それはひとしずくの毒
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 小麦粉は予めふるいにかけておく。バターは常温にして置いておく。分量は全てきっちり。昔むかぁし母に料理を教われども、その全てを学んでいない彼女にとって、男が目の前で作るそれに目を輝かせるには十分すぎるほどだった。
 一人で住むにはあまりにも大きな洋館の一角、広々としたキッチンでアイボリー色のエプロンをしたフィスチェは館の主、シェスターナー=リヴラと共にいた。
「料理経験は?」
「お母さんに少し教えてもらったくらいです。十歳になる前から手伝いはしていたんですけど……」
 その続きは、恐らく叶わない願い。それを口に出すことなく、少女――フィスチェ・アーヴァンロンカは久方に落ち着いた黒髪をリボンで纏め上げる。男に渡された明るい青磁色のリボンは、彼女が身に纏う黒衣からしたらだいぶ浮いて見えたものの、それでも彼女はそれを使う。
 慣れた手つきで木べらを持ち材料を混ぜる男の横で、フィスチェはまじまじとシェスターナーの手を見つめる。元々皮膚が弱いこともあり旅で大いに荒れた自分の手を、手入れの行き届いた男の手をどうしても比較してしまうのだ。さかむけひび割れ常習犯なこの手は、とてもではないが美しいとは言えない。
「――さん、フィスチェさん」
 ぼんやりと自分の手を見下ろしていたフィスチェに、落ち付き払った男の柔らかな声がかかる。ふと顔をあげれば、リボンと同じ青磁色の瞳を和らげつつ、シェスターナーが己の右手を此方へ向ける。
「見ているだけではつまらないでしょう? 一緒にやりましょう?」
 そう言われ、フィスチェは大人しくその言葉に従い、改めてシェスターナーの右横に立つ。頭一つ分高い位置にある、青いリボンに纏められつつもさらさらと流れる彼の金髪が、やけに眩しい。
 実際に木べらを持ち、混ぜてみる。意外と重いその感触に素直に驚き、ボールをしっかりと抱えながら混ぜる作業に奮闘する。そうしているうちに材料が混ざり、比例するかのようにフィスチェの腕も疲れてきたようで、シェスターナーが「もういいですよ」と声をかけた頃にはすっかり疲れ果てていた。
「えっと、次はどうすれば……」
「あぁ。そこのバニラエッセンスを取ってください」
「バニラ……?」
「茶色の小瓶ですよ。白い花が描かれている」
 言われ、フィスチェが青い隻眼を向ければ、調味料が整理して置かれている棚の中で白い花が描かれた小さな小瓶が鎮座していた。
「本来、クッキーなどの焼き菓子にはバニラオイルを使うのが主流なのですが、生憎切らしてましてね……。焼き菓子にバニラエッセンスを使うと匂いが飛びやすいのですが、入れないよりましなので」
 フィスチェがまじまじと小瓶を見ている横で、シェスターナーがにこやかにすらすらと説明する。が、言っていることの半分も理解していなかったフィスチェはなんとなしに小瓶の蓋を開け、中から発せられるきつく甘い匂いに目を見開いた。あまい、あまい、甘過ぎて、鼻がもげそうだ。
 思わず渋面を作ったフィスチェに苦笑を向けながら、シェスターナーが「この中に三滴入れてください。三滴ですよ」と念を入れつつフィスチェに作業を促す。そう言われフィスチェは瓶を逆さまにしてみる。出ない。振ってみたら簡単に三滴の茶色い水滴があっさりと生地の中に吸い込まれていき、そもそもこの材料がなんなのかを理解していない彼女としては本当にこれでいいのかと首を傾げてしまう。
「そもそもバニラは香り付けのものですからね、大量には使いません。覚えておいた方がいいでしょうね」
 そう言いながら手慣れた様子でシェスターナーは生地を混ぜ合わせ、焼く工程に入っていく。その横でバニラエッセンスの小瓶と睨めっこしていたフィスチェは、ふと思いつき蓋の開いたままの小瓶の先を指で撫でる。こんなにも甘いにおいがするのだから、中身だってきっと甘い筈――そんな希望を抱きつつ、ぺろりと掬った指を舐めてみた。
「うっ……!」
 瞬間、舌を襲ったのは強烈な苦みだった。思わず口を押さえたフィスチェの横で、シェスターナーがくすくすと苦笑を洩らしている。見ようによっては笑いを堪えているようだ。
「舐めましたね?」
 どこか楽しげに問う男に対して盛大に首を横に振ったフィスチェだったがしかし、どうやら目の前の男からしたら全てお見通しだったらしく、彼は動かしていた手を止めて、その場を離れる。
 苦みに耐え抜きなんとか小瓶の蓋を閉めたフィスチェの目の前に差し出されたのは、一つのキャンディー。ポップな赤いイラストが特徴的な包み紙が施されたそれを差し出しつつ、フィスチェの目線に合わせて身をかがませた館の主はにこやかに笑う。
「あくまで香り付けのものですからね、これは。だから、入れるのもほんの数滴で大丈夫なんですよ」
 そう言いながらシェスターナーはフィスチェの手からバニラエッセンスの小瓶を取り上げ、代わりに赤いキャンディーを握らせる。
「これでも舐めておいてください。これが口の中から消えるころには苦みも取れていると思うのでね。――あぁ、それから」
 体勢を変えちゃんと立ったシェスターナーが、キャンディーの包み紙を開けるフィスチェを見下ろす。
「甘い匂いに釣られないよう、気を付けた方がいいですよ。甘言に騙されて辛酸をなめる羽目になりかねませんから、ね」
「……見た目で判断するな、ということですか?」
「ええ、そうです。この場合は見た目ではなく匂いですが」
 くすり、とシェスターナーが笑う。それを見上げながら、フィスチェは口の中でキャンディーを転がす。甘酸っぱい苺の味の中で、バニラエッセンスの苦いにがい味が舌に染みついて取れなかった。ただ、なんとなしに、口に入れたばかりのキャンディーを噛み砕きたい衝動に駆られた。

それはひとしずくの毒
(甘い匂いの全てが甘い訳ではなく、)






(H23/10/15)
ツイッター上のフォロワーさん方とチャットをした際に行ったプチ覆面企画で書いた、突発にも程がある作品。ツイッターで紹介しているキャラクターを起用しました。覆面企画、というものに関してはググってください。
ここに出てきたフィスチェという子の話、構想だけはあるんで、機会があれば書きたいなどと……!
そしてもう一人は、言わずと知れた(?)『花楓と残月』に登場しているあの人物です。









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