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第一話


 日に日に二本足で歩くことに慣れていった彼女は、やがてひとりで自由に歩くことができるようになった。ひとりで歩けるようになったのがよほど嬉しかったのか、当初の彼女は幼い子供のようにはしゃいでいた。飽きもせず、部屋を歩き回る姿はなんとも可愛らしい。自由に部屋を闊歩できるようになると、自分の後をついて来るようにもなって、微笑ましく思えた。

 予想よりも早く歩けるようになった彼女に、ムルはまた楽しげに彼女を観察していたが、どちらかというと尾ひれの一本足と人間の二本足のどちらをも使いこなす彼女の生態が気になるようであった。

 人間の姿で歩けるようになった彼女を、外へ連れ出したこともあった。人間の姿であれば、見目はなんら自分たちと変わらない。人間の目に晒しても、危険なことは無い。少しばかり彼女を外へ連れ出すのに抵抗はあったが、知らない外の世界に目を輝かせる姿を見て、そっと飲み込んだ。

 散歩として近くの場所をのんびりと歩きまわっただけだったが、彼女には目に映るすべてのものが新鮮のようで、随時興味津々にあたりを見渡していた。行き交う人々や建物、食べ物に小物、歩く地面さえ、彼女にとっては初めて経験するもので、不思議でならなかったのだ。そんな素直にありのままを受け入れる彼女の姿を見ていたら、外へ連れ出すことに抵抗を覚えていたことなんて、すっかり忘れてしまっていた。

 それからは時々、二人で街へ出かけることが多くなった。時々、呼んでもいないのにムルが加わることもあったが、彼女が楽しそうにしているのなら、と文句を並べるのは止めた。

 彼女は特に食べ歩きを好んでいた。海にいたころにどんな食生活をしていたのかは想像するしかないが、基本的になんでも美味しそうに食べていた。これなら部屋にいたころにももっと色々なものを食べせておけばよかった、とシャイロックは秘かに思った。なかでも彼女が気に入ったのはアイスだ。見る限り、温かいものより冷たいものを好んでいるように見える。やはり海に生息する彼女にとって、温かいものは嫌いではないが、苦手なのかもしれない。

 物に関して言えば、彼女はランプに興味を示していた。先日、部屋を歩き回れるようになってからのことだ。部屋を暖めていた火が気になったのか、彼女はおもむろに手を伸ばして、それに触れようとしたことがある。間一髪で彼女の手を掴んで、火傷にはならなかったが、あの時は思わず肝を冷やした。当の本人は呆然と目を丸くしていたから、火が熱いものだと知らなかったのだろう。それもそうだろう。海の中に、水の中に、火は無いのだから。だからこそ、彼女にとって燃える炎は不思議だったのだ。

 そんな平和で穏やかで、彼女と一緒に過ごす日々が当たり前になっていった、そんなある時。彼女の身体に異変が起こった。

 最初は食欲が無くなった。あんなに美味しそうに頬を膨らませて食べていたというのに、徐々に食べる量や回数が減り、最近は食事をすることも拒み始めた。最初は、風邪を引いただけだと思っていた。ゆっくりと休んで、薬を飲めば治ると思った。けれど、熱などの風の症状は一切なかった。原因が分からぬまま、時間だけは過ぎていき、彼女の体調は日に日に悪化していくばかり。最近は水槽の中にも戻らず、ベッドやソファにぐったりと横になっているばかりだ。


「困りましたね」


 今日も食事を断られ、シャイロックはベッドで蹲る彼女を心配げに見下ろした。

 人の身体ならまだしも、人魚である彼女の身体は未知数だ。こればかりは、医学的知識を持たないシャイロックには手におえない。一度、彼女が体調を崩したことをムルに話したことがあるが、いくら天才学者でも、今まで見たことも確認されたことも無い人魚の身体についてなんて分かるはずもなかった。それでもムルに話をしたのは、どこかでムルなら分かるのでは、と期待したせいだろう。


「辛いですか」


 きゅっと眉を寄せて瞼を閉じる彼女を労わるように、指の背で青白い頬を撫でる。自分ではどうすることもできない歯がゆさに、シャイロックはため息にも似た息をそっと吐きだした。

 ふと、開けていた窓から波音が聞こえてきた。それと共に、冷たい風も部屋に入り込んでくる。

 シャイロックは窓を覗き込んだ。空はどんよりとした曇り空で、天気が悪い。風も少しばかり強く、吹き付けられて身体の体温が下がるのを感じる。此処からだと、建物の隙間から遠くの海が見えた。建物の合間から覗く海は見えづらいが、それでも大きく波を立てているのは窺えた。


「悪い天気ですね」


 波音がする。

 シャイロックはそれを遮断するように、ガタンと窓を閉めた。