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忘却の彼方に幽閉
よく晴れた水曜日の午後。サービス業をしている私は平日である今日が休みで、大好きな婚約者のために夜ご飯の買い出しに出かけていた。綺麗に澄み渡った青空を見ると、なんだか良いことがありそうな気がする。そんなことを思いながらフラフラ歩いていたのがいけなかったのだろうか。
歩道をゆったりしたペースで歩いていた私目掛けて、一台の車が突っ込んでくるのが見えた。こういう瞬間は、映画やドラマではスローモーションで描かれることが多いが、この時の私にもスローモーションで見えた。逃げなきゃと思うのに身体は言うことをきかなくて、私は見事に車と激突。薄れゆく意識の中、真っ先に思い浮かんだのは愛しい婚約者の顔だった。


◇ ◇ ◇



覚醒してまず目の前に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。死後の世界というのは存外平凡なんだなあと、やけに呑気なことを考えていると、ガタガタッと音がして視界に人影が映る。おもむろに音がした方に目を向けると、そこにはお父さんとお母さん、そして見知らぬ男の人が心配そうに私を見つめていた。
お父さんとお母さんの顔を見て、どうやらまだ死んでいないことに気付いたまでは良かったのだが、見知らぬ男の人はなぜ私の両親とともにこんなところにいるのだろう。しかも、両親と同じぐらい、否、もしかしたらそれ以上に、私が目を開けたことに安堵している様子だ。


「名前、大丈夫?」
「心配したんだぞ」


お父さんとお母さんに次いで、無事で良かった…と呟くように言う男の人と視線が交わる。…誰だろう。本当に分からない。けれどなぜか、この人がいてくれて良かったと思っている自分がいる。


「どちら様、ですか…?」


覚醒してからの第一声がそれだった。男の人は目をこれでもかと大きく見開いて、けれどすぐに、冗談やめろよ、と笑う。冗談なんかではない。私には本当に誰なのか分からないのだ。
私が戸惑っていることに漸く気付いたのか、男の人は不安と絶望が入り混じった表情を浮かべて私の肩を掴む。思わずびくっと身体を跳ねさせてしまった私を見てひどく傷付いた顔をされたけれど、見知らぬ男の人に急にそんなことをされたら驚いてしまうのは無理もないと思う。


「本当に、俺のことが分からないのか…?」
「……はい…、どこかでお会いしましたか?」


私の反応に驚いているのは男の人だけではなく両親も同様で、お母さん達のことも分からないの?と尋ねてくる。
私が返事をしようとしたところで看護師さんが病室に入ってきて検温を始めたので、会話はそこで途切れてしまった。その後もすぐに先生が来て診察してくれたり、問診をされたりして、ゆっくり話す時間はなく。先生から話があるということで、両親と男の人は病室を出て行った。
結局、あの人は誰だったのだろう。一緒に病室を出て行ったが、まさか両親とともに先生の話をきくのだろうか。見ず知らずの人に私の状態を知られるのは良い気がしないのだが。
そう思っていると、コンコンというノックの音がきこえた後、がらりと扉が開いて懐かしい人が現れた。誰が連絡してくれたのかは知らないが、会うのは数年ぶりだ。


「天童君?もしかしてお見舞いに来てくれたの?」
「そうだよーん。元気そうで良かった!事故に遭ったってきいたから心配でさぁ」
「まさかこんな形で会えるとは思わなかったね」
「連絡してくれた英太君に感謝だネ」
「えいた、くん?」
「え?」


えいたくん。そのフレーズを聞いても顔は思い出せないのだけれど、なぜか響きだけは聞き覚えがある。天童君と私の共通の知り合いなんて、高校のバレー部員ぐらいしかいないから、きっと部員の中の1人なのだろうけれど、そんな人がいただろうか。駄目だ…思い出せない。
その人って誰?ときこうとして口を開きかけたところで、またもやノックの音がして、入ってきたのは先ほどの男の人。男の人は天童君を見るなり親しげに挨拶を交わしている。やはり知り合いらしい。


「あの…天童君、そちらは……?」
「名前ちゃん…それ、本気で言ってる?」
「いいんだ天童。さっきもそうだった…俺のこと、覚えてないらしい」
「えっ…英太君のことだけ…?」


