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このか弱い娘の細腕の何処に、これほどまでの力があったのか不思議に思った。冷たい鼻先をわたしの首筋へ押し付けながらなまえは、恐らくは彼女の渾身の力を以ってわたしを抱き締めている。思わず腕の力を強めたところで、漠然と、なまえにとっては苦痛なのではないかと思った。わたしがほんの少し、思う儘に力を強めれば、この少女はばらばらになって死んでしまうのだ、と思った。なまえはただの少女、ただの人間であり、百年前の彼女のように簡単に死んでしまうのだ。人間を辞してこの吸血鬼の体を手に入れたわたしとは、生きる時の長さが違うのだ。違う次元に生きているのだと。

「……ねえディオ、知ってる?ヴァニラってああ見えて、小難しいことが好きなんだよ。さっき彼の部屋で哲学雑誌を見つけてね、読んでたんだ」
「……それは興味深いな、彼奴めそんなものを隠し持っていたのか」
「ふふ、あなた、そういうの好きでしょう?私もちょっと興味があってね、ちょうど今年発表されたばかりの思考実験が掲載されてたんだよ。
スワンプマン、っていうやつでね、ある男がハイキングに出かけたんだ。行った先は霧深い山だか森だかで、不幸なことにその男、突然雷に打たれて死んでしまう。そのまま側にあった底無し沼に死体が落ちてしまったところで今度はその泥沼に雷が落ちた。そのとき万に一つか億に一つか、偶然何らかの化学反応を引き起こして沼の泥から死んだ男とそっくりのなにかが出来上がったんだって。つまりはスワンプマン。それは細胞レベル、原子レベルで死んだ男と全く同一の存在で、脳の状態も完全なコピーだから、彼の知識や記憶、そのすべてを持っている。むっくり起き上がったスワンプマンはそのまま沼をあとにして死ぬ直前の男の姿で山を降り、男の家の扉を開けて、男が読みかけていた小説を読み、男の家族へ電話をかける。次の日には職場へ赴いて同僚と無駄話をして、夜には男の恋人とディナーを楽しんだりする。誰にも知られることなくスワンプマンは生涯を終える、誰も知らない。息子が死んだことも同僚が死んだことも恋人が死んだことも。もしかしたらスワンプマン自身も、自分が泥からできたなんてこと知らないのかもしれない。死体は底無し沼に落ちて発見されることはないから。でもほんとうに死んだ男と同じものと言えるのか、果たしてそれは正しいことなのか。ねえ、あなたはどう思う?」
「……人間も、なかなかどうして興味深いものを考え付くものだ」

まさにわたしがなまえに抱く感情に対する問題提起、しかし、否それだかこそ、結論は明白だった。確かにその泥から生成されたなにかは死んだ男の記憶や知識経験を持っているのだろうが、一分の迷い無く刹那の葛藤も無く元より生きていた男その人ではない。絶対に。つまりはそれは、

「なまえ、此方を見ろ」

一瞬迷うような素振りを見せたものの絡められた視線を今この時こそは離すまい。他人を翻弄する偽りの七色の声をこの女には使うまい。お前に話すことに嘘偽りは一つとして無いのだ、誤魔化しもなにも無く、心の内を打ち明けよう。いくら抱き縋られどこのわたしが抱き締め返すのは、

「例えどんな女に縋られても、抱き締め返すのはお前だけ、なまえ、お前だけだ。未だ十余年しか生きて居ない、ちっぽけなお前だけだ」
「……」

なに一つとして、嘘偽りは無い。誤魔化すつもりも無い。百年前のあの女を、忘れると言えば嘘になる。忘れるつもりは無い、決して。しかしそれでも、この小娘を見れば見るほど言葉を交わせば交わすほど、一人の存在として慈しんでいた二人の女がそれぞれに呼吸を始め趣を変え、そして同時に、百年前の彼女が徐々に、それでいて確実に、その息の根を止め始めている。わたしの中で、彼女が死に始めている。

「……お前はよく泣くな」

一人の小娘としてのなまえを愛し始めている。ちっぽけなこの女を。