12


日が暮れた頃になまえはわたしのもとへと戻って来た。また何処かで一頻り泣いてきたようで、目の周りが赤くなっている。怒っているのか悲しんでいるのか、何時に無く無表情ななまえからは読み取れなかった。いま思えばくだらない動揺で無理矢理に組み敷いて彼女を追い詰めた手前、わたしにはかける言葉も見付からず右手のワインを傾けることしかしなかった。なまえはいつものようにわたしの左側へ体を沈めて暫く押し黙ったかと思うと、首だけでわたしのほうを見遣ってわたしの右手を指して言った。

「……それ、私にもくれないかな」
「飲めるのか」
「多少はね」

先程の叱責を受けるとばかり思っていたわたしはなまえの言葉に少なからず面喰らった、なにしろいま考えてみれば、あの時のなまえに落ち度などなかったのだ。ただわたしが気に入らなかったという理由だけでなまえの古傷を抉り出した、息が出来なくなるほどに追い詰めたのだ。ホルホースという男が、女の腰に手を回すことくらい息を吐くかの如くやってのける性質を持ち合わせていることは分かっていたのだから。それほどまでに、このDIOには余裕が無いのだ。さして意識などしなかったが過去に一度亡くしたなまえを、例えそれが"なまえによく似た別の女"であると頭では分かっていても、再び失うことを恐れているのだ。この、DIOが。清らかに健やかに生きていた彼女がその手ずから燃える心臓の鼓動を止めたあの時、至上とさえ思っていた歓びはわたしから過ぎ去った。彼女は別れを惜しむ間も無く、……。もう二度と、あのような感覚を味わいたくはなかった、もう二度と、なまえを手放すまいと。


「…………なまえ」
「なあに」

赤ワインの味に良い加減辟易してボトルをロゼワインのそれに変えてから暫く、長い間無言でグラスを傾けていたわたしは漸く口を開いた。このDIOが、其れが誰であろうと他人に対してなにかを"言い辛い"と感じたのは覚えている限りでは実に百年振りであった。同時に自らの過失について、心から謝罪しようと思い立ったのも実に、久方振りである。なにしろ人間を辞める前からわたしは自らを"凡ての頂点に立つべくして生まれた存在である"と云うことを疑った試しが無かったのだから、謝罪だとか後悔だとか況してや罪悪感など小指の皮ほどの価値もない感情であったのだ。ジョナサンの片目に親指を捻じ込んだ時もダニーを焼却炉へ放り込んだ時も、そう、実の父親を毒殺した瞬間は勿論七年間わたしを養った義父を毒殺せんとしている最中でさえ、罪悪感など、これっぽっちも。しかしながらやはりわたしにとっては、この小娘の存在は少なくとも"普通"では無いらしい。なまえが思う"触れられたくないこと"へとずけずけと踏み込んだことを、少なからず詫びたいと思っていた。

「先のことは本心ではない、許せとは言わないがお前の過失ではない。……頭に血が上っただけだ」
「……ん、知ってる」

なまえがちらりとわたしの首元を見遣る。何処か嬉しそうな、それでいて悲しそうな顔をしていた。ボトルの中の酒は未だ半分程残っていたが、これ以上煽る気にもならずわたしはサイドテーブルに空のグラスを置いた。

「……前に、人と云うものは信じたいものを信じているのだと言ったのを覚えているか」
「私が、駄々をこねたときだよね」
「信じる、と言えば聞こえはいいが実際のところ、その感情は言い換えるならばただの自分本位な願望に過ぎない。神を信じる者は楽園へ行き着きたいがための願望を、自らが作り出した神と云う存在に絡み付けているだけ……友人や恋人を信頼する者は裏返せば、近しいその人間に裏切って欲しくないという願望を抱いているだけだ。誰もが知っている感情だ、お前であろうと、わたしであろうと」
「……うん」
「迷惑な話だろうな、お前にとっては。百年前の女を重ねられるなど、身も蓋もない、至極、くだらない考えだろう。これが信じるなどと云う救いようもない考えなのか或いは、逃れようのない執着か、わたしにも考え及ばないがなまえ……わたしはお前がお前であることを願ったのだ」
「うん、分かってるよ、ディオ」

