05


自分の顔を拝むのはこれで今生二度目になる。誰かさんと同じように黒髪黒目の女を鏡の中に認めても驚くことはなかったので、どうやら私は自分が東洋人であることを無意識のうちに理解していたらしい。はっきりと自覚していなくても覚えていることは存在するという証明だ。これは良い兆候だと言えるだろう。
あと特筆すべき点は、不可思議なことにこの部屋には窓があるということだ。これは比喩なんかではなく、文字通り窓があるのだ。昨晩は気が付かなかったけれど、地上の屋外の様子が見て取れる。と言うのも、朝日が差し込んでいるのだからきっとそうなのだ。見たところ開くことができる仕様のようだが、それを開けて見る勇気はまだ私にはない。地下数階の部屋の窓を開いて良いものなのか……。何と無くだが、宇宙の法則が乱れる気がする。勢い良く土塊が雪崩れ込んできて部屋が埋まってしまっては困るので。


「さて、さて、さて……」

特に粧し込まなくても自分が見苦しくないということは昨晩鏡を見た時に確認済みなので(酷い隈、と彼に称されたそれも今朝見たらなくなっていたし)、身支度は洗顔の後に髪に櫛を通すだけに留めておいた。
問題は衣服だ。
幾ら泥を綺麗に取り去ってもらったとは言え、地面に寝転がって居た所為かどうかは知らないが、昨晩着けていた服は彼方此方が解れてしまっていたので。
幸いクローゼットを漁って新品らしい洋服を発見したものの、何処から如何見ても制服の特徴を見せ付ける其れに頭を抱える。

「正式に生徒になってないのにこれ着て徘徊していいのか?……いや、もう手続きは済んでるのか?」

まあいいや。背に腹は変えられないというものだ。あのボロ切れを着てウロウロするよりはマシだろう、多分。



「うわっ、またお前かよぉ!」
「は?」

開口早々それは無いだろう幾ら何でも。
地下から抜け出して朝日の差し込む気持ちの良い廊下を探索していたらこれだから何とも言えない気分になる。
半透明で空中浮遊しているお前もよっぽど異質なんだが、と言いたい。
くるくると忙しく回転しながらピーブズと名乗ったこの男は、どうやら御多分に洩れず前回の私を知っているらしい。
それにしても"またお前かよぉ"とは、随分な言い草である。"うわぁ"ってなんだよ"うわぁ"って。

「態々名乗っていただけて嬉しいわ。するとあなたは、私の記憶がないこと知ってるの?」
「知ってるとも!知らないことなんてないのさ、何でも知ってる。な、ん、で、も」
「ああ、そう。じゃあ悪いけど、職員室までどうやって行けばいいのか教えて頂ける?」
「そんなことを聞くのか〜、あっちだよ、あっちを右に曲がるのさ」

そう言い捨てるとピーブズは天井を勢い良く突き抜けて何処かへ行ってしまった。
半透明なのは見れば分かっていたけれどあんなこともできるのか。幽霊的な何か?
取り敢えず聞いた通りに歩き出したけれど、何か胸騒ぎがする。根拠はないのだけれど、あいつのことは信用してはいけないような……というか、職員室はそちらではないような気が。いや、根拠はないのだけれど。


「ミス・みょうじ?ミス・みょうじですか?」
「はい?ええ、まあ……」

行ってみるしかないか、と思って右折しようとすると背後から女性に声をかけられた。誰だと思って反射的に振り返ったけれど、まあ分かるはずもなく。
髪をひっつめ、四角い眼鏡を掛けた老女がそこには居た。このひととも知り合いだったのだろうが、残念ながら覚えていないのが悲しい。

「お早う御座います、ミス……」
「ミネルバ・マクゴナガルです、話は校長から伺いました。大変でしたね」
「ええ、本当に。マクゴナガル教授……あの、こうお呼びすれば?」
「それで結構ですよ、ミス・みょうじ。あなたにはそう呼ばれていましたから」

体の横でやることがなかった私の右手を引っ掴んで半ば強引に握手をすると、マクゴナガル女史は皺の目立つ顔で感慨深そうに笑った。

「ところでこんな所で何をしていたのです?」
「ああ、そうだ……私、職員室へ伺おうかと思いまして。職員の皆さんに挨拶をしたくて」
「まあ、そうでしたか。職員室は向こうですよ!昨夜から貴女の話題で持ちきりなんですよ、ミス・みょうじ。話を聞いて皆心配しています。会いたがっていますから顔を出しておきなさい、私も一緒に行きましょう」

興奮したように一気に捲し立ててから彼女は私の腕を掴んで歩き出した。
道中、"何故あんな所に居たのか"と聞かれた私が"ピーブズに聞いた"と答えると、マクゴナガル女史は再び、殊更大きな声で"まあ!"と言った。

「あれの言うことを信じていたら酷い目に会いますよ!覚えておきなさい」

あの野郎。ピーブズめ、許さん。