▼ 第二章
膝に埋もれてすすり泣く今剣の背を撫で続け、桜花はふとその身体にあった傷が少しずつ癒えていることに気が付いて手を止めた。
水をもらったときにも気付いていたが、彼の身体には所々に傷があった。
それがほんの僅かだが薄れてきていることに疑問を覚えた。
(確か、傷付いた刀剣は手入れをして直すようにと…)
教えられた方法は、確かそうだったはず。
記憶を手繰り寄せていると、ふと今剣が桜花の手にすり寄ってきた。
「あるじさま、とってもあたたかいです…」
いつの間にか涙は止まり、照れたように笑いながら今剣は桜花の手を握る。
「もっと…もっと、なでてください…!」
(今は、いいか…)
桜花は今剣が満足するまで、その身体を撫でてやった。
「紅華様、そろそろお休み下さい。私が部屋の前を見張りましょう」
今剣が寝入ったのを見計らい、九尾が静かに立ち上がった。
「ありがとう、九尾」
「…その刀剣を引きずり出しましょうか」
ちらりと九尾が今剣を見下ろすが、桜花が苦笑いして首を横に振った。
「大丈夫。このまま一緒に休むわ」
「しかし…万が一にも襲ってくれば…」
「彼は私を「主」と呼んだ。…そして私は彼を「今剣」と呼んだ。彼が私に刀を向けることはないでしょう」
貴方と同じよ、と桜花が言えば呆れたように息を吐いた九尾が部屋を出て行った。
桜花は今剣を起こさないようにそっとその身を布団に横たえた。
小さな寝息を聞きつつ、誘われるように瞼を閉じた。
***
「あるじさまー」
誰かに呼ばれて桜花は静かに目を開けた。
ほんのり明るくなった室内が見え、やがてその視界に今剣がひょっこりと顔を覗かせた。
「おきてください、あさですよー!」
昨日とは打って変わって元気なその様子に、桜花は微笑んだ。
「おはよう、今剣」
思わずその頭を撫でてやると、彼は嬉しそうに頬を緩ませる。
それからゆっくりと立ち上がると、昨日よりは幾分右肩の痛みも治まっていた。
「九尾」
障子を開けると、壁に寄り掛かっていた九尾が立ち上がった。
「おはようございます、紅華様」
「おはよう。…何もなかった?」
見渡すように庭を眺めると、昨日よりも清々しい空気に満ちていた。
「はい。…いくつか、こちらに向けられた視線があったこと以外には、何も」
「…そう」
まだ姿を見せない刀剣もいるのだろう、と考えていると左手に今剣が絡まってきた。
「あるじさま」
甘えたように腕にすり寄る彼を一撫でし、桜花は至極優しげに声をかけた。
「今剣、少し聞きたいことがあるのだけれど」
「はい、なんですか」
嬉しそうに顔を上げる今剣に、話を続けようとしたときだった。
「おはようございます、審神者様」
別の声が聞こえ、桜花は弾かれたように顔を上げる。
廊下に派手な化粧をした小さな狐が一匹座っていた。
九尾も気が付かなかったようで、自分と同じように目を見開いてそれを見ていた。
言葉を失っていると、その狐はそのふわっとした尾を一度だけ振った。
「こんのすけ、と申します。審神者についてご説明いたします」
そう言って頭を垂れた。
桜花とこんのすけ、と名乗った狐のみ残された室内。
そこで先日までに聞かされることのなかった話をされた。
昨日の今剣の傷が癒えたことも含めて、だ。
「主さまは特別な力を持った方。恐らくその力が刀剣男士の傷を癒したのかと」
「…けれど、身体の傷は治せても依代を手入れしなければ意味はないのね」
「左様でございます。ですが、刀剣にとってとても甘美な力だったのでしょう」
確かに、今剣は「あたたかい」と喜んでいたように見えた。
「ここは特殊な本丸。このこんのすけが、必ずや主さまのお役に立ってみせましょう」
「それは心強いわ」
これからよろしく、と告げれば一瞬だけ固まったこんのすけだったがやがて深々と頭を下げた。
「本来でしたら、初期刀をお選びいただくことができます。今からでもご入り用でしたらご用意いたしますが」
「いえ、私には今剣がいるから大丈夫です」
「それはよかったです」
こんのすけに言われ、鍛刀や刀装、また手入れの仕方などを教わりながら本丸内を歩いていた。
「ここにいる刀剣は、以前の主が顕現したもの。…必ずしも、主さまに仇なす者がいないとは言い切れません」
