×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -
そして檻の中、鍵をかけて
事故に遭ってから数日後。私は早々に退院することとなった。どうやら車の方が急ブレーキをかけてハンドルを切ったため、私にはほとんど当たらずに済んだらしい。おかげで私は転んだ際に軽く頭をぶつけた程度だったので、こんなにも早く退院できることになったようだ。不幸中の幸いとは、まさにこのことである。
事故に遭った日に失礼な態度を取ってしまったにもかかわらず、えいたくん…もとい、瀬見さんは、毎日かかさずお見舞いに来てくれていた。本当に良い人だと思う。退院日の今日も、瀬見さんは私の病室を訪れて、荷物まで持ってくれている。お母さんも、なぜか瀬見さんには頼っているようだし、そんなに親しい間柄だったのだろうか。


「あの、瀬見さん?」
「……何?」
「私と瀬見さんって仲が良かったんですか?」
「………すげー仲良かったよ」


不自然な間の後、私に背中を向けたままの瀬見さんはボソボソとそう答えてくれた。そうか。だから毎日お見舞いに来てくれていたのか。私はまた、非常に申し訳ない気持ちになった。
実は今日までに何度か、瀬見さんのことを思い出してみようかと考えたことがある。けれども結局のところ、いつか自然に思い出すかもしれないし、と楽観的に考えた私は、そこまで本気で思い出そうとしていなかった。それゆえに、事故以前の瀬見さんについては何ひとつ思い出せないままだ。瀬見さんのいう通りすごく仲が良かったのだとしたら、今までの私の考えは失礼極まりないだろう。


「ごめんなさい…思い出せなくて…」
「良いって。仕方ないだろ。無理に思い出さなくて良い…いつか、思い出してくれたら、それで」


私の申し訳なさそうな声を聞いて、瀬見さんは苦しそうに笑いながらそう言ってくれた。なんて優しい人なんだろう。私は心がポカポカしていくのを感じていた。そして、こんなに優しくて良い人なら、好きになってもおかしくないのになあと、他人事のように思った。
瀬見さんは私の荷物を持って家まで送ってくれた。仕事が残っているから、とすぐに帰っていく後ろ姿をぼんやりと眺めながら、なんとなく寂しいと思ってしまった自分に驚く。今の私にとって瀬見さんはそこまで親しい関係にあたる人ではない。それなのに、どうしてそんな感情を抱くのだろう。
ぼーっと玄関に突っ立ったままの私を、お母さんが呼ぶ。台所に立つお母さんは、私にお茶の入ったコップをすすめてくれた。


「名前…英太君のこと、まだ思い出せないの?」
「うん…」


私が素直に答えると、お母さんは目を伏せた。お母さんはどうやら瀬見さんのことを気にかけているようだ。お母さんだけでなくお父さんも、瀬見さんにはなぜか心を開いているようだし、家族ぐるみの付き合いでもあったのだろうか。


「お母さん、瀬見さんと私ってすごく仲が良かったんでしょ?」
「……そうね」
「どんな話してた?」
「どんなって言われても…2人の時のことはお母さんには分からないから」
「私、瀬見さんといる時、楽しそうだった?」


一瞬、お母さんの表情が強張る。けれど、すぐに力なく笑うと、とっても楽しそうだった、と答えてくれた。


「2階…綺麗にしてあるからゆっくり休みなさい」
「そういえば仕事…、」
「職場には連絡してあるから。今週はお休みで良いんですって」
「ありがとう」


私はお母さんにお礼を言うと、お茶を飲み干してから荷物を持って2階の自室に向かった。きっとお母さんが掃除してくれたのだろう。すっきり片付いた部屋はまるで生活感がなくて、少し落ち着かない。
ベッドに寝転がって考えるのは、瀬見さんのこと。瀬見さん、そういえばあんまり私と目を合わせてくれないよなあ。仲良かったって言ってたのに。どうしてだろう。そんな小さな疑問を抱いたところで、私は猛烈な睡魔に襲われた。
微睡む意識の中、夢の中で見たのは、なぜか瀬見さんが幸せそうに微笑む姿だった。


