗いざらい話してもらい、同棲していたことや婚約までしていたらしいことを聞いた時にはさすがに驚いた。けれど、そうだったら良いなと私が思い描いていた未来と何ら変わりなかったので、殊の外、すんなりと受け入れることができたように思う。


「名前…結婚、しようか」


そう言われたのは、つい昨日のこと。婚約していると言っていたのだから、プロポーズはきっともうしたはずだろうに、英太は律儀にも再び私にプロポーズをしてくれた。勿論、断る理由なんてなかった私は満面の笑みでそれを受け入れたわけだけれど、断られるとでも思っていたのか、英太はひどく安心した表情を浮かべていた。
これから先、まだまだ何が起こるか分からない。もしかしたらまた、私の身にあの事故のようなことが起こるかもしれないし、今度は英太にそんなことが起こるかもしれない。それでも不思議と、不安はなかった。
だって私は、たとえどんなことがあっても英太だけを好きになる自信がある。英太も、同じようなことを言っていた。だから何があっても大丈夫。何度あなたのことを忘れたって、何度もあなたのことを愛すから。どうかあなたも、私のことをずっと愛していてね。

最初