▼ 第十六章



加州のいる部屋の前に立つ桜花は、その襖をじっと見つめたまま立ち尽くしていた。
青年のところの加州清光に言われた言葉を思い出し噛みしめる。

(寂しい、か…)

思えば、この数日間彼を堀川や和泉守に任せっきりにしてしまった。
寂しいというその気持ちが“主”という存在による感情だとすれば、それを癒してあげられるのも主となる自分だけだ。

廊下の奥から静かにこちらを見守る堀川や和泉守に笑いかけ、桜花はそっとその襖に手を掛ける。
スッと音もなく開いたその襖の奥はやはり暗かった。
開けたことにより部屋の中に差し込んだ光を辿る様にして中へと視線を滑らせれば、やがてその姿は見えてきた。
膝を折って身体を丸めるようにして座る彼は、腕に置いていた頭を少しだけ上げてこちらを見た。

「……」

しかし、やはりその視線はすぐに桜花から外され畳へと向けられる。
桜花はその部屋へと一歩足を踏み入れると、そっと襖を閉めた。



薄暗い室内で桜花がそっと襖の前に座ると、奥にいる加州の表情が険しくなったのが気配でわかった。
だがここで逃げてしまえば何も変わらない。

「―――加州清光。」

桜花がはっきりとその名前を口にしたとき、がたっと音を立てて加州が立ち上がった。

「何で、名前を呼ぶんだよ…!」

咎めるその声は震えていた。

「俺は、俺は…おまえなんか主だなんて思ってないから…!」

乱れた髪の中で、赤い二つの目が桜花を捕える。
しかし桜花はいつになく冷静で、その場に座したまま彼を見上げていた。

「…出て行けよ」

声を低くして加州が言い放った。
しかし桜花はその場から少しも動こうとはしなかった。
それを見ていた加州が忌々しげに舌を打ち、それからぎゅっと己の依代を握りしめた。

「出て行け…!」

加州から放たれた殺気で空気が震える。
だがやはり桜花は顔色一つ変えない。
一向に動く様子のない桜花に、加州は更に声を荒げた。

「出て行けって言ってるだろ!!」
「出て行きません!!」

しん、と室内が静まり返った。
まさか怒鳴り返されるとは思っていなかった加州はその目を大きく見開いて桜花を見下ろしていた。

「…逃げていて、ごめんなさい」

ぽつりと聞こえたのは桜花の震える小さな声だった。
加州が一度だけ瞬く。
変わらずその視界にいる桜花は真っ直ぐにこちらを見据えていた。

「例え、この身をその刀で切り刻まれようとも、刺し貫かれようとも…!」

ゆっくりと桜花が立ち上がる。

「私は、きちんと貴方と向き合う。もう絶対に逃げない。貴方を置いて行ったりしない…! だから…」

目線を同じくして、桜花はゆっくりとそう続ける。
そして一歩、また一歩と加州との距離を詰めていく。

「私の刀剣になって下さい。加州清光」

想いを伝えるように、静かに微笑んだ。






数回の加州の怒鳴り声の後に主の荒げた声がし、流石の堀川も真っ青になりながら横にいる和泉守を見上げる。

「どうしよう兼さん、やっぱり僕達も行ったほうが…」
「いや。ちょっと待ってろ」

不安げな堀川を引き止め、和泉守は二人のいる部屋の襖を見つめる。
もちろん何か事があればすぐに襖を叩き斬ってでも入るつもりだった。
しかし、二人の間に何かがあるとは和泉守は思っていなかった。

そうしているうちに静かに襖が開いた。
そこから出て来たのは桜花だけで、慌てて堀川が駆け寄って行った。

「主さん!」

気付いた桜花が堀川に視線を向けると、少しだけ微笑んで答えた。

「また来ます」

たったそれだけを残し、桜花はその場を去って行く。
その背を見送る堀川の後ろに歩んできた和泉守は、開け放たれた襖から中を覗く。
部屋の真ん中に立つ加州を見つけると中に足を踏み入れる。

「どうした」

そう声をかければ呆然としていた加州ははっと我に返り、またいつもの通り部屋の奥へと戻ると座り込んだ。
顔を膝に乗せた加州の表情はわからない上に、微笑みを残した桜花が何を思ったのかもわからず和泉守はがしがしと頭を掻いた。
まだ時間はかかるのだろう、そう結論付けたその時ふと加州が顔を上げた。
そして彼はすっと立ち上がり、和泉守の前を素通りして部屋を出て行った。

「!?」

あんなにも頑なに部屋から出なかったのに、と口にしたかったがそれ以上に驚いてしまって声も出せないでいると、同じく加州の行動に気が付いた堀川がよくわからない表情で部屋に飛び込んできた。

「ねぇ今、加州さんが出て行ったんだけど…!!」
「……」
「ちょっと兼さんってば!!」

聞いてるの、と声を大きくする堀川に揺さぶられながら和泉守は開けっ放しの襖を眺めていた。



幾分か前に加州の部屋を出た桜花がそんなことなど知る由もなく、本日の近侍である五虎退が廊下まで迎えに来ているのを見て顔を綻ばせた。

「あ、主様。墨を足してきました…!」
「ありがとう、五虎退。書類整理を一緒にお願いできますか」
「はいっ」

虎達を連れて桜花に付いてくる五虎退に、桜花はまるでアヒルの親子みたいだと思った。



五虎退と部屋に籠って仕事を熟していると、部屋の外が騒がしいことに気が付いた。

「な、なんでしょうか…」
「珍しいですね、こんなに騒がしいなんて…」

桜花が障子戸に視線を向けるとばたばたと走る音がし、やがて障子に影が映った。

「主君! 前田です…!!」
「前田?」

すぐに必死な声がして、桜花は障子戸を開けた。
確かに廊下に座してこちらを見上げているのは確かに前田だったが、彼がこんなに慌てているのを見るのは初めてだった。

「何かありましたか」
「あ、あの…!」
「ほら、落ち着いて」

安心させるように優しく微笑みながら前田の背を撫でてやると、一度深呼吸し前田が口を開いた。

「あの、か…加州さんが外に出ていたんです…!!」

残りの一振である加州が部屋に籠り切りなのは、ここに残されていた刀剣達はもちろん、最近顕現した燭台切も知っていた。
加えて以前から一緒だった加州の姿を久しぶりに見て、しかもそれが室外であり前田は一目散に桜花の元に走ったのだと言う。

「や、薬研兄さんも、あの…、間抜けな顔をしていましたし、いち兄も驚いて…それで、乾いた洗濯物を落として…!」

前田からしてみれば兄達のそんな姿にも驚いたのか、言っていることがぐちゃぐちゃで桜花は思わず声に出して笑ってしまった。
きょとんと前田が桜花を見上げた。

「あの…主君…?」
「ごめんなさい、前田。よく教えてくれました、ありがとう」

桜花の反応が意外だったのだろう、前田は目を見開いたまま桜花を見上げている。
そんな前田をもう一度撫でながらやはり桜花は嬉しそうに笑うだけだった。






―――続

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