▼ 序章
淀みきった空気が流れる、しかし見た目は大層立派な日本家屋やその庭園を前に思わず短いため息が漏れた。
背後で控えているのは自分に仕える人型を模した狐の妖で、彼にはもちろんため息は聞こえており、すぐに口を開いた。
「お嫌でしたら、今からでも断りを入れましょう」
「嫌なんてことないわ」
そう即答すれば彼は黙ったまま視線をこちらに向けたようだった。
何が言いたいのかはわかっている。
人間に振り回されることになるとこの妖狐は言いたいのだ。
(でも、それはここにいるであろう彼らも同じこと)
そう、人間に振り回され迷惑極まりない想いをしているであろう彼らを放っておくことなどできはしないのだ。
ことは数日前に遡る。
過去へ干渉し歴史変革を目論む「歴史修正主義者」なるものが出現。
時間遡行を繰り返しながら我が国の歴史への攻撃を開始したのだという。
人の世の出来事とはいえ、鬼一族にもそれは多大なる影響を及ぼすことになるであろうことは明白。
里の間でもその話題で持ちきりだった。
そんなある時、優れた鬼の血を持つ彼女の元に時の政府と名乗る人物が現れたのだった。
「鬼の姫。貴方にお頼み申し上げる」
未来から遥々やってきたと言う洋装の男は、そうは思わせないような古めかしい言葉遣いでそう告げた。
鬼の姫と呼ばれた彼女、桜花は美しく大きな瞳をすっと細め男を見定めた。
時の政府は過去へ干渉し歴史改変を目論む“歴史修正主義者”に対抗すべく、物に眠る想いや心を目覚めさせ力を引き出す能力を持つ“審神者”と刀剣より生み出された付喪神“刀剣男士”を各時代へと送り込み、戦いを繰り広げていた。
つい最近もその話題を耳にしたばかりだ、とどこか他人事のように思いつつ話を聞いてみれば要するにこういうことだった。
『審神者になれ』。
桜花は横に座していた父をちらりと見上げた。
それから男を見やれば、ずっとこちらを見ていたようでまた目が合った。
「貴殿の持つ鬼の力は一族の中でも稀なる多大なものと伺っております。その神々しい力で、我が国の歴史を守ってはいただけないだろうか」
低い姿勢を保つこの男が言っていることが、逆らえぬ政府からの命令であることを感じ取っているであろう父は黙って桜花に視線を送る。
父の気持ちを察し、桜花は嫋やかに一礼した。
「お受けいたしましょう」
男の口の端が上がったのがわかった。
父が部屋を出ると、男の顔付きが僅かに変化した。
鬼一族の中でも高い能力を誇る父を前に、些か緊張のようなものを感じていたのだろう。
「断られるかと思いました」
思ってもないことを、と言いそうになり口を噤んだ。
「…我々一族にとっても一大事ですから」
ふわりと笑みを作れば、男も一度だけ表情を崩したがそれはまたすぐに険しいものに戻った。
人払いをさせた理由を聞かせてもらえるのだろう、桜花もまた笑みを消して彼を見据えた。
「これから、審神者になるにあたり簡単にご説明させていただこうと思います。…が、その前にお伝えしなければならないことがございます」
桜花は視線で先を促した。
男は神妙な面持ちのまま続けた。
「貴殿には、―――すでに顕現された本丸に赴いていただきます」
***
最初は当然のことながら意味などさっぱりわからなかった。
しかし、話を聞いていくにつれて男が“後釜になれ”と言っているのだと覚った。
新たに審神者となった者には本丸という居住空間が与えられ、そこで鍛刀し付喪神を顕現、戦いへ赴くという流れだという。
それに関しての様々な場面では政府が手助けをしてくれることになっている。
初期の段階で刀一振りを与えたり、必要な資源や物資を用意したりするのは審神者を命じられた者からしたら当然の扱いだ。
しかしどうやら、桜花が命じられたのはそんな簡単なことではないという。
『人間とは、弱い生き物なのですよ。鬼の姫』
あの時、男はそう悲しげに笑って言った。
「消えた審神者の本丸に赴き、そこで新たな審神者となれ」
時の政府から下された命を噛みしめるように口にすると、桜花は改めて目の前の本丸を見上げた。
審神者がどんな理由でこの本丸を去ったのかは、男にもわからないという。
ただ、あの男が言った通り“弱い生き物”である人間に耐えきれない何かがあったのかもしれない。
あのように、突然現れて『審神者になれ』など言われてはそうなるのも道理なのか。
ほんの少しばかり同情した。
後釜、であるにあたりこの本丸にも“刀剣男士”が幾振りかいるらしい。
らしい、というのは彼ら時の政府もきちんと調べてあるわけではないという。
流石の桜花もこの時ばかりは冷ややかに男を見据えた。
(人間に振り回されて…)
下手をすれば彼らが怒りの矛先を向けて来るかもしれないというのに、人間とは呑気だ。
『審神者達の間でも、あの本丸は少しばかり有名でしてね』
最後の男の言葉を思い出した。
どういう意味か、と問うたが男は答えなかった。
『その内にわかりますよ』
そう言われ話しを切り上げられてしまえば、深く追求することもしなかった。
ひゅう、と風が吹き抜けていく。
静まり返った本丸の不気味さを際立たせて、より一層入るのを躊躇わせてきた。
「“紅華”様、如何致しますか」
痺れを切らせたのか、妖狐の九尾がそう尋ねてきた。
賢い彼の言葉に少しばかり考える素振りを見せ、そこで漸く桜花は一歩踏み出した。
―――続
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