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セピア色になる前に
私が事故に遭ってから1ヶ月が経過した。仕事にも復帰し、私はいつもの日常を取り戻しつつある。けれど、なぜか心にはぽっかり穴が空いたようで、何をしていても満たされない気持ちでいっぱいだった。
何が足りないんだろう。そう考えて思い浮かぶのは瀬見さんのこと。事故後に無くなったものといえば、瀬見さんとの記憶ぐらいしか思いつかない。
瀬見さんは私が退院してからも、仕事終わりによく遊びに来てくれていた。仕事で忙しいはずだし疲れているだろうに、彼は当たり前のようにやって来てくれるのだ。私はそれが、少し楽しみになっていた。
けれど瀬見さんは、私と話している時、いつも楽しそうじゃない。辛そうというか、苦しそうというか、無理に明るく振る舞っているというか、兎に角、私といても瀬見さんはちっとも楽しくなさそうなのだ。それなのに、どうして何度も来てくれるのだろう。仲が良かったというから、様子が気になるのだろうか。
今日も瀬見さんは仕事終わりに遊びに来てくれた。しかも、とても珍しい人を連れて。


「牛島君!どうしたの!」
「ロードワークがてら寄ってみた」
「相変わらず元気そうだね」


瀬見さんが連れて来てくれたのは、今や日本の男子バレーボール界を牽引しているといっても過言ではない、超有名人の牛島君だった。会うのは大学時代に行われた同窓会以来だろうか。見た目は昔より更にがっしりしたように見えるが、その口調や雰囲気は何ひとつ変わらない。
そうか。私の記憶にはないけれど、瀬見さんは天童君と同じくバレー部に所属していたから、牛島君とも知り合いなのか。そんなことを思っていると、牛島君が何気なく、呟くように言葉を落とした。


「俺のことは覚えているんだな」
「え…?」


それはつまり、瀬見さんに、私の記憶のことについて聞いたということなのだろうか。私が戸惑っていることに気付いたのか、牛島君はすぐに、独り言だから気にしないでくれ、と言ってきたけれど、気にしないなんて無理な話だ。
天童君といい、牛島君といい、どうして私に瀬見さんの記憶がないと分かると、複雑な表情を浮かべるのだろう。それだけ大切な記憶ということなのだろうか。


「事故に遭った割に元気そうで良かった」
「あ、うん。全然平気だよ」
「俺はそろそろロードワークに戻る」
「わざわざ来てくれてありがとう」
「礼なら瀬見に言ってくれ。俺を誘ってくれたのは瀬見だ」


牛島君はそれだけ言い残すと、あっと言う間に走り去って行った。ああいうマイペースなところも、昔と変わらない。玄関先に残された私と瀬見さんは、妙に気まずい。


「あ、の、牛島君を、連れて来てくれてありがとうございました」
「ああ…いや、別に…」


瀬見さんは私と目を合わせることなく、そんな返事をした。
牛島君の反応を見ても、瀬見さんと私には何か特別な関係があったように感じる。天童君だってお父さんやお母さんだって、はっきりは言ってこないけれど、瀬見さんとのことを気にしているのは明らかだ。
この1ヶ月、仕事にも復帰してなんだかんだと後回しにしてきたというか、遠ざけてきた問題だが、瀬見さんとの記憶を取り戻すことが私にとって1番大切なことなんじゃないだろうか。
私は思い切って、瀬見さんに一歩近付いてみることにした。


「瀬見さんと私って仲良かったんですよね?」
「え?ああ…まあな…」
「それじゃあ、タメ口でも、いい?」
「……、良い、けど。無理すんなよ…」


私の突然の発言に、瀬見さんは明らかに動揺している。けれども、ここで逃げちゃ駄目だ。


「私、瀬見さんとのこと思い出したいの。前は何って呼んでた?」
「…それ、は……、」


言い淀む瀬見さん。私はただ、黙って瀬見さんを見つめながら答えを待つ。長い沈黙の後、瀬見さんは大きく息を吐いてから、私を真正面から見つめた。その双眸があんまりにも優しいから、私は一瞬、息をするのを忘れてしまう。


