▼ 第一章
じゃり、と下駄が小石を踏んだ音が嫌に響いた。
本丸を包むように漂う不穏な空気は、以前の審神者が去ってしまった為にその神気が薄れてしまった故だとか。
「まずは、この空気を清めなくては」
自分にその心得があってよかったと思いつつ、そっと草履を脱いで中へと足を踏み入れた。
しかし目の前に続く廊下を見てすぐに眉を顰めた。
「…物理的にも清めないといけないわね」
薄暗い廊下には埃の他に何故か泥が跳ねていた。
奥に進むにつれて室内は埃っぽくどこか黴臭い。
人の気配を探りつつ、桜花は閉め切られていた雨戸を端から開け放っていった。
九尾もまた主に倣い向こう側から雨戸を開けてくれていた。
「それにしても、随分と広い。結界を張るだけでも苦労しそう」
「刀剣とは数十口もいるとか。当然でしょうね」
「まぁ、私より勉強しているのね」
すごい、とからかうように笑えば向かい側の九尾が口を尖らせていた。
この度審神者を引き受けるにあたり、桜花も幾つか政府に条件を出していた。
その内の一つが、自分に仕える九尾を連れていくこと。
妖である九尾を連れて行くのは些か心配だったが、当の九尾は当然とでも言うかのように「お供します」と言って聞かなかった。
その時の男の顔が何とも複雑そうで、思い出すと少し気分が良い。
九尾をからかいつつ本丸内を探索し階段を上ってみると、他と比べて豪奢な襖が目に入った。
引手部分には房まで付けられている。
「どうやら、ここが審神者の部屋らしいですね。人間の臭いがします」
すん、と鼻を鳴らして九尾が言った。
開けるべきか、と桜花がその引手に手を掛けた時だった。
ギシッと背後で床の鳴る音がし、桜花と九尾はすぐに振り返った。
そしてほんの一瞬だったが、柱の陰からこちらを伺う姿をその目に捉えていた。
「刀剣でしょうか?」
「でも随分と小さな…子どもの様にも見えたのだけれど、そんな刀剣もいるのかしら」
耳を澄ませば遠ざかっていく足音も聞こえる。
その音は大人よりも幾らか軽い音だった。
「何振りか残っている、というのは本当でしたね。こちらに危害を加えるようでしたら…私が斬りますが」
腰に携えた刀を触り、九尾が桜花を見る。
「お止めなさい。いくら貴方でも相手は神格を持つモノ…ただでは済まないでしょう」
桜花はそう言って微笑むと、着物の裾を払うようにして歩き出した。
周囲をよく観察してみれば埃を被っていない廊下も幾つかあり、やはりここには刀剣男士が複数存在していることが窺えた。
しかし残念ながら、先程から誰にも会うことはなかった。
「避けられているのかしら」
「…気配を消して行動しているつもりでしたが、流石に相手が神であればそれも通用しないということでしょうか」
「ここは彼らの縄張りでもあるから―――」
当然だろう、と続けようとした桜花の耳が不可思議な音を拾った。
同様に九尾もひたりと足を止め、瞳を鋭くさせた。
「―――外に、何かいますね」
九尾の言葉に頷き返し、極力足音を立てないよう本丸の門へと走った。
本来、本丸には審神者の能力により結界が張られており招かれざる者は入れないと聞いていた。
しかしここは審神者不在の本丸だ。
何が起こるかはわからない。
桜花と九尾、それぞれが建物の影に身を潜め門へと気配を集中させた。
あるのは人の気配と神々しい何か。
(まさか…審神者と刀剣男士…!?)
