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第三話


 ふう、と煙管から口を離して息を吐きだす。吐かれた息は白く、煙はゆらゆらと天井に向かって上がっては、開いた窓に吸い込まれて外へと逃げて行く。その様子を、シャイロックはぼんやりと眺めていた。

 片方だけ開けられたカーテンからは日差しが入り込み、明かりの無い部屋を薄暗く照らしている。少しだけ空いた窓からは微かに風が吹き込み、それと一緒に街の人々の話し声も連れてきていた。穏やかな朝だった。

 シャイロックは枕やクッションを背もたれにしてベッドに腰を掛け、ぼんやりと煙管をふかしていた。きっちりと結わいた長い髪は下ろして、服もはだけている。

 こうして何もせずにぼんやりと時間が過ぎ去るのを待ってから、どれくらい時間が経っただろう。仕事を終えて、部屋に帰り、シャワーを浴びてからずっとこうしている気がする。

 ふと、視線を下ろして傍らに向ければ、人間の姿をした彼女が眠っている。布団に包まって静かに寝息を立てている彼女。眠っている姿も美しく、おとぎ話の眠り姫にも思えてくる。けれど、その顔色は悪く、透き通るように白い肌は青白い。最近は食欲も無くなってあまり食べなくなったせいで、その身体も痩せこけていた。

 シャイロックは目を伏せて、煙管に口を付けた。

 頭の中に浮かんでくるのは、ムルの言葉だ。そんなこと、言われなくとも分かり切っている。彼女が体調を崩し始めた時期と、海が荒れ始めた時期は、ちょうど同じ頃だ。言われずとも、分かっている。海から来た未知数な存在である彼女が、海となんらかの繋がりがあることぐらい、疾うに気づいている。気づいていたのだ。それでも。


「ねえ、シャイロック。本当は君、最初から気付いていたんだろう?」


 耳障りな言葉に、眉をひそめた。

 傍らで彼女が動く気配がした。煙管から口を離して、はっと目を向けれる。どうやら目を覚ましたようだ。


「おはようございます」


 目を覚ましたばかりでまだぼんやりとしている彼女は、もぞもぞと布団の中で動いてから上半身を起こし、眠たげな目を擦る。くすりと笑みを零して、乱れた髪をとかすように指で触れれば、柔らかい髪は指の隙間をさらさらと流れていく。日差しに照らされた彼女の髪は、太陽に照らされた海のようだった。


「体調はどうですか」


 見るからにあまり体調の良くない彼女に問いかければ、彼女はにこりと微笑んで答える。笑って、大丈夫だと、平気だと伝えてくるが、明らかに芳しくないことは明白だ。

 無理をする彼女を目の前に、シャイロックは押し黙って目を細めた。手を伸ばしてそっと頬を撫でれば、それに手を添えて嬉しそうに頬を緩めて押し付けてくる。それが健気で、愛らしくて。可愛くて、愛しくて。シャイロックはふ、と眉根を下げて笑った。


「ねえ、私の話を聞いてくれますか」


 頬を撫でながらそう言えば、彼女は不思議そうに目を丸くして首を傾げた。

 その真っ青な瞳に、自分の姿が映り込むのを見る。きっと、自分の瞳にも彼女の姿が映り込んでいるのだろう。その高揚感に、酔いしれる。その眼差しを受けながら、シャイロックはじっと目に焼き付けるように見つめていた。そして、どこか愁いを帯びながら、けれどその口元には笑みを浮かべて、シャイロックはおもむろに口を開く。


「――海へ帰りましょう」


 騒音が消えて、世界から音がかき消された。それなのに、遠くの海で波打つ音だけは聞こえていて、やけにそれが耳に付いた。

 真っ青な瞳は、零れ落ちてしまいそうなほど大きく見開いていて、呆然と立ち尽くしている。


「貴方と海は繋がっている、そうなのでしょう」


 ゆるゆると首を横に振った彼女に、シャイロックは続ける。彼女は口をぱくぱくと開けるが、そこから言葉が発せられることは無く、最後は口を閉ざして俯いた。シャイロックはそんな彼女の頬を両手で包み込んで、伏せた顔をそっと持ち上げる。


