「勘違いするなよ」
初めて聞くような、無機質な声だった。
梔子の予想外の反応に、イタチは肩を震わせる。
笑みを消し去った梔子の顔に残ったのは、侮蔑や嘲りではない。
ほんの僅かな失望だ。
「君さ。何のために俺がいると思ってるの?」
梔子は淡々と言葉を吐き出した。
温度のない視線がイタチの写輪眼と交差する。
「…俺を監視するためでしょう…。俺が任務を破棄して寝返らないために」
「なんだ、わかってるじゃないか」
イタチの答えを聞いて、梔子は安堵の溜め息をついた。顔に、微かな笑みがともる。
「なら当然、君が寝返った時の対策も講じてあるはずだよね」
「……!」
役者のように手を広げる梔子を見て、イタチは言い様のない悪寒が背筋を這い上がって来るのを感じた。
写輪眼を通した視界からは、はっきりと見える。
梔子が背にしているのは満月だけではない。
「……まさかこの結界…。貴方は、…何を、一体何をした!」
梔子は再びニコリとした。
そして、軽やかに背をさらす。
「いやァ、気づいてもらえてよかったよ。君の協力があったとはいえ、これだけの結界を誰にも気取られずに張るのはさすがに骨が折れた」
イタチの写輪眼には、結界を構築する糸が幾重にも張り巡らされている様子が映っていた。
予め、イタチはこれを『外側から内側を隔離するもの』だと聞いていた。つまり、この結界を敷けば外から内へ入ることはできても内から外へ出ることはできなくなる、と。
だから警戒心など抱かなかったのに…。
「ああ、嘘はついてないからね」
梔子は背を向けたまま、イタチの思考を読み取ったように答えた。
「君に伝えた通りの結界も張ってある。そのおかけで、ここで起きたことは外からは見えないし聞こえないし、感じとれもしない」
「……結界“も”ですか…」
「あれ?急に冷静だね」
梔子が首を捻り、イタチの顔を一瞥する。
イタチから見えた梔子の表情は影になってほとんど見えない。かろうじて、口許が弧を描いていることだけが判別できた。
「いえ、そうでもないです。…答えて下さい。貴方は何をしたのですか」
梔子はぼんやりと光る糸をするりと撫ぜた。術者であるからか、本来不可視の結界が見えるようだ。
「術をかけた。家に伝わる秘術、とでも言うのかな。更に言うとこの術は結界内を消失させる空間忍術でもあるよ」
「消失…」
「結界の内側にあるものは全て消え失せるってこと。もちろん、転移ではなくてね」
「そんな術…」
「ただし、これを発動させると術者もただじゃ済まなくてねー。俺の父親はこの術を使ったせいで命を落としたらしいよ。兄共々、ね」
「…当然の結果でしょう。それほどの術なら、そのくらいの反動がない方が不思議です」
「ハハハ、いや全くだ」
梔子の声音は底抜けに明るい。親の死をなんとも思っていないように感じ取れる。
イタチはジリジリと後退した。
不思議な人だとは思っていたが、ここまで不気味に思う日が来ようとは……。
「それで、どうするの?うちは一族全員の抹殺は君の任務だ。君には全うする義務がある。弟といえど例外は認められない。…それとも、君と俺と弟君で仲良く心中するのかい?」
「…貴方がその術とやらを発動させる前に、俺が貴方を倒せばいい」
靴の底で地を踏みしめる。イタチは刀を上段に構え、腰を落とした。
梔子もなかなか素早い忍にだが、単純な速さならイタチの方が勝っている。
それに、イタチには万華鏡写輪眼もある。この眼がある限り、負けはしない。
「ああ、そう。……あまり失望させてくれるなよ」
梔子はイタチへと向き直った。
イタチは好機とばかりに、瞳術を発動させようとして、
――出来なかった。
梔子が何かを仕掛けたわけではない。
ただその表情が、困ったように笑う顔が、イタチを踏みとどまらせた。
まるで聞き分けのない子供に向けるような表情。
イタチはそれに、意味もわからずゾッとする。
「イタチ、今ここにいる俺は影分身なんだよ。…結界を張っている最中は動けなくてね」