そっと窺い見れば、開かれた門の前に無精髭の男と、その半歩後ろに長身の美しい男が立っていた。
無精髭の男は本丸を見るなり不気味な笑みを浮かべ、その足をこちらへと向けている。
何やら嫌な予感を覚えた桜花は視線で九尾にその場に待機するよう命じると、音も無くその姿を男の前へと晒した。
先に気付いたのは長身の男で、素早く無精髭の男の肩を引いて歩みを止めさせる。
そこで漸く桜花の存在に気付いたか、少しばかり驚いた表情を見せた男だったがすぐにそれは笑みに変わった。
「何だぁ? 女がここで何してる?」
「それはこちらの台詞です。…何用でございますか」
真っ直ぐと男達を見据え、桜花はそう尋ねた。
下卑た男の笑みは深まり桜花を舐めるように見た。
「おまえもここにいるってことは知ってんだろ? この棄てられた本丸にある刀剣のことをよ」
「…前の審神者が残していったという刀剣のことですか?」
「この本丸には珍しい刀剣が眠っているって噂のことだよ」
桜花は目を細めた。
刀剣にも種類があり、個々に性能が備わっているとか。
更に中には易々とお目にかかることのできない刀剣もあるらしいと政府の男は言っていた。
(まさか、そんな刀剣がこの本丸に存在すると…?)
政府の男が言っていた“有名”とは、十中八九その噂の件だろう。
「そら、退けよ。俺はそれを探しに来たんだ」
そう言い放って男は足を進めた。
呆れてものが言えない、とはこのことか。
桜花はため息を吐くと道を塞ぐように男の前へと立ちはだかった。
「ここから先、お通しすることはできません」
「…なんだと」
予期せぬ言葉だったようで男の表情に怒りが宿る。
桜花はその目から視線を外さずに続けた。
「―――本日からこの本丸の主となりました。従ってここは私の本丸。どうぞ、お帰り下さいませ」
一瞬男が言葉を失った。
桜花は一度瞬きすると、男に背を向けた。
「…っはは」
背後の男が笑った声に桜花は静かに振り返る。
「何言ってんだよ、独り占めしようってか女ぁ!!」
男はそう声を荒げると、傍にいた長身の男に視線を向けた。
「やれ」
そう言葉をかけられた長身の男の表情が強張った。
動かない彼を一見した男は、苛立ったように再度声を放った。
「やれって言ってんだろ!!」
瞬間、弾かれたように長身の男は持っていた長い太刀をその柄からすらりと抜いた。
桜花は背後で九尾が動くのを感じた。
「そこにいなさい」
しかしそれを制し、桜花はただ自分に向かってくる刃から視線を逸らさなかった。
肉を裂かれ冷たい何かが肩に刺さる。
その衝撃は強く、思わず身体がよろけたのを両脚で踏ん張った。
長い刃で自分の肩を貫く刀剣男士の表情に変化はないように見えるが、とても驚いているのだろう。
避ける事を予想していたのか、はたまた桜花が平然としているのを見てなのかは分からないが、彼を見てそう思った。
そしてその奥で満足そうに薄汚い笑みを浮かべる男が見え、桜花は思わず口元を緩めた。
「ふふ…」
審神者に選ばれた者が、なんという浅はかな。
一撃を避けることなくその身に受けた桜花は、太刀を伝って滴り落ちる己の血液を目で追っていた。
その一滴が地面にポタリと垂れた。
「―――気は、済みましたか」
桜花の瞳が金色に輝いた。
気付いた男の笑みが凍る。
「何度でも申し上げましょう…」
濡れた漆黒の髪の先から徐々に、まるでその色素が抜けて行くかのように銀へと色を変化させていく。
いつの間にか額には鋭く尖った角が二本生えていた。
「ひっ…」
男が短い悲鳴を上げる。
ぶわりと強い風が吹き、桜花の銀色の髪を靡かせた。
神々しいそれは鬼と呼ばれるに相応しい姿だった。
「ここは、私の本丸。…今すぐに、立ち去りなさい」