◇ ◇ ◇



名前が事故に遭ってからというもの、俺は仕事の合間を縫って毎日お見舞いに行き続けた。俺の顔を見れば自然と記憶が戻るのではないかと期待していたのもあるけれど、単純に、名前に会いたかったというのも事実だ。
残念ながら入院中に名前が俺のことを思い出すことはなく、今日は退院日。例の如く、どうにか仕事の空きをつくって病室を訪れた俺に、名前はいつも通り、驚いた顔をする。その顔は、どうして毎日来るの?と言われているようで、正直辛い。
記憶がないのだから仕方がないことは分かっているが、名前から以前の俺との関係について尋ねられた時は、どう答えれば良いものか迷った。ずっと付き合ってる、同棲もしてる、婚約もしていて結婚する予定だった。そう伝えたくて堪らなかったが、俺はただ、仲が良かったとしか言わなかった。
下手に本当のことを伝えてしまうと、名前はきっと混乱する。急に婚約者だと言われてもきっと受け入れられないだろう。けれども名前は、それを聞いたら必死に俺を好きになろうと努力するに違いない。努力して好きになられるなんて、そんなの、惨めすぎるじゃないか。
だから俺は名前の記憶が戻るまで、自分達の関係を伏せておくことに決めた。大丈夫、名前ならきっと、俺のことを思い出してくれる。そう、信じて。お義父さんやお義母さんも協力してくれると言っていたし、俺は今、俺にできることをやるしかない。


「ごめんなさい…思い出せなくて…」
「良いって。仕方ないだろ。無理に思い出さなくて良い…いつか、思い出してくれたら、それで」


本当に申し訳なさそうに謝ってくる名前を責めることなんてできるわけがない。俺は気丈に振る舞って見せたつもりだけれど、名前にはどう映っただろうか。うまく笑えていただろうか。自分がどうやって笑っていたのか、俺にはもう思い出せなかった。
名前の荷物を持って病院を出た俺は、それが当然であるかのように自然な流れで実家まで送ってやった。名前とは同棲しているのだが、こんなことになってしまったからには俺と一緒に暮らすことなんてできやしない。だから、お義父さんとお義母さんとも相談して、全てを思い出すまで名前は実家で過ごしてもらうことにしたのだ。


「仕事、残ってるから…もう行く」
「あ、はい…ありがとうございました」


名前のよそよそしい敬語にいちいち胸を痛めつつ、俺は名前に背を向ける。後ろ髪引かれる思いではあったが、名前の方は何とも思っていないのだろうと思うと、またもや勝手に傷付いた。俺はいつからこんなに女々しくなってしまったのだろう。
こんなことになっても仕事はなんとかこなしているが、同僚には、目が死んでるけど大丈夫か?と心配された。会社の人間には、婚約者が事故に遭った、ということしか伝えていない。まさか、記憶喪失になって俺のことは忘れられています、なんて、自分の口から言えるはずもなかった。
仕事が終わり、ガランとした真っ暗な家に帰る。つい数日前までは当たり前のようにここに名前がいて、一緒に夜ご飯を食べたりテレビを見たり朝まで抱き合って眠ったりしていたというのに、次にいつ、そんな時間が訪れるかは分からない。
いつまでこんな風に名前を待ち続けなければならないのだろう。待っていても帰って来る保障なんてどこにもないというのに。それでも俺は、自分から名前を手放すことなんてできなくて、きっといつまでも、こうして待ち続けるのだろうと思う。
飯を食っても、風呂に入っても、ベッドに沈んでも、何をしたってどこにいたって、この家の中は名前の香りで溢れているから居た堪れない。なあ、名前。お前が俺の立場だったら、どうしてた?答えなど返ってくるはずもない疑問を抱いたまま、俺は深い闇の中に堕ちていった。