「英太」
「…え?」
「英太って、呼んでたよ……名前は」


私の名前を、とても大切そうに、愛おしそうに呼んだ彼に、胸がぎゅうっと締め付けられた。苦しい。息が、できない。名前を呼ばれただけなのに、なんで。
自分の感情がコントロールできなくて、私は瀬見さん…英太から、視線を逸らした。見つめたまま話していると、心臓が飛び出てきそうだったからだ。
それを拒絶と受け取ってしまったのか、英太は小さく、ごめん、と呟いた。謝らないで。英太は何も悪くない。そんな簡単な言葉さえも、なぜか口にできなかった。


「今日はもう帰る」
「あ、え、」


慌てて視線を戻した時には、英太はもう私に背中を向けていて、ばたん、と音を立てて扉が閉まった。また、傷付けてしまったのかもしれない。事故に遭ってからというもの、私は英太を傷付けてばかりだ。
…英太、か。私はそんなに容易く、男の人のことを名前で呼んだりはしない。きっと名前で呼ぶだけの理由があったに違いない。単なる仲の良い友達だったとしても、その記憶を取り戻したい。
私は漸く、その日に初めて、本気で英太との記憶を思い出そうと決心したのだった。


◇ ◇ ◇



あの事故から1ヶ月、俺は退院後も、迷惑を承知で仕事終わりには名前の実家を訪れていた。いまだに記憶は戻らないが、事故直後に比べたら大分打ち解けてきたとは思う。
前みたいにはなれなくても、また普通に話せる日が来るのかな。そんなことを考えていたある日、珍しくも牛島の方から連絡があって会うことになった。恐らく天童のはからいだろう。仕事終わりに名前の家に行くから一緒に行かないか?と誘ったら、ロードワークにはちょうど良い距離だと、なんとも牛島らしい返答をもらった。
日本の男子バレーボール界を背負って立つ牛島が、平凡なサラリーマンの俺と並んで歩く姿はさぞかし滑稽だろうが、これでも高校時代の同級生なのだから仕方がない。牛島は俺に会うなり、名字は大丈夫なのかと、核心を突くことを言ってきた。相変わらず、ど直球なやつだ。


「天童にきいたんだろ」
「お前の記憶だけないらしいな」
「……ああ」
「まだ戻らないのか」
「ああ…」
「そうか」


牛島はそれ以上、何もきいてこなかった。沈黙の中、名前の実家に着くと、牛島と名前は昔を懐かしむように会話していた。が、牛島の一言に名前も俺も凍りつく。
俺のことは覚えているんだな。きっと牛島は、何も考えずに思ったことを口にしただけなのだろう。その証拠に、戸惑っている名前を見て、独り言だから気にしないでくれ、と弁明している。直球すぎるがゆえに、牛島は時に、とんでもない爆弾を落としていく。今回もそのパターンで、牛島は挨拶もそこそこに、俺だけを残してロードワークに行ってしまった。なんというマイペースなやつなのだろうか。
気まずい沈黙が流れる中、どうやってこの空気を払拭しようかと考えていると、名前の方から口を開いてくれた。


「瀬見さんと私って仲良かったんですよね?」
「え?ああ…まあな…」
「それじゃあ、タメ口でも、いい?」
「……、良い、けど。無理すんなよ…」


あまりにも突然の申し出に、俺は戸惑いを隠せない。この1ヶ月、そこそこの距離を保って接してきたというのに、なぜこのタイミングで急に距離を縮めてくるのか。俺にはその意図がさっぱり読めなかった。
タメ口で話しかけられると、無駄に期待してしまう。あの日に、事故に遭う前の俺達に戻れるんじゃないかって。