ずるり、と音を立てて太刀が肩から引き抜かれる。
「ば、化け物がぁああ!!」
男はそう叫びながら転げるようにして門から出て行った。
そして桜花を貫いた長い太刀を扱う彼は、悲痛な表情をそのままに男を追うようにして門から姿を消した。
その姿が完全に見えなくなると、桜花はずるずるとその場に座り込んだ。
「紅華様!! なんという無茶を…!」
すかさず九尾が駆け寄ってくると、倒れる前にその身体を支えた。
「貴方様なら避けられたはず…!! なぜ…っ」
「あの男には、この本丸に『化け物が出る』と他の審神者に言いふらしてもらうつもりよ…。そうすれば、ああいった連中が来ることもないでしょうに」
「だからと言って…!」
淡い色の着物がじわじわと真っ赤な血に浸食されていくのを見て、九尾は怒りに身体を震わせる。
「九尾、頼みがあるのだけれど」
しかし桜花は何ともないように笑い、懐から数枚の紙を取り出した。
「結界を張るから…これを、この本丸の四方に貼ってきてくれる? おまえの足ならすぐでしょう」
「っですが…!!」
「私は鬼よ。こんな傷…すぐに治るわ」
早く、と急かせば九尾は桜花の身体を柱に預け、狐の姿に戻り姿を消した。
それを見送った桜花は肺に溜めていた息を吐き出した。
熱を持った右肩がずきずきと痛み、思わず左手で抑えればびちゃり、と嫌な音がした。
(思ったよりも出血が多い…)
強くなる痛みに耐えるように目を閉じ、できるだけゆっくりとした呼吸を繰り返していたときだった。
ざり、と近くで足音がした。
ふっと瞼を上げれば目の前に湯飲みが差し出されていた。
目を見開いてそれを見て、それからその湯飲みを持つ細い指先を視線で辿っていく。
白い肌のその先には和装の男の子の姿。
大きな赤い瞳はじっと桜花を見据えていた。
「…おみず」
小さく紡がれた言葉に、桜花は湯飲みの中を見る。
確かに水が入っているのだが、どうしていいかわからなくなった桜花が再び彼を見る。
座り込んでいるせいか、見上げる形になった彼の頬や手には僅かに傷があった。
(まさか…)
桜花が考えあぐねていると、彼はほんの少しだけ距離を詰めてきた。
「のめますか…?」
「っ…」
私に、くれるというのだろうか。
桜花はおそるおそる左手を伸ばした。
触れた湯飲みは冷たく、そっとそれを引き寄せれば彼も手を添えたまま桜花の口元へと湯飲みを持ってきてくれた。
唇に触れた水を口に含み飲み込めば、辛かった呼吸が幾らか楽になった気がした。
「ありが、とう…」
「!!」
微笑みながら彼にお礼を伝えれば、大きな赤い瞳を更に見開いていた。
それが何だかおかしくて、桜花は一度だけ声に出して笑うとその意識をゆっくりと手放した。
混濁していた意識が浮上する。
重い瞼を上げれば、薄暗い部屋の中で九尾がこちらを覗き込んでいるのがわかった。
「九尾…?」
「紅華様…!!」
掠れた声で名を呼べば九尾は安心したように息を吐いた。
「ここは―――…っつ」
見知らぬ室内の布団に寝かされていたと気付き、身体を起こそうとすれば右肩が強く傷んで思わず顔を顰めた。
すかさず九尾がその背に手を回し、桜花よりも悲痛な表情で口を開いた。
「肩の傷は、癒えておりません…。」
「!?」
周囲の薄暗さから、既に日は落ちているのが窺える。
それほど長い時間が経っているのにも関わらず、鬼の身体を持つ自分の傷が癒えていないとはどういうことか。
右肩を見れば、肌蹴た着物の併せから白い布が見え僅かに血が滲んでいた。
「…誤算ね…」
「どういうことでしょうか…」
「あの太刀が、そういった謂れを持つモノなのか…神格ある者の扱う太刀だったからか…考え出せばキリがない」