「海へ帰りましょう。そうすれば、貴方の体調も治る」


 持ち上げた顔を覗き込むようにして視線を合わせる。伏せられた瞳はゆらゆらと揺れていて、眉根を下げてきゅっと唇を噤んでいる。その表情に、愁いとは反対の感情も溢れてくる。


「大丈夫、一生の別れではないのですから」


 言い聞かせるように告げた。けれど、それが自分になのか、彼女に向けてなのか、シャイロックには分からなかった。ちらりとこちらを窺うように見上げてくる彼女に、安心させるように笑顔を浮かべる。そのまま、こつりと額を合わせた。


「また……私に、貴方の元気な姿を見せてください」


 こくり、瞼をそっと閉じた彼女は、小さく小さく頷いた。

 抱き寄せた身体は頼りなくて、背中に回された手は皴になるほど強く服を握る。縋りつく彼女をそっと抱きしめて、二人は長いあいだ抱擁を交わしていた。





 吹き付ける風は冷たくて、少し強い。

 波打つ海は、いつもなら穏やかにそのさざ波を揺らしているのに、今は大きな波音を響かせながらこちらを飲み込む勢いで波を立てている。

 波を立てて舞った水飛沫が風に乗って、頬を濡らした。そのまま海に近づけば、海に晒されて足元が濡れる。

 辺りには人の気配はない。いくら好奇心旺盛な西の国の人々でも、荒れる海に近づく物好きはいなかった。


「さあ、着きましたよ」


 海を目の前にして、横抱きに抱えた彼女に告げる。すると顔を上げ、大きく波打つ海を見つめた。

 彼女がこうして海に来たのは、彼女を此処で拾った時以来だ。あれ以来、彼女は部屋の水槽の中にいたし、歩けるようになって外にも何度か足を運ぶようになっても、海には近づかなかった。海へ行けば自由なのに、と思っていたこともあったが、実際のところは、自分が彼女を海に近づけなかっただけかもしれない。けれど、今になってはもうどちらでも良い。

 海を見つめる彼女がほっと息を漏らした。彼女にはどう海が見えているのか、シャイロックには分からない。それが安堵なのか、嘆きなのかも、シャイロックには知る由がない。

 海から目を逸らした彼女は、また顔を伏せて、力なく服をぎゅっと掴んだ。


「大丈夫ですよ、またすぐに会えるのですから」


 そうでしょう、とシャイロックは続けた。最初は不安そうにシャイロックを見上げていた彼女だったが、やがては眉根を下げたまま笑顔を作った。それを見て、シャイロックはそっと笑む。

 立ち止まった足を動かして、海へと入る。水の中は人の足では動きにくく、波が激しいせいで、気を付けないと足を取られてしまう。シャイロックは慎重に足を動かして、海の中へ入って行った。

 膝辺りまで海に浸かったところで、シャイロックはふいに立ち止まった。進もうにも、足が重くて進めない。まるで、これ以上入ってくることを拒まれているようだった。足元から身体が冷えていくのを感じながら、シャイロックは身体をかがめて、彼女の足を海に触れさせた。


「さあ、貴方の帰るべき場所へ――お帰りなさい」


 そっと頷いて、彼女は海へと振り向いた。そのまま海へと向かって身体を乗り出したが、途中でぴたりと止まって、こちらに振り返る。そしてなにかを訴えるように、ぐっと服を掴んできた。


「どうしました――」


 ぐっと力を込めて引っ張られて、思わず上半身を丸める。それに驚いていると、彼女は身体を起こして、そっと耳元に顔を寄せた。


「――」


 囁かれた言葉に、息を呑む。

 囁かれた言葉に、呆然と目を見開いた。

 耳元から離れ、向かい合った彼女は、静かに微笑んでいて。そして、腕の中から離れて――海へと姿を消した。

 最後に見たのは、あの美しい青い尾ひれを持った彼女の姿で。シャイロックはひとり、海に立ち尽くしていた。