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"ほんとうは、何の為?"

分からない、分からないよ。上を見るべきなのか下を見るべきなのか、それとも右なのか左なのかさえも。努力は報われるの?私がいままでにしてきた総てはほんとうに意味があることなの?私が生きている価値は?これからも生き続けていく意味はあるの?ああ、なにも、なに一つ。私がこの瞬間も酸素を血液に溶かしているのは、ほんとうは何の為?ねえ、

"意味なんて無いの、理由なんて無いのよ"

ねえ、噛みしめるどの感情が本物なのかも分からない。帰るべき場所が何処なのかも。帰りたい所は何処なの、一体誰に愛されたいの。抱き締めて欲しいのか噛み付いて欲しいのか、分からない、このまま生き続けたいのか死んでしまいたいのか。

"私たちの心の中には愛がある、それを育てましょう"

分からない、だって、こんなにも醜く育ってしまった。悪魔と天使が私の頭上を。こんなにも醜い突然変異の不完全な女、総ての恥はあなたのせいだ、この苦しみと痛み。ああ、それでも、こんなにもあなたを愛している、私を赦して。
どうか赦して欲しい、ねえ、ママ、…………。





「…………ディオ?」
「……」
「重いよ」

私が目を覚ましたのは遠い昔の情景に頭の処理が追いつかなくなったからなのか、上半身にのしかかる重さの所為なのか。言えばディオは私の上から退く気が在るのか無いのか、そのどちらとも取れるような低い音を出して私の肩口へ冷たい鼻先を押し付けた。どうやら退く気は無いみたいだなあ、彼の仕草は宛ら獣のようだと思った。彼の所為で稼動範囲の狭い体を伸ばして、唯一指先に掠めた灯りのボタンを押す。元より暗めの光量に設定されているそれでも、自分が置かれている状況くらいは確認できた。突然の光に彼は幾ばくか気分を害したようで、その鋭利な牙で私の首を甘噛みする、ディオが人間の血液を主食としているという事実を知っていれば大概の人間が震え上がりそうなその行動も、不思議と全く恐ろしくなかった。彼は私を喰い殺したりはしないだろうと思った。

「ディオ、もう夜だよ……起きなきゃ」
「……腹が減ったのか」
「いや、そういうんじゃあ、ないけど」

いつもなら二つ返事でさっさと起き上がるのに、どうしたんだろうか。ディオはなにか思いつめているかのような様子で、私に回した片腕に更に力を込めた。理由はともあれ、起き上がりたく無いんだろう。私を離したくないとでも言いた気な面持ちを目にして少しだけ悲しくなった。二人の彼の狭間で私が好い加減に現実逃避をしている間にこのひとは、このひとは。
どうしたの、と私がディオに呟くと一瞬その身を強張らせて彼は、愛している、と。ディオからこの言葉を投げかけられたのは二度目だった。最初のそれは百年前の彼の想い人に対してだった、だけど……いや、だから、いまのは誰に対して?いったい、……。
言葉に出来ずに結局言いあぐねて彼の金糸を指に絡ませると、真っ赤な虹彩が私を見た。

「……なまえ、獣と人間との最大の違いは何だと思う?」
「えっ?そうだな……文明、かな」
「そうとも言える。しかし……わたしはこう思う、理性に従うか、本能に従うかだと」
「ああ、言われてみれば……そうかも知れないね」

突然の質問に狼狽えながらも彼の持論に頷くと、ディオがベッドに両肘をついて起き上がった。仄暗い光に照らされて赤味がかった顔が私を覗く、

「考える迄も無く、本能と理性は全く別の存在だと思っていた。相入れないものだと。人間とは突然変異の生物であり、獣は理性など持ち得ないのだと。
しかしこのところ考えるのだ、理性とは、本能に因る心理現象なのではないかと。確かに人間は獣とは違っている、もしも人間が理性を持たぬ生き物だったなら、女子供は犯され猟奇的な殺人者が平然と闊歩する世界となるだろう。法など持たぬ下等な存在へと成り下がっただろう。ならば獣の世界ではなにをしても許されるのかと言えば、いいや、違う。獣には獣の法がある。猿には猿の、ライオンにはライオンの、犬には犬の。確かに人間の法に比べれば原始的ではあるが彼らは持っているのだ、理性と似通ったものを。わたしはそう思う」
「ん……あなた、時々突飛なこと言うよね。面白いから私は好きだけど」

ディオを見上げる私の前髪を彼が掌で押し上げる。そのまま彼はその手でなにかを確かめているかのように私の顔を触って、瞬きよりも長く瞼を下ろしていたかと思うと、今となっては見慣れた赤黒い虹彩で私のそれを見遣った。

