▼ 第十二章
本丸の庭に美しく咲いていた桜が徐々に散り始め、その間から青々とした葉が見え隠れし始めた頃。
出陣部隊と内番と、と人を割くことができるようになりそれなりに余裕が出て来た桜花はある場所を目指して歩いていた。
この本丸で未だ桜花の元へ来ていない刀剣は、恐らく二振り。
一振りは今も部屋に籠っているであろう加州清光。
そしてもう一振りは。
じゃり、と足元の小石が音を立てる。
桜花の目的の場所はここ、本丸から少し離れた川岸だ。
ここにもう一振りである彼がいると確信があってやってきた。
既に本日の洗濯は終わっているようで近くの物干し竿には着物が掛かっている。
風に靡く洗われた衣類を横目に、桜花はそっと川岸に見えた人影に口元を緩めた。
「山姥切国広」
静かに名前を呼べば、その人影はゆっくりと振り返った。
実は彼と会うのはこれで数度目だった。
先日またもや洗濯をしていたら、川岸に立ち遠くを眺めている彼を見付けたのだ。
そっと近付いてみれば彼は逃げる素振りを見せることなく今日と同じようにゆっくりと振り返った。
「貴方は…?」
それに驚いた桜花が足を止め思い切って声をかけてみれば、桜花と向き合った彼は少しだけ視線を逸らしてから口を開いた。
「山姥切国広だ。……何だその目は。写しだというのが気になると?」
名前を教えてくれた、と桜花が喜ぼうとしてはたと我に返る。
写し、とはどういうことだろうか。
刀のことに疎い桜花からしてみれば何の話かなんて少しもわからない。
沈黙が続き、どうにかして会話をと桜花が思案した結果口を突いて出たのはこんな言葉だった。
「貴方はそんなに美しいのに、どうして布を被っているんですか」
どうやらそれが地雷だったようだ。
冷静だった山姥切の表情は一変し、ぐっとかぶっていた布を引き寄せて顔を隠してしまったのだ。
「美しいとか言うな!」
吐き捨てるようにそう言い残し、彼はその場から去ってしまった。
両手に桶を持っていた桜花はすぐに追う事もできず、またもや靡く薄汚れた布をただ見送ってしまった。
そんな彼と会う機会は意外にもすぐにやってきた。
翌日、洗濯当番になった和泉守が逃亡しないようにと桜花が彼と堀川と一緒に洗濯場にやってきたときのことだった。
「あ…」
昨日と同じ場所に立つ山姥切を見付けた。
それに気付いた堀川が驚いたように声を上げた。
「兄弟…!」
そう言えば彼も国広と名乗っていたような、どちらが兄になるのかと桜花が違う方へと思考を向けていれば声が聞こえたのか山姥切が振り返る。
しかし桜花達を視界に入れたその瞬間、またもや布で顔を隠すと瞬時にその場から立ち去ってしまう。
堀川が追おうとするが、思ったよりも素早い彼の姿は既に見える位置にはなかった。
「…前にも、見かけて追いかけたんだけど」
苦笑いして言う堀川は、桜花と同じく彼に逃げられたのだろう。
さてどうしたものか、と山姥切国広という男は桜花をまた悩ませた。
二度あることは三度ある。
それ以上もまた然りだ。
そう思った桜花は、今度は手ぶらで川岸にやってきた。
やはり予想通りでまた彼はそこにいた。
「山姥切国広」
桜花が呼べば、やはり彼はきちんと振り返った。
しかしどうだろう、今日はまだ何も言っていないのに彼は顔を隠してその場を走り去ろうとするではないか。
「ちょっ…」
流石の桜花も驚いて声を上げるが彼は随分と早く、見える背中は既に小さくなってしまっていた。
「……ふふ」
逃げ足の速い彼に思わず自嘲染みた笑いが零れてしまった。
本丸に戻れば庭で短刀達が鬼ごっこをしていた。
目の前を必死になって走る五虎退を追うのは無表情な小夜だ。
その庭の片隅には枝ででも抉ったか地面に大きく円が描かれており、その中には薬研がポケットに手を突っ込んで立っていた。
「捕まりましたか」
「まぁな」
近付いて声をかけると薬研は笑って返したが、桜花はそれが嘘だとすぐにわかった。
桜花の顔を見てそれを見抜いたのか、薬研は肩を竦めて黙っててくれよ、と言った。
「人数がいないからな。付き合ってやったんだよ」
盛り上げ役としてか、ただ単に面倒だったのかはわからないがわざと捕まってやったのだろう。
随分とお兄ちゃんな発言だ、と思いつつ再度短刀達を見ればその中に鯰尾が混じっていた。
本気になって短刀達を追いかける鯰尾と穏やかにそれを見守る薬研。
ここもここでどちらが兄なのかわからない兄弟だな、と桜花は思った。
「楽しそう」
「混ざるか、大将」
「そうですね…」
視線の先では半泣きだった五虎退が捕まった。
残るは前田と今剣のようだ。
「では私は“鬼”で」
「鬼やりたいのか」
「いえ、必然的にそうなってしまいますので」
何のことかと薬研が桜花を見上げると、彼女は大きく頷いてからその場を離れていった。
混ざるのではなかったのかと薬研が首を傾げれば、捕まったのか前田の悲鳴染みた声が聞こえた。
干された洗濯物の合間を通り、桜花は再び川岸へと足を向ける。