どう考えようとも、この傷は鬼の力を持ってしてもすぐには癒えないということだ。
甘い考えだった、と桜花が笑えば「笑い事ではありません」と九尾に叱られた。
「それで、ここは…?」
「本丸の中の…比較的綺麗な部屋かと」
「まぁ、よく見つけられたわね」
「…あの者が、案内をしてくれました」
九尾がちらりと障子に目をやった。
桜花も視線をそちらに向ければ、障子の隙間から赤い瞳が見えた。
「あ…」
気を失う前に見た、あの赤い瞳の少年だ。
桜花の視線に気付いたか、彼はまたさっと姿を消してしまう。
「私が札を貼り終え戻ってみれば、あの者が紅華様に付き添っておりました。私を見るなり姿を消しましたが、またすぐに戻り『着いて来い』と」
「それで運んでくれたのね。ありがとう。…それにしても、よく言うことを聞こうと思ったわね、疑り深い貴方が」
「見ず知らずの者が持ってきた水を飲んだ紅華様には言われたくありません」
強くなった声音にやはり怒っていたか、と桜花はバツが悪そうに視線を泳がせる。
「毒が入っていたらどうするおつもりでしたか」
「…入っていなかったわ」
「それは結果論です。」
いつからこうも口うるさくなったのか、この狐の妖は。
桜花がため息を吐くと、また障子の隙間から気配がした。
おそるおそるこちらの様子を窺う彼に、桜花はくすりと笑って手招きした。
「どうぞ、こちらにいらしては下さいませんか」
「っ…」
警戒しているのか、彼が小さく息を飲んだのがわかった。
桜花は困ったように笑い、もう一度口を開いた。
「ならばせめて、お顔を見せては下さいませんか。お礼も言わせて下さい」
「……」
少し間を空けて、すっと障子が開いた。
薄い色の長い髪を右でまとめた、見た目は幼い男の子が姿を見せた。
間違いなく桜花に水を与えてくれた彼だ。
「何もしませんから、どうぞ」
できるだけ優しく微笑み、横を勧めた。
彼は桜花と九尾を交互に見て、それからそっと桜花の元へとやってきた。
きちんと座り、赤い瞳がこちらを見上げてきたのを見て桜花は更に口元を緩めた。
「先程は、ありがとうございました。…紅華、と申します」
「…ぼくは、今剣。よしつねこうのまもりがたななんです…」
義経、とはあの源義経のことかと桜花は驚いた。
ともなれば、彼はやはり刀剣男士であることは間違いなかった。
「この本丸の刀剣ですね」
こくり、と今剣は頷く。
まとめ髪が僅かに乱れているのが見えた。
それをぼんやりと見ていれば、今剣がこちらをじっと見つめていることに気付き我に返った。
真っ直ぐにこちらを見る彼が何かを言いたげにしていると察し、桜花は先を促すように緩やかに瞳を細めた。
察した彼はおずおずと口を開いた。
「…あたらしい、あるじさま…ですか?」
「―――はい、今剣。」
桜花は自分にも言い聞かせるかのようにしっかりと頷いてそう返した。
大きく見開かれた今剣の瞳が、少しだけ潤んだように見えた。
「あたらしい…あるじ、さま」
声が僅かに震えている気がして、桜花はそっと彼の小さな膝に置かれた手を握った。
ぴくりと震えた今剣だったが、やがてくしゃりと顔を歪ませると桜花に飛びついた。
慌てて九尾が身を乗り出したが、桜花は片手を挙げそれを制した。
「あるじ、さまぁ…!」
膝に顔を埋めて泣き出した今剣の頭を静かに撫で、桜花は目を閉じた。
「大丈夫…。もう、大丈夫ですから…」
この本丸の審神者がどうしているのか、またここにいる刀剣達がどうしてきたのかは一切わからない。
今剣の震える身体を受け止めてあげることしか、今の桜花にはできなかった。
―――続
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