ぽつりとこんのすけが言った言葉に、桜花は答えなかった。
やがて庭が一望できる廊下にやってくると、桜花は思い出したようにこんのすけに尋ねた。
「ところで、昨日はとても困るお客様がいらしたのだけれど」
思い出すのは無精髭の男と長身の刀剣男士だ。
「珍しい刀があるという妙な噂が立っているようでは困ります。どうにかできませんか」
「それは事実です」
きっぱりとこんのすけが言った。
「この本丸に顕現している刀剣のすべてを把握しているわけではありませんが…前の主が連れていたのを見たことがあります。」
「それが、珍しい刀だと?」
「はい。滅多にお目にかかることはありません。きっとこの本丸のどこかにございますよ」
それは困った話だ、と桜花は小さく息を吐いた。
「ではこの本丸の新しい主が現れたことを、周知させることはできますか」
「それは大丈夫でしょう。主さまが張った結界がその役目を果たしております。既にここは招かれざる者は入れません」
何と便利な、と桜花が感心していると向かいから今剣が駆けてきた。
「あるじさまー!」
ぱたぱたと足音を立てて、それから桜花の腰元に抱き着いてきた。
「手入れは終わりましたか、今剣」
「はい! ありがとうございます、あるじさま」
今朝よりも顔色が良くなった今剣に、桜花は微笑みを返す。
「お腹が空きましたね。厨はどこでしたか…」
「ぼくがあんないします!!」
「ありがとう」
今剣が桜花の手を引き、歩き出す。
「こんのすけも」
「ありがとうございます」
刀剣達は人間として顕現された以上、飲食や睡眠ができるのだという。
付け加えられたこんのすけの説明に、では食事も必要ではないか、と桜花が慌てて厨へと入っていく。
「主さまが慣れるまで必要なものはこちらでご用意します」
「さすがに私達だけだと何もできないものね」
桜花の心境を覚ってこんのすけが助言してくれたのをありがたく受ける。
襷掛けるその横では今剣が一生懸命桜花を見上げてくる。
手伝いをしてくれるようだ。
こんのすけが手配をしに出て行ったのを見送り、桜花は水回りの掃除から始めた。
「今剣、床を掃いて下さいな」
「はい!」
やはり待っていたか今剣は元気よく返事をすると、箒を手にして掃きだした。
それを微笑ましく見つめ、桜花もまた手を動かした。
少しして、ふと桜花は今朝方今剣に尋ねようとしていたことを思い出した。
「今剣」
「はい、あるじさま」
きちんとこちらに視線を向ける今剣に向き合い、桜花は言葉を続けた。
「前の主は、どんな方だったの?」
一瞬、今剣が表情を消した。
桜花はしまった、と思ったが意外にもそれはすぐに返ってきた。
「よくわかりません。ぼくは、あまりあったことがないから」
「え…?」
「ぼくは、ここにきたばかりだったので」
視線を逸らさずに言った今剣に、思わず桜花の方が視線を逸らしてしまった。
「そう…」
「でも、いまのあるじさまがぼくのあるじさま、です! ぼくはあるじさまのおやくにたてて、とてもうれしいです」
そう言って笑った今剣は本当に嬉しそうだった。
出汁の良い香りに鼻を鳴らした九尾は、厨の裏口でしゃがみ込みながらぼんやりと外を眺めて呟いた。
「匂いに誘われて出てくれば楽で良いのだが…」
昨日からずっと自分達に向けられる視線に居心地がいいはずもなく、九尾はそう悪態を吐く。
加えて視線を感じるものの、どこにどう何人いるのかが分からないというのは正直とても気持ちが悪い。
しかしそんなことはどうでもいいとでも言うかのように、ひたすら麺を茹でることに没頭している主にため息が出た。
「紅華様、傷はもうよろしいのですか?」
「治ったわ。思っていたよりもすごく時間がかかったけれど」
驚いた、と呑気な答えが返ってきた。
またため息を漏らし再び視線を外へと向けたとき、視界を何かが素早く通り抜けた。
「!!」
その動きを追う為に瞬時に地面を蹴った九尾に、気付いた桜花が裏口に急いだ。
「どうかしたの?」
九尾を目で追うと、彼はこちらに背を向けて立っていた。
するとくるりと振り返りすぐに桜花の元へと戻ってくる。
その腕の中には必死に腕から逃れようとする獣がいて、桜花は目を見開いた。
「まぁ…」
「小さな虎です。捕まえましたよ」
