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第二話


 カラン、と扉のベルが揺られて、扉が閉まった。

 夜の酒場には多くの魔法使いたちが集まって、交流を深めたり、ひとりで酒を飲んで過ぎる時間を楽しんでいたり、とあちらこちらから人の話し声が耳を刺激していた。けれどそれも、今ではすっかり静かになって、最後の客が、また来る、と一言言い残して店を出て行ってしまった。

 ひとりになった酒場で、壁にかけられた時計に目を向けた。時計の針はちょうど店の閉店時間を指している。シャイロックは煙管を片手に呪文を唱えて、外の扉にかけている看板を『close』にひっくり返し、そっと息をついた。

 店の営業時間を終え、すぐさまシャイロックは閉店の準備をし始めた。すると、閉店時間を過ぎているというのに、扉のベルがカラン、カラン、と鳴った。


「やあ、シャイロック」


 店がすでに営業を終了しているのに気づいておきながら平然と入ってきたのは、やはりムルだった。ムルはそのまま店の中に入り、いつものカウンター席に腰を下ろす。

 いつもながらの彼の行動に、やれやれとしながら「今日の営業はもう終了しているのですが」と伝えるが、ムルはフッと笑むだけで店を出て行く気は無い。早く店を閉めたい気持ちもあるが、彼を追い出すより彼の用件を済ませた方が早いだろう。シャイロックはため息を一つ落として、後片付けの手を止めてムルのカクテルを作り始めた。


「その様子だと、彼女の体調はまだ治ってないみたいだね」


 ぴたりとカクテルを作る手を止めて、盗み見るようにちらりとムルを見やった。ムルはテーブルに肘を付きながら、相変わらずの表情でこちらの様子を窺っている。

 わずかに逸っていた様子が出てしまったのか、はたまたかまをかけただけなのか。けれどそんなことを気にしていても仕方がない。シャイロックは止めていた手を再び動かして、カクテルを差し出した。


「ええ、困ったものです。医者に診せる訳にもいきませんからね」


 彼女が体調を崩し始めてから、もう数日も過ぎている。なのに回復の見込みは無く、体調は悪化していくばかり。思いつく限りの対処はしてきたが、それが功を奏でたことは今のところない。何度か知人の医者を尋ねてみようとも考えたが、彼女の存在を外へ晒すのは危険すぎる。それに、未知数な彼女の身体について聞いたところで、いくら経験豊富な魔法使いでも役には立たないだろう。しかし、いつまでも彼女を放っておくこともできない。

 口を閉ざし、グラスを磨く手だけを動かして思いふけるシャイロックを、ムルは黙って眺めた。グラスを傾けて、酒を舌で転がして飲み込む。ふと。、ムルは視線を逸らして窓を見つめた。外は暗くてよく見えないが、エメラルド色の瞳はじっとなにかを見つめていた。


「そういえば、最近はひどく海が荒れているね」


 視線を上げれば、ムルは窓の向こうを見つめていた。それにつられてシャイロックも窓の向こうに視線を向けたが、外は暗すぎて、外の様子が見えない。


「ええ、そのようですね」


 ムルの言う通り、ここ最近の西の国の海は荒れていた。中央を除いた各国は海沿いの国で、それぞれ国ごとに海の様子に特徴があるが、西の国の海は比較的に穏やかだ。時々いまのように荒れることもある気分屋なところは、まさに西の国の特徴を持っているだろう。しかし、ここ最近のように長く海が荒れることは、覚えている限り無い。


「まるで止まることを知らないみたいに、荒れは日に日にひどくなっている」


 波音は徐々に大きくなり、波はどんどん高くなる。今では誰も船を出さず、恐れた人間たちの噂話が広がるばかり。


「それはもう、怒り狂っているかのように、嘆き悲しんでいるかのように」


 詩でも詠うような口ぶりで、そっと目を細めてくるムルに、シャイロックは怪訝な表情を浮かべた。


「……なにが言いたいんですか」


 静かに、その唇に笑みが浮かんだ。


「彼女は海から来た……そうだよね、シャイロック」


 シャイロックはムルの言葉の意図が読み取れず、さらに眉根を寄せた。いったい、彼がなにを言いたいのか分からない。まったく糸口がつかめなかった。

 そんなシャイロックに、ムルは促すように言葉を続けた。


「ほら、気付かないかい?」


 身を乗り出して、下から覗き込むように見上げれば、シャイロックは驚いて少しばかり身体を仰け反った。彼の赤い瞳は戸惑いと困惑に満ちて、ゆらゆら揺れている。まるで海みたいに。それを見てほくそ笑んだムルは、そっと口を開いた。


「海が荒れ始めたのは、ちょうど彼女の体調が悪くなった時だ」


 ――ねえ、シャイロック。本当は君、最初から気付いていたんだろう?