「私、瀬見さんとのこと思い出したいの。前は何って呼んでた?」
「…それ、は……、」


心臓が馬鹿みたいにうるさい。名前が俺とのことをやっと真剣に、本気で思い出そうとしてくれている。それは素直に嬉しい。けれど、以前のように呼ばれてしまったら。俺は黙って平然とした顔をしていられるだろうか。それ以前に、俺を思い出そうとすることで名前は苦しむことになってしまうんじゃないだろうか。
言い淀む俺を射抜くように見つめてくる名前の視線を感じながら悩みに悩んだ俺は、漸く腹を括った。名前が知りたいと言うのなら、きっと教えてやるのがベストなのだろう。俺は名前を真っ直ぐに見つめ返すと、静かに息を吸って言葉を紡いだ。


「英太」
「…え?」
「英太って、呼んでたよ……名前は」


事故に遭ってから初めて、名前の名前を呼んだ。こんなにも大切に呼んだことはなかったかもしれない。名前は目を見開いて驚愕の色を浮かべた後、俺から視線を逸らした。その表情は困惑に満ちている。
ああ、やっぱり言うんじゃなかった。そう思っても言ってしまった言葉は取り消せない。俺はそれ以上、戸惑う名前の顔を見ていられなくて、ごめん、とだけ小さく呟くと逃げるようにその場を後にした。
今の会話がきっかけで何か思い出してくれるだろうか。もしも何か思い出してくれたらどんなにいいだろう。けれど、逆に、もしも何も思い出さなかったら?名前が混乱して困惑して苦しむだけに終わったら?俺はどうしたらいい?
泣きそうなのに泣けもしない自分が情けない。こんなことになるぐらいなら、いっそ、俺の頭の中からも名前の記憶を消してくれたら良いのに。暗い夜道を歩きながら、俺はそんなことしか考えられなかった。



◇ ◇ ◇



天童から、名字が事故に遭ったから瀬見に連絡を取ってみろと言われた。なぜ名字本人ではなく瀬見に?とは思ったが、天童の言う通り瀬見に連絡を取って話をきくと、名字本人に連絡を取らない方が良い理由がなんとなく理解できた。
記憶喪失という言葉自体は知っているし聞いたこともあるが、実際にそんなことがあるのかと俄かには信じられなかった。しかし、瀬見の様子を見る限り嘘や冗談の類でないことは明白だった。
瀬見と名字が恋仲にあるのは、高校3年生の時から周知の事実だった。だから2人が婚約したと聞いた時には、やっとか、とすら思った。俺の中で、それほど2人は一緒にいることが当たり前だったのだと思う。
瀬見について行って久々に名字に会ったが、その姿はあまり変わっていないように見えた。ただ、瀬見を見るその瞳だけは明らかに変わっていて、本当に瀬見のことを忘れてしまっているのだなと悟った。話し振りからして俺のことは何も忘れていないようで、思わず独りごちてしまった言葉が名字にも聞こえてしまったのだろう。名字はひどく狼狽していた。
狼狽するということは、少なからず名字が瀬見のことについて何かしら考えている証拠ではなかろうか。俺はそんな風に感じた。ならば俺は、ここにいるべきではない。名字が無事だということも確認できたのだから、ロードワークに戻ろう。
俺は2人に別れを告げると、早々にその場を後にした。俺がどうこうできる問題ではない。2人でどうにかしなければならないことだ。余計な口出しはしない方が良いだろう。ただ、高校時代から2人を知る俺から、ひとつ言わせてもらえるのだとしたら。あの2人が2人のあるべき姿に戻ってくれたら良いのに、とは思う。
どうやら俺は余計なことを考えすぎてしまったらしく、ロードワークのペースが普段より遅いことに気付いた。もうあの2人のことを考えるのはやめよう。あの2人なら大丈夫だ。理由もなくそんなことを思った俺は、ペースを上げて走り出すのだった。

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