やがて見えてきたいつもと同じ背中に桜花は口元を緩めた。
「山姥切国広」
静かに名前を呼べば、やはりその人影はゆっくりと振り返った。
桜花が来ることは予想できていただろう。
しかしどういうことか彼はまたこうしてここにいる。
(彼は素直ではないのね)
桜花が来るのを待っているかのように思えた。
だがやはりその視界に桜花の姿を捉えれば、山姥切はすぐにその場を去ろうとする。
「待って下さい」
そう桜花が声をかけても、彼の足が止まることはない。
お馴染みの光景になりかけたその瞬間、山姥切の背後で桜花が笑った。
気配でそれを察し、ぴたりと足を止めた山姥切が振り返ればそこには楽しそうに笑う桜花がいた。
一頻り笑った彼女は口元に手を添え笑顔のまま、山姥切にこう言った。
「私が“鬼”ですね」
美しいその顔にぞ、と背筋が寒くなった刹那、桜花が地面を蹴った。
「!?」
自分との距離が一気に縮まったことに気が付いた山姥切は、とっさに逃げようと同じく地面を蹴る。
そして一目散にその場を離れるべく駆け出したのだが。
追って来る桜花との距離が開くことはなく、いつもと違う状況に山姥切は焦りの表情を見せた。
後ろからは呑気な桜花の声がした。
「成程、これが本当の鬼ごっこ、というものですね」
「は…!? 何のつもりだあんた…!!」
「先程鬼ごっこをしないかと誘われまして」
「だからと言ってなぜ俺を追いかける…!!」
石段を駆け上がる山姥切を追いながら、桜花は呆れたように言った。
「貴方が逃げるからでしょう、山姥切」
「あんたが写しの俺に構うからだ!」
「そう、それです。写しとはどういうことでしょうか」
野菜が植わっている畑を必死になって横切る山姥切と、少し遅れて涼しい顔の桜花が後を追う。
今日の畑当番だったか、そこにいた一期と宗三がぎょっとこちらを見たのがわかった。
「私も人ではありません。でも人と同じように食べて、寝て、生きています。それは鬼という生き物が人を模したようなもの。謂わば、人間の“写し”でしょうか」
「っ、だがあんたは強く美しいだろう…!」
「それは貴方とて同じこと」
やがて本丸の敷地内に足を踏み入れた。
視界の端に見えた縁側には和泉守と堀川がいて、二人もまた互いに顔を見合わせてから身を乗り出して山姥切と桜花を目で追った。
「写しだから何だと言うんでしょう。人と同じように生きている私ですが、負い目を覚えたつもりはありません。私は、私ですから」
逃げる山姥切の背中がひくりと震えたのが走っていてもわかった。
少しだけ彼の走る速度が落ちた。
「だから、貴方も貴方です。山姥切国広。貴方として私と一緒に戦いませんか」
「っ…!」
一番伝えたかった言葉と、一番聞きたかった言葉だった。
山姥切がその瞳を大きく見開いた瞬間、ぐいっと布が後ろに引かれた。
はら、と布が頭から落ち視界が明るくなった。
「捕まえた…!」
思わず振り返れば、少しばかりの汗を滲ませた桜花が満面の笑みを浮かべてそこにいた。
崩れ落ちるようにその場に座り込んだ山姥切と桜花は、その場で互いに乱れた息を整えていた。
「久しぶりにこんなに走った気がします…」
長く息を吐き出し、桜花はそう言って立ち上がる。
「あるじさまはやいです!」
いつの間にか本丸の庭に戻ってきていたようで、ひょっこりと今剣が桜花を覗き込んできた。
桜花は嬉しそうに笑いながら、山姥切に手を差し伸べる。
布を被り直した山姥切が横目にそれを見て、それからふいと視線を逸らす。
「ほら、立って下さい」
しかし桜花が許すはずもなく、彼の手を引いて立ち上がらせると庭の隅へと向かう。
またもや捕まったのか、円の中に薬研が立っている。
桜花はその円の中へと山姥切を押しやった。
「はい、山姥切はここですよ」
「なぜ俺が…」
「捕まったらこの中に入るのが決まりです。」
有無を言わさない桜花の笑顔に、山姥切はぐっと押し黙る。
「主さん早いですねー。怖いなぁ」
鯰尾が笑いながら近寄ってくると、桜花は手に付いた土を払いながら答えた。
「足には少し自信がありますから。さて、次は誰を捕まえましょうか」
「僕が鬼だよ」
「ぼくもです!」
「では小夜、今剣。一緒に捕まえてしまいましょう」
二人の手を握り、桜花がそう言えば「逃げろー」と鯰尾が叫んだ。
顔色を変えた五虎退と前田が慌ててその場から逃げ去る。
それを追いかけて行った桜花達を見送ってから、山姥切はその場に座り込んだ。
その表情に諦めの色が浮かんでいるのを見て薬研は笑った。
「見事にやられたなぁ」
「何なんだ、あいつは…」
「新しい主ってやつだ」
布を深く被り、その合間から山姥切は桜花を見る。
楽しそうに短刀達を追いかけるその姿は普通の人間の女にしか見えない。
「鬼、か…」
「鬼ごっこはあんたの負けだな。山姥切」
愉快そうな薬研の言葉に、山姥切は少しだけ口元を緩めた。
「―――ああ。」
―――続
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