アカデミー卒業試験。を、15分後に控えた教室内は、微妙な空気に包まれていた。
というのも、このクラスの生徒は、てんでんばらばらでまとまりがない。
試験前に相応しく、緊張で手が震えている者。面倒臭そうに欠伸を噛み殺す者。お菓子をたべる者。余裕とばかりに窓の外を眺める者。とある席をめぐって争う者。机に突っ伏し惰眠を貪る者。犬と戯れる者………。
…あげていくと切りがない。
卒業試験は一人一人名前を呼び、別の部屋で行うそうだ。
課題は『分身の術』。
九は定位置(最も廊下側、後ろから2番目の席)に座り、だらし無く背もたれにもたれていた。
その瞳は宙を見つめている。
ここ最近、ずっと晴天が続いているため、窓の外には抜けるような青が広がっていた。
そうすると、教室に閉じこもっているこの時間がひどくバカらしく思えて、無性に堪らなくなる。
こんな日に柔らかな芝生の上で横になれたのなら、最高に気持ちいいだろう。
九は、ひそかに抜け出してしまおうかと考えた。
確か“原作の主人公”はこの試験に落ちていたはずだ。だったら、抜け出しても問題ないだろう………多分。
いつの間にか、狭い空間に閉じこもっているのが性に合わなくなっていた。
昔はどちらかといえばインドア派であったのだが、環境が変われば人も変わるという事だ。
つまらなさに負けてお行儀悪く足をぶらつかせると、椅子が悲鳴を上げた。
「……ね、ねぇ。九君……」
珍しく、隣の席に座っていた少女―――日向ヒナタが、その白い目を泳がせながら声をかけた。
か細い声。この少女はいつも何かに怯えている。
「ん〜?」
「………」
九は明後日を見つめるような顔で、なんとも気力の無い返事だけを返した。
悪意なく、話しかけてくる人間は珍しい。が、自分から話しかけておいて黙り込む人間はもっと珍しい。
日向ヒナタという少女は、喋り出す前には必ず口をもごもごとさせなければ気が済まないようだった。
彼女が次の語句を口にするまで、ゆうに30秒はかかる。
だから九は、それをじっくり待つことにしていた。
人には人のタイミングというものがある。尊重してやる事も必要だろう。
「……あ、その、ね?あんまり緊張…してないみたい、だから」
「ん〜…まぁ、むつかしい試験でもないみたいだしね。逆に気楽にしていた方が受かるよ。きっとね」
「……そ、そう、かな」
「そうだよ」
「……う、うん」
そこで会話は終了した。
ヒナタは気まずそうに前を向く。
その姿は落ち込んでいるようにも見えたし、憂鬱そうにも見えた。
おそらく、上手く会話もできない自分に凹んでいるのだ。
引っ込み思案で自分に自信がなくて、いつも誰かの顔色を窺い、誰かの視線に怯えている。
今も、話しかけた事で九に嫌われたのではないかと、しきりに気にしている。
ヒナタは、そんな子供だった。
ヒナタがこんな性格になってしまったのは、家の事情が複雑に絡み合った結果だった、ともいえよう。
“原作”の内容は大分忘れてしまったが、ヒナタの家がなかなか複雑な状況下にある事は知っていた。
日向家が響かせる不協和音は、情報に聡い者になら意識せずとも聞こえるものだ。
宗家としての立場や、分家との軋轢。
ヒナタは心根の優しい少女だ。
だがそのせいで、そういったものを上手く背負えないでいる。
もし。
ここにいたのが“原作の主人公”だったなら、ヒナタをどう救ったのだろうか。
ヒナタは“原作の主人公”に恋にも似た憧れを抱いていた。
少し馬鹿なところがあるけれど、誰よりも真っすぐで、自分を信じ続けた主人公。そんな彼にヒナタは惹かれていたはずだった。
そして、それは主人公が九と置き換わっても、どういうわけか、変わらないでいる。
ヒナタが九を見る瞳は、きらきらと光っている。まるで、自分だけの宝物を見つめるような瞳だ。
こんな自分のどこに夢を見ているのか。
九にはさっぱり解らなかったが、そう思うと少しだけ申し訳なさが心に浮かんだ。
もし。
ここにいたのが“原作の主人公”だったなら、ヒナタは変われたのだろう。
しかし、ここに彼はいない。
いないのだ。
九は背もたれにもたれるのをやめて、机に頬杖をついた。
退屈に溶けだした頭で、ぼんやりと記憶を手繰る。
記憶というものは、どうしたって消えてしまう。
人間は忘れるようにできているのだ。
そしてそれこそが人間の長所とも言えるだろう。嫌な事はそうそうに、忘れてしまうのに限るのだから。
(ヒナタ…か。駄目だ、思い出せないや……)
もし。
九に完璧な“原作”の記憶があったならば、その通りにしてやってもよかった。
九はヒナタを嫌いじゃない。
ヒナタとたまに交わす会話は、テンポは悪いが、特別億劫だと感じた事はない。
だから、覚えていたならば、ヒナタの前では“原作の主人公”のように振る舞ってやってもよかったのだ。
もし。
記憶が消えてしまうものでなければ。
「まぁ、どーでもいいんだけどね」
九の呟いた声が聞こえたのか、ヒナタは不思議そうに首を傾げた。
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