「……わたしは獣だ、なまえ。人間を辞めて吸血鬼へと成り下がった身だ。理性らしきものは持っていても、それが何なのかは分からない。わたしは人間を喰って生き永らえている、人間の血を吸わなければ生きられないのだ。本能に従って生きている、獣だ」
「うん……ディオ?どうしたの」
「…………」

彼が黙り込む。眉根が下がっている。どうしたんだ、何時に無く弱気で不安定で、悲し気だ。どうしてあなたは打ち捨てられた子犬みたいな、そんな顔をするんだ、いつものあなたじゃあないよ、それとも、唖々、それともこれがほんとうの、あなたなのか。

「……お前がわたしを、失いたくないと言った時……例えそれがお前の口をついて出た偽りだったとしても、極東の小僧をわたしに見出しているが故の屈折した感情であったとしても……わたしは」
「……」
「お前になら、この心臓をくれてやっても良い、そう思った。百年に渡るわたしの幻想を断ち切らせてもいいとさえ思った。全くもって、下らん……どうかしているとは分かって居ても。しかし同時になまえ、わたしはお前を、お前を……」
「ディオ、ね、あなたどうしたの……」

あんまり悲しそうな彼に堪えきれなくなって私がその頬に手を伸ばすと、ディオは目を閉じて私を受け入れた。彼の態度は宛ら神に罪を告白する信者のようで、唖々。

「なまえ、お前を殺してしまいたいと、思った、喰い殺してしまいたいと……。お前がわたしを受け入れた、その瞬間にお前をわたしの血肉へしてしまえば時は止まると思った……止めた時間の中に生きるお前は、唯一わたしのものになると。お前の四肢やその情熱のすべてがわたし以外の誰かのものであったとしても、時を止めることでわたしは永遠の勝利を得るのだと。
……愛を渇望するあまりお前が漏らした慟哭の狭間に、そんなことを少しでも念願したわたしを蔑むがいい」
「……どうして……そんなこと、言うの」

唖々、ディオ。そんなこと、私に打ち明ける必要なんてこれっぽっちもないのに。ただあなたの中で秘密にして、私に話しかければ良かったんだよ、何もなかったような顔で。そんなことであなたが思い詰めることないのに。あなたがそうしたいと思ったのなら、ただ行動に移せば良かったんだよ。万が一そうなったとしても、構わなかった。

「私があなたを、蔑むなんて……そんなこと、あるわけないでしょ……」
「……」
「ねえディオ、どうしてそんなこと言うの……ディオ、」

どうして黙り込むの。ね、どうして。
彼はその頬にあった私の掌に指を重ねて、どこか遠慮がちに唇を這わせる。可笑しい、可笑しいよ、あなた。どうかしてるよ、いつもみたいに不遜に傲岸に笑って、あのあなたの魅惑的な声で私を惑わせてよ、喋り疲れたらいつもみたいに眠って、夜になったらまた話せば良い。なのにどうしてあなたは、あなたは。こんな風に私を揺さぶるのは止してよ、

「……お前を愛している」
「…………」
「お前の中にある、百年前の女の面影をではない。彼女を求めて、わたしはお前を巻き込んだ……お前から日常を奪った」
「何が言いたいの……」
「一人の女としてのお前を愛している、失いたくないのだ、もう二度と……殺してしまいたくない」
「ディオ、分からない……ぜんぜん、分からないよ」
「聞け、なまえ。わたしは人間ではないのだ。本能で生きる、獣だ。理性らしきものは持って居ても、本当の其れではないのだ。このままでは……このままでは孰れ、お前を、」
「……」
「お前を殺してしまう。お前がわたしを慈しむ度に、お前を喰い殺してしまいたいと欲するだろう。わたしだけのものにしたいと渇望するだろう、わたしは、……」
「ディオ、ディオ……そんな話しないでよ。私それでも、それでも、」

そんなにまであなたに愛された結果なら、それでも構わないのに。口を開きかけた私の唇を指で制してから彼は一瞬なにかを言いあぐねるような顔をしてから、声になる前の吐息だけで私にキスをしたい、と。私が驚いて良いとも嫌だとも言う前に彼は身を乗り出したかと思うと私の目をその大きい掌で覆い隠して、半ば噛み付くように私の唇を奪った。執拗に絡みつく彼の舌からは渋い鉄の味がして、彼はほんとうに人の血を吸って生きているんだなあと、今更、思った。
彼が私の目を覆ったのは、罪悪感から私を守るための優しさだろうか。承太郎と似通った掌で私に触ったのは、相手は承太郎なんだと、私が思い込み易くするためだろうか。違う、違うよ、ディオ。必要ないんだ、だって不思議と、少しも嫌じゃあないんだから。いつの間にか、あなたを……唖々。

「……なまえ、」

唇を離したあと彼はまだ堪えきれないような様子で私の肩口に顔を埋めていた。長いこと私を抱きすくめていたかと思うと掠れた声でディオは、お前はわたしの傍に居ない方が良い、と。