天童君が口にした「えいたくん」という言葉に身体が反応する。この人が、えいたくん。天童君に、私が事故に遭ったと連絡してくれた人。そしてどうやら話の流れからいくと、私はこのえいたくんの記憶だけなくしてしまっているらしい。
なぜ彼のことだけ頭からすっぽり抜け落ちているのかは分からないが、知り合いだとしたら非常に失礼な態度を取ってしまった。これはやはり、謝るべきだろうか。私が謝罪の言葉を述べようとしたところで、えいたくんが私より先に口を開いた。


「天童、今日はもう帰ろう。目が覚めたばっかりで俺達がいたんじゃ疲れちまうだろ」
「あー…うん…そうだネ…」
「あの!……知り合い、らしいのに、失礼なことを聞いてごめんなさい…」
「……ゆっくり休めよ」


えいたくんは私を責めるでもなく、そんな労りの言葉だけを残すと、足早に病室を出て行ってしまった。怒ってはいないようでホッとした反面、ひどく辛そうな表情だったことが気になる。
天童君の知り合い。ということはバレー部?しかし白鳥沢の男子バレー部で3年間マネージャーを務めてきた私が、部員のことを忘れたりするだろうか。もしかして事故の影響で?だとしても、どうして彼のことだけ覚えていないのだろう。
謎は深まるばかりだが、答えはどうにも見つかりそうにない。結局私はいつの間にか再び深い眠りに落ちていて、えいたくんのことについては何も分からぬままだった。


◇ ◇ ◇



名前が事故に遭ったと聞いた時は心臓が壊れそうなほどばくばくした。仕事なんかそっちのけで病院に駆けつけたら、思っていたよりもずっと軽傷だったらしく、ベッドに横たわって安らかに眠っている名前を見て、心底ホッとした。
名前とは高校の時から付き合っている。社会人になった今でも関係が続いているのだから、きっと俺達は結ばれる運命だったのだろう。そんな考えもあって、俺達は半年前に同棲を始め、つい最近、婚約したばかりだった。幸せの絶頂、というと陳腐な言い方になってしまうが、兎に角俺達は、間違いなく幸せだった。はず、なのに。
目を覚まして第一声、名前が俺を見て言ったのは、どちら様ですか、という、なんとも他人行儀な一言。冗談だと思った。いや、冗談であってほしいと思っていただけなのだろう。本当は視線が交わった瞬間から、何か嫌な予感がしていた。俺を見る名前の瞳が、いつものそれではなかったから。
幸か不幸か、その後は診察やら何やらで名前と話す機会はなく、先生からの話があるということで病室を出ることができた。正直、有り難かった。もしもこれ以上あの病室にいたら、俺はきっと、この行き場のない感情を持て余して何をしでかしていたか分かったものじゃない。


「英太君…大丈夫?」
「……俺は大丈夫です」


名前のお母さんが心配そうに尋ねてくるものだから、俺はなけなしの見栄を張った。ただでさえ娘が事故に遭って心労を抱えているであろうお義母さんに、俺が心配をかけるわけにはいかない。お義父さんもお義母さんも何か言いたそうな雰囲気ではあったが、先生のいる部屋に辿り着いたのでそれらが音になることはなかった。
先生からは、名前は奇跡的に身体に大きな傷を負っておらず軽傷だということ、日常生活に支障をきたすような所見は何も見られないこと、そして一部の記憶だけが一時的に喪失していることを告げられた。一部の記憶というのは、間違いなく俺のことだ。


「なんで俺のことだけ忘れてしまったんですか?」
「…これは飽くまでも憶測に過ぎませんが…名字さんにとってあなたの存在があまりにも大きかったのではないでしょうか。想いが強ければ強いものほど、なぜか記憶を失いやすくなってしまうんです」


先生の言葉をきいて、名前が俺のことをそれだけ想っていてくれたんだと思うと、ほんの少し救われたような気がした。けれど、だからと言ってこの事実を受け止めきれるわけではない。


