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第四話


 彼女が海に帰ってからというもの、荒れ狂っていた海は穏やかに凪ぎはじめた。あれほど大波を立てて、いつか波が街を襲うのではないかと囁かれていたというのに、それはぱたりと姿を消して、普段通りの穏やかに波打つ海へと戻っていた。

 あれから数日がすでに過ぎ去ったが、あれ以来海が荒れることは無い。不安に噂をしていた人間も、不思議がって話題に上げていた魔法使いも、あれはただの異常気象だと言って、なんでもない過去の日として置き去って行った。


「彼女を海に帰したようだね」


 特等席に腰を掛けたムルが、カウンターテーブルに肘を付きながらニヤリと笑んだ。

 酒場は多くの魔法使いたちで賑わっていて、あちらこちらから話し声が聞こえてくる。そんな騒がしいなかで、ぽつりと静かに放たれたその声は、なぜだかはっきりと聞こえた。


「よく言いますよ」


 目を細めたエメラルド色の瞳に悪態をつきながら、シャイロックはため息を落とした。

 あの緑色の瞳が、今は少し憎らしい。いや、彼を恨めしく思うことなどいつものことだ。シャイロックはグラスに瓶を傾け、カクテルを作り、それを差し出す。

 ムルはグラスを受け取ると、それをくるくると手首で揺らし、海のように波打つ水面を眺めた。


「淋しいかい、シャイロック」


 海のような青色をしたカクテル。それをかざしながら、グラス越しにシャイロックを見つめる。

 真直ぐな眼差しは、自分さえも知らない奥深くを覗いてくる。


「どうして、そう思うんです」


 声色はそのままに、シャイロックは静かに尋ねた。

 グラス越しに見つめてくる瞳は、じっとこちらを捉えたまま、そっと笑む。


「君が落ち込んでいるように見えたからさ」


 シャイロックは目を丸くして、目の前のムルを見下ろした。まさかそんな回答が返ってくるとは思わなかったのだ。驚いたままに呆然としていると、ムルは面白そうに口角を上げてグラスを口元へ引き寄せる。その様子を、シャイロックはぼんやりと眺めていた。

 ふいに、口端が上がった。それにつられて、思わず笑みが零れ落ちる。

 ふふ、と笑みを浮かべたシャイロックは、晴ればれとした様子で楽しげに続けた。


「私は西の魔法使い。それさえも、楽しんでみせますとも」


 西の国の魔法使いは、自由奔放で享楽的。魅力的で刺激的なことが大好きな気分屋。彼らにとっては、自分を振り回す感情一つさえも魅力的な快楽の一つだ。
 




〇 ● 〇




 波音がする。

 引き寄せては、遠ざかって。遠くへ行っては、向かってきて。それは、手を伸ばしてもすり抜けて行くような感覚に似ている。

 波音がする。

 そっと静かに吹いた風を受けて、海はさざ波を立てる。飛び跳ねた水飛沫が肌に触れて、少し冷たい。

 足元が濡れるのも厭わず海に近づいた。すると、静かに波打った海が靴を濡らした。ふと、視線を下ろすと、海波にさらわれて流れ着いた小さない貝殻があった。淡い桃色をした貝殻は愛らしく、シャイロックはそっと笑みを零した。


「貴方が居なくなってから、随分と経ちましたね」


 波打つ海に向けて、シャイロックは笑いかけながら言い放った。

 かつて、美しい人魚が此処に流れ着いた。美しい顔立ちをした、美しい女。その髪は海のように青く、その足には美しい鱗を持った尾ひれ。水の中を踊るように泳ぐ姿は、さながら妖精のようで、思わず見惚れてしまうほど、幻想的だった。

 陸にやってきた人魚。その彼女を海に帰してから、もう数十年の月日が過ぎ去っていた。

 魔法使いは長寿の種族だ。数千年の単位で生きる彼らにとって、たった数十年はあっという間のもので、人間の生涯の時間も瞬きの間だ。

 待つのは得意だ。与えられた時間も長い。それを持て余しながら、のんびりと待つのは焦れったくて楽しい、はずだった。


「どうしてでしょうね」


 なぜか、胸がもやもやとしたなにかに覆われた。それと同時に、胸のあたりがぽっかりと穴が開いたような、言い知れない喪失感に襲われた。それは確実に、時間が経てば経つほど大きくなって、その存在を知らしめる。


「もう随分と経つというのに、貴方という存在を忘れられないのです」


 気づけば、あの美しい青を目で追っていた。そっと耳を澄まして、波音に身を委ねていた。ふとすれば、彼女の存在を思い出していた。そんな感覚は初めてで、そんなふうに誰かを想うのは初めてで、まるで恋でもしているみたいな感覚だ。


「貴方はなんて素敵なものを贈ってくれたのでしょう」


 満たされていく感覚に包まれると同時に、ぽっかりと空いた喪失感に蝕まれる。それは今まで感じたことの無い感情で、そのひとつひとつが愛おしくてたまらない。宝石のように美しい輝きを放っているわけではない。けれどそれは、小さくて綺麗な小石や貝殻をひとつひとつ拾い上げて、小さな瓶詰につめるような、そんなものだった。

 腕に抱いていた色とりどりの花で彩られた花束を、そっと海に流した。花は海に浮かんで、その水面に色を飾る。波に揺られてゆらゆらと揺蕩い、ずっとずっと向こうへ流れて、最後は海の底へ沈んでいく。


「――さようなら、私の人魚姫(メルジーナ)」


 あの思い出も、記憶も、小さな瓶詰に詰め込んだ貝殻と共に。