満足げにそう笑う九尾が、その白と黒の斑な虎を桜花に見せた。
虎はもがきながら必死に九尾の腕に爪を立てており、すぐに桜花は可哀想に思った。
「…離してあげなさいな」
「何故ですか。せっかく捕まえたのに」
「嫌がっているでしょうに」
がう、と虎が同調するように鳴く。
九尾が唇を尖らせる。
何か言いたげなその様子から察した桜花は、小さくため息を吐くと彼が望む言葉をかけてやった。
「…よくやったわ」
「ありがとうございます」
褒めてほしかった妖狐は、すんなりと虎を地面に放った。
虎の身体に結ばれていた黒いリボンが揺れ、虎は跳ねるようにしてその場から一目散に逃げて行く。
その後ろ姿を目で追ったとき、その虎の行先に人影が見えた。
「次はあれを捕まえてきましょう」
九尾の目にもそれは止まったようで、彼は口元を緩めると視線をその影に向けたまま桜花に乞うた。
その瞳が獲物を狙うそれだったのは桜花も気付いており、そしてその影も勘付いたようにびくりと震えた。
「お止めなさい」
「ですが、今捕まえねば逃げられます」
小さな子どものようなその影が、そっとその場から逃れようと後退りしていく。
(怯えているのね…)
駆けて行った小さな虎がその足元にすり寄ったのが見えた。
どうやら飼い主は彼のようだ。
「いいから。あちらから来るのを待ちましょう」
桜花は安堵したものの顔には出さず、勝手口へと戻っていく。
主の命は絶対だと理解している九尾は一度そちらに視線をくれ、それから桜花の背を追った。
掃除後の食事はいつもより美味しく感じる。
満足げに頷いて、桜花はその箸を置いた。
「おいしかったです、あるじさま」
隣に座る今剣がきちんとこちらを見上げてそう言ってくれ、桜花は笑って「ありがとう」と返した。
それから開け放たれた障子戸から外を眺めた。
天気の良い昼下がり、見える庭は残念ながらやや荒れているがそれはこれから追々綺麗にすればいい。
まだやることが山ほどある、と思いながらも口元を緩めた。
「九尾」
こちらに背を向けて縁側に座る妖狐は、静かに振り返る。
やや不貞腐れたような表情は振り返る前から想像できていたもので、桜花は可笑しそうに口元を袖で隠した。
「笑われるのは嬉しくありません」
「貴方が心配してくれるのは良く分かっているわ。でも、だからと言って急いていいことはないと思うの」
「…理解しております」
言いつつもふい、と九尾はこちらに背を向けてしまう。
桜花が今度は声を漏らして笑うと、空になった器を持ち厨に入って行った。
すかさず同じようにして今剣が続いた。
「あるじさま」
「ありがとう、今剣」
洗い始めると今剣が横に並んで器を差し出してくれた。
「…今剣。ここには貴方の他にも刀剣はいるの?」
今度は慎重に言葉を選んで彼に問いかける。
「はい! いますよ」
明るい返事に桜花は内心ほっとして、手を止めて彼を見た。
「私は貴方以外には会ったことないのだけれど…この本丸にはどのくらいいるのかしら」
「たくさんいます!」
「そう…。みんな元気?」
一番気になっているのはそこだった。
初めて今剣に会ったとき、少なからず彼は負傷していた。
しかし先程見かけた刀剣男士は今剣よりも元気そうに見えた。
「…わかりません」
少しだけ声量が落ちた今剣の返答に、桜花は眉を下げた。
それからその場で膝を折ると今剣と目線を合わせる。
「…どうして?」
「ぼくは、あるじさまがいないとそんざいするいみがないです。…だから、ほかのとうけんといっしょにいてもいみがないんです」
「……」
「だから、わからないです。みながいまどこにいるのか、なにをしているのか」
刀剣達の関係というのは存外冷めたものなのだろうか。
それはここが特殊だからなのか。
審神者が初めての桜花にとって、それが通常のことなのかもよくわからない。
しかし人としての身体も思考も持つことができたのに、それは悲しいことだというのはよくわかっている。
(私が、変えていこう)
この今剣が本当に笑ってくれるその日を、いつか必ず迎えてみせると心に誓った。
―――続
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