「いつになったら、戻るんですか」
「それは…分かりません。明日かもしれないし、1年後かもしれないし、一生戻らないかもしれない」
「そんな…!」
「しかし、無理に思い出させてはいけません。そうすることで名字さん自身を苦しませることになり兼ねませんから」


絶望とは、まさに今のような状況のことを言うのだろう。幸せだったのに。これから先も幸せでいられるはずだったのに。なぜこんなことになってしまったのだろう。
もしかしたらさっきは気が動転していただけで、落ち着いたら思い出してくれるかもしれない。一縷の望みをかけて名前の病室に行くと、そこには俺が連絡したためか天童が見舞いに来ていた。挨拶もそこそこに、俺が名前に話しかけようとした時、名前から天童に投げかけられた質問に、俺はまた心を抉られる。やっぱり、俺のことは覚えていないんだ、と。認識せざるを得なかった。
自分のことを覚えていない、ということを天童に伝えるのに、どれだけの労力を費やしただろう。俺はもうその場にいることが辛くて堪らなくて、逃げるようにその場を立ち去った。ゆっくり休めよ、と、せめてもの優しさで送った言葉は、名前にきちんと届いただろうか。
生きていさえすればいい。そう思っていたくせに、生きていてもこれじゃあ意味ないじゃないか、と思ってしまった自分を叱責する。事故に遭って元気に生きているだけで奇跡みたいなものじゃないか。記憶なんてきっとすぐに戻るはずだ。何度もそう言い聞かせたけれど、心のどこかで、こんなのってあんまりだ、もう一生俺のことは思い出してくれないかもしれない、と思っている自分がいる。
帰り道、珍しくも無言だった天童が、漸く重たい口を開く。あの天童が言葉を選んでいるのは初めてのことかもしれない。


「英太君…その…さ、ごめん…元気付けてあげたいんだけど…いい言葉が思い浮かばないんだよネ…」
「お前がそんなだと調子狂うだろ…」
「大丈夫?……じゃないよねェ…」
「あー…これからどうすりゃいいんだろうな…」


俺が呟いた言葉に、天童は何も答えてくれなかった。



◇ ◇ ◇



英太君から名前ちゃんが事故に遭ったと連絡がきた時には、こんな俺でも結構動揺した。名前ちゃんは、俺の長い人生のたった3年間、高校時代にバレー部員とマネージャーとして過ごしただけの、単なる同級生。それでも、そのたった3年間は10年にも相当するんじゃないかってぐらい濃いものだったから、俺の中で高校時代に築いた関係っていうのはかなり重要だったりする。
名前ちゃんのことも心配だったけど、俺がもっと心配だったのは英太君の方だ。2人が付き合い始めたのは、高校3年生になってすぐのこと。両片思いでしょ、って期間が相当長かったから、俺が痺れを切らして英太君の背中を押した。所謂、キューピッドになってあげたわけだ。そんな2人が社会人になった今でも恋人関係を続けているというのだから、キューピッド冥利に尽きる。
英太君、名前ちゃんにもしものことがあったら死んじゃうんじゃないかな…。そう危ぶんでいたけれど、病室に入ると思ったより元気そうな名前ちゃんの姿があって安心した。普通に会話もできるし、パッと見た感じ大きな傷もなさそうだ。
心配する必要なかったじゃん、と思ったのも束の間。英太君が現れてから、俺はその考えを改めざるを得なくなった。なんと名前ちゃんは、英太君のことだけ綺麗さっぱり忘れているようなのだ。覚えていないらしい、と。そう言った時の英太君の表情といったら。いっそ死にたいとすら言いたげだったように思う。
英太君と2人で歩く帰り道。俺は柄にもなく、どう声をかけようかと考えあぐねていた。元気出して、とか、大丈夫だよ、なんて無責任なことは、とてもじゃないが言えない。俺が素直にその気持ちを言葉にすると、英太君は泣きそうな顔で笑って。途方に暮れたように、どうしようかなあと呟いた。
もしもカミサマってものがいるのなら、2人にこんなひどい仕打ちをした理由を尋ねてみたい。どんな理由だって許してやらないけどさ。俺は何も言えぬまま、英太君の歪んだ横顔を眺めていることしかできなかった。

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