最後の種明かし。
チャクラを均等に分割する影分身なら、写輪眼でも見抜けない。
しかし…。
「……貴方は依然、影分身は苦手で使えないと、言ってませんでしたか…?」
「ああ、あれ嘘。今回の任務の監察役…あの時既に決まってたからさ、ハハハ」
イタチは愕然とした。
つまり、その時から今日の下準備は始まっていたのだ。
イタチが任務を完遂できないことを見越して…。
梔子はもしかしたら、イタチがサスケを生かそうと思っていたことに感づいていたのかもしれない。
イタチは今になって、梔子にサスケの話をしたことを思い出した。
あの時、イタチは梔子に言ってしまったではないか。―――「里より大事なものがあるとすれば、それは弟です」と。
イタチは自分の迂闊さを呪う。
はっきり言って完敗だった。イタチは戦わずして負けたのだ。
「…流石です。先輩」
「うん。ありがとう」
イタチは力無く項垂れた。
手にしていた刀が滑り落ちる。カシャンと虚しい音が響いた。
「君が憎くて言ってるわけじゃないんだよ。でも火種を残すわけにはいかないんだ…わかるよね?」
「…はい、わかってます。……だから…」
イタチは崩れ落ちるように膝をつく。
地面とぶつかった膝がじんわりと痛む。
梔子がどんな風に自分を見ているのか、イタチにはわからない。
それでも、こんな自分にも、たった一匙ほどの同情をかけてくれたらいい。イタチはそう思って、冷たい土に両手をついた。
「…先輩、お願いです……、お願いします!どうかサスケを、見逃して下さいッ!」
人生で二度目の土下座だった。
けれど一度目よりもずっと真摯に、心の底から、イタチは懇願した。
「お願いです先輩…ッ。サスケは、将来きっと里の役にたつ忍になります!俺なんかよりもずっと優秀な…優秀な忍になって木の葉を守るはずです!」
「…俺には復讐者になるようにしか思えないけど」
「…それで、いいんです。そして一族の仇を取った英雄になってくれれば…」
「酷い兄貴だね。それは君のエゴじゃないか。自分の後始末を弟になすりつけようとするなんて…」
「はい。でも、どうか…どうかお願いします!後生だから…ッ」
「………」
「ほんの少しでも同情する気持ちがあるなら、それに縋らせて下さい…!」
イタチにはもう言葉しか残っていない。
同情をひくために、媚びへつらうことしかできない。
しかし、殺せなかった弟を守るためなら、どんな醜態でもさらせる。何だってできる。
地面に擦り付けた額は、皮膚が裂けて血が滲んでいた。
鼻から脳へ抜けていく腐葉土の臭いに、酔いそうになる。
「………」
梔子は口を閉ざした。
苦しい沈黙の針が夜風に揺らぎ、チクチクと肌を刺した。
イタチは縋りつくように頭を下げ続けた。
「……イタチ、顔を上げて」
梔子の平淡な声に、情けなくも手が震えた。
ザリ、と土を踏む音がすぐ側まで迫る。
「まったく参っちゃうなァ」
そうぼやいた梔子は、イタチが顔を上げるとほぼ同時にイタチの横を通りすぎた。
「梔子先輩…」
「任務は無事完了!もう結界を解くから、君は速く身を隠した方がいい。木の葉には鼻の利く人がいるからね」
梔子が背を向けたまま、肩を竦める。
…言外に見逃してくれると、そう言っているのだろうか。
「…あ、ありがとうございます、先輩」
イタチは慌てて立ち上がり、深々と頭を下げる。
「え?なにが?」
梔子は踵を返してとぼける。
その顔には相変わらずの笑顔が浮かんでいる。
「…いえ、何でもありません」
「そう。じゃ、これでお別れだ。達者でね」
「はい。先輩も、お元気で」
イタチはもう一度礼をした。少しして顔を上げると梔子の姿はどこにもない。
もう少しすると、うちは一族の住まう地域全体に張り巡らされていた結界が、音もなく解けていった。
――本当に不思議な人だ…。
「さようなら…」
それは真ん丸な月の見下ろす夜の出来事だった。
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