◇ ◇ ◇



名前が事故に遭ったときいて私がお父さんと駆けつけた時には、既に婚約者の英太君がいてくれた。とても不安そうな面持ちで娘に付き添っている英太君を見て、ああ、うちの娘は本当に良い人と巡り会ったんだなと安心したのは、記憶に新しい。
英太君と娘の名前は随分と前からお付き合いしていて、私もお父さんも、英太君なら安心して娘を任せられると思っていた。だから、2人が婚約した時には素直に祝福することができた。
直接お話することはあまりなかったけれど、英太君は会うたびに丁寧な挨拶をしてくれるし、礼儀正しい子で好感が持てた。そして何より、名前のことを大切に想ってくれていることがひしひしと伝わってきて、母親としてこれほどに嬉しいことはなかった。
だから名前が目を覚ました時、英太君に言い放った言葉はとてもじゃないが信じられなかった。大切な英太君のことを、娘は綺麗さっぱり忘れている。大切だからこそ忘れてしまったのかもしれない。けれどもそれは、英太君にどれほどの絶望を与えたのだろう。きっと、目の前が真っ暗になったに違いない。
それなのに英太君は、名前に英太君の記憶がないことを知りながら、毎日お見舞いに来てくれた。何をするでもなく、特別な話をするわけでもなく、ただ様子を見に来てくれて少し会話をしてから帰って行く。それだけのことが、どれだけ辛かったか、私には想像もつかない。
来なくていい、記憶が戻ったら連絡する、と。見兼ねたお父さんが英太君に申し出たけれど、英太君は首を横に振った。たとえ名前が俺のことを覚えていないとしても、俺は名前のことを覚えているから、傍にいたいんです。真剣な表情でそう言ってくれた英太君の言葉を聞いて、私とお父さんは引き下がるしかなかった。
退院の日、英太君はうちまで娘を送ってくれた後、すぐに仕事に戻って行った。きっと、自分と暮らしていた家に帰らせてやりたかったことだろう。けれども英太君は、ただひたすら娘のために、事実を伝えることを拒んだ。名前が自然と思い出すまで自分との関係については伏せておいてください。英太君は私とお父さんに頭を下げてそう言ってきたのだ。
なぜ彼が頭を下げる必要があるのだろう。娘のために辛い思いまでさせている上に頭まで下げさせて、親として申し訳なくて涙が出た。こんなに優しくて良い子を、このまま、いつ記憶が戻るかも分からない娘のために、縛り付けていて良いのだろうか。その時、私はそう思った。


「名前…英太君のこと、まだ思い出せないの?」
「うん…」


自宅に帰って来て、英太君の後ろ姿を見つめている名前を見て、何か思い出してくれたんじゃないかと期待してしまった。けれど、やはり名前は英太君について何も思い出せていないままだった。
名前は名前なりに、英太君のことだけ記憶がないことが気になっているのだろう。自分と英太君との繋がりを探るように、私に質問を投げかけてきた。英太君に口止めされている以上、私の口から言えることは限られている。ただ、何ひとつ嘘は吐かなかった。


「私、瀬見さんといる時、楽しそうだった?」


名前にそう尋ねられて、思わず口籠ってしまった。楽しそうなんてものじゃない。大切に育ててきた娘がこの上なく幸せそうに笑うのは、いつも英太君といる時だった。そんな名前を見て、親としての幸福を噛み締めていたというのに。
目頭が熱くなるのを感じながらも、私は必死に口角を上げる。とっても楽しそうだった、と。これは嘘にはならないだろうかと思いながらも、私はそう答えた。
名前が2階に上がったことを確認して、私はそっと涙を拭う。私なんかより英太君の方が泣きたいに決まっている。私が泣くわけにはいかない。
親として、娘が幸せならそれで良いと思っていた。けれど、今は違う。できることなら、娘と幸せになってくれるのは英太君が良い。身勝手な願いだとは思うけれど、私の幸せなんてこの先なくなっても良いから。大切な娘と、未来の息子が、どうか幸せになりますように。こんな時だけ都合よく神様に祈る私は、ひどく愚かだった。

最初