04


校長室(推測だが)から私を連れ出して早々、スネイプ教授が懐から杖を取り出して一振りした。一瞬何をされたのか分からなかったけれど、泥水塗れだった私の体が見る影もなく清潔になっているのに驚く。なんて便利な!近いうちに教えて貰おう、その魔法。

「そんな姿で練り歩いて頂いては廊下が汚れますからな」
「…………」

確かに、その通りだ。その通りだけれど!
こちとら好き好んで泥塗れになったわけではないのだ。そんな言い方しなくても良いものを……。
私は眉を顰めていたかもしれないが、まあ、無理からぬことであって。見咎められるかと一瞬思ったものの、彼は存外決まりが悪そうに片眉を上げてから言った。

「……風邪をひきたくもなかろう」
「ふふ……有難う御座います、スネイプ教授」

いやはや、やっぱり悪い人ではないみたい。
思わずにやりとした私を見て拍子抜けしたように目を細めてから彼は、床に引き摺る程長いローブを翻して広い広い廊下を歩いて行ってしまった。
多分付いて行けば良いのだとは思うけれど、彼が歩くのは速すぎて私は競歩の如く大股で進まなければならなかった。……さっきまで立つのもやっとだったことは知らないのだろうか。知っててやってるのなら前言撤回、鳥渡悪い人のレッテルを献上しなければ。



「ち、地下室で暮らせと……」
「然様。此処ならば煩わしい喧騒もない……つまり、きみを以前受け持っていた本校の教員たちが押しかけてくることもあるまい。寝る暇がなくなるほど根掘り葉掘り詮索された挙句、無意味に心配されたいと仰るのなら話は別、だが」
「はあ、まあそれは……困りますが」

廊下を驀進したのちに螺旋状の階段を物凄いスピードで下り始めた時からまさかまさかとは思っていたけど、そのまさかだとは。疲れを癒したいのは山々だし静かなのは大変結構なことではある……あるけれども、朝日と決別するほど根暗ではない、と思いたい。

「余りに手持ち無沙汰なのは……」
「その心配は無いでしょうな」

私は一体何年生に編入することになるのか分からないがどうせ暇なら予習でも、と思ったのも束の間、スネイプ教授がピシャリと撥ねつけるように私の言葉を遮った。何なんだ、何だと言うんだ。

「なまえ……きみにはお聞きしたいことが山程有るのでね」
「それってつまり……」
「何処まで憶えていらっしゃるのか分かり兼ねる故」
「あー……そのことは何て申し上げたら良いのか」

はっきり言って、何も憶えていないのだ。この学校のことも、校長のことも、さっき私を綺麗にした謎の魔法のことも……あなたのことも。
それでも何故か、腕を組んでカーテンのような黒髪の間から終始不機嫌そうに私を見下ろす、鉤鼻のこの男を懐かしく思ったのは事実であって……ああ、何て言えば良いか。
薬品の匂い漂うローブを着た、嫌味っぽい口調のこの男を、私は酷く慕っていたような気がする、なんて。

「ほんとうに、なあんにも、憶えてないです、でも」
「……でも、何だね」
「あなたのことがとっても好きなような、気がします」
「…………」
「前回の私からそういったことを聞かされたことありません?
……言っちゃいけないことだったかしら」
「……概ねそのようなことを言っていた」

やっぱり。
前回の私はこのひとを慕っていたのだ。
…….生き返ったあとの今の私に、その思慕の情が残留するくらいには。

このまま話し込んでは眠れなくなるような気がしたので、これから私の自室になるであろう部屋の扉に手を掛ける。その動作だけで彼は察したように、"自分は普段奥の部屋に居る"と言った。つまり、用がある時は行ってもいいということだろう。

「では、何かあれば伺います。
……あの、私の部屋に鏡ってあります?」
「無いわけがなかろう、幾らでもその目の下の隈をご覧になれるでしょうな」
「いやだ、そんなに酷い隈ですか?
丁度自分の顔を見ておきたかったところなんです……憶えてないものですから」

途端にスネイプ教授の顔が苦虫を噛み潰したかのように曇った(と言っても元々、不機嫌な顔をしていたけれど)。
今のは言わない方が良かったかもしれない。
少なからず気まずい沈黙を喰らった私は、彼におやすみなさいとだけ告げて自分の部屋へと逃げ込んだ。