心なしか目線を下へ伏せたままのなまえの指がわたしの掌を絡め取った。冷たい、と思った。吸血鬼である性質上人間よりも低い体温をこの身に宿しているわたしがそう感じるほど、酷く冷たい指先だった。何とも言えない面持ちでわたしの其れを握り締める彼女を眺めるうちにわたしは、自らの心が石を投げ込まれた水面の如く掻き乱されて行く現実を理解していた。どうしようもなく、抗いようもなく、ただ目の前の小娘を失いたくないと思った。

「私……私ね、ディオ、父親が壊れて宙ぶらりんだった時に、承太郎に助けてもらったんだよ。彼とは幼馴染で……正直言ってしまうと最初はほんとうにただの幼馴染としか考えてなかった。でも彼が私を支えてくれたんだ、しっかり、根をはれるように」
「なまえ、無理に……言わなくても良い」
「ちがう、ちがうの……ディオ、私があなたに連れてこられて、最初はそりゃあ、怖かったよ。いつ殺されるかってね。知り合いも居ないし、文化も違うし、私が持ってるものさしなんか通用しないんじゃないかって。スタンドとか言う超能力を持ってるひとがいるって話も、私がそれを持ってるって話も、理解はできたけどそう易易と信じられることじゃなかったよ。挙げ句の果てにはあなた、吸血鬼だなんて言うでしょ?死体だってここに来て初めて見た。
……でもね、あなたとこうして話をするようになって、自分のことを話したりあなたのことを聞かせてもらったりして、なんだか……ああ、このひとって面白いなって……。私、私……」
「……なまえ」

徐々に力が篭っていく彼女の指先が心地良かった。見紛うこと無くなまえは酔っていて、その所為か、其れとも先程のわたしの詰問に心を乱された所為か、普段のなまえでは無いということは至極明白だったが、わたしの掌を握り締める彼女がまるで、わたしを放したくないと思っているかのようで、それがわたしには何ものをも上回る悦びであるように思われたのだ。堪らずにちいさな手を握り返すと彼女は続けた。

「ねえ、もしも……もしも、いまここであなたを殺すことが私にできたとして……そうすれば承太郎や彼の家族が救われるんだとしたら?って、さっき一人で考えてたんだよ。あなたが死んで、承太郎たちは生き永らえて、私は元の生活に戻るだけ。もしそうできるなら、って。もう少し悩むのかと思ったのに、すぐ結論が出たよ。あんまりにあっさりと、寧ろ、迷う余地なんてなかったぐらいに。
そんなこと、できっこないって思ったんだよ、ディオ、いまさらあなたを殺して、めでたくハッピーエンドなんて……私あなたを殺して承太郎が助かったって、幸せなんかじゃないよ、ちっとも。あなたのことなんかまだほとんどって言っていいほど知らないし、勿論承太郎のことは大切に思ってるよ、だけど私、あなたのこともそれと同じように無くしたくないって、思った」

たどたどしくなまえが紡ぎだす言葉を咀嚼していく脳内でわたしは、自らの鼓動に耳を傾けていた。目の前のこのちっぽけな小娘になら、自分の心臓をさえくれてやりたい、そう思った。全くもってくだらない、馬鹿げた考えだとは分かっていながらも、いまこの瞬間になまえに殺されたなら、それ以上の悦びは得られないだろうと。それと同時にいまこの瞬間になまえを喰い殺したならば、永遠に彼女は私のものになるかのような錯覚をした。刹那わたしの心の内で鎌首を擡げたその気の迷いは、一度瞬きを終える頃には跡形も無く消え去っていたものの。

「……もう言わなくて良い、おいで」

言えばなまえは素直にその腕を伸ばしてわたしの背中へと回した。わたしは彼女のちいさな体を抱きすくめ、深く息を吐き出す。百年前の自らがなまえに与えた罪深い仕打ちが初めて、なまえによって赦されたような気がした。このまま二人で揺れあって、鼓動を重ねあって、呼吸も儘ならなくなるまで深海へと沈んでゆけたなら、どれだけわたしは幸福を感じるのだろうか。