午後、メロたちは教員から指定された空き教室に移動するよう指示された。
そして足並みの揃わない三人が空き教室を訪れた時、室内には既に一人分の気配があった。
「お邪魔しまーす」
慇懃な言葉と共にドアをスライドさせたのはマットだった。
ドアの向こうの景色は見慣れたものだった。光を取り込むための大きな窓と、段々式の机、幅の広い教卓。この教室を使用したことはないが、アカデミーの教室はどこも似通った構造をしている。
マットとメロはその教室内に、知らない背中があることに気づいた。その人物は入口に背を向け、窓の外を見ている。
木の葉の忍装束を着ていることから、マットはあれが自分たちの上忍師であると思った。
「待て、マット」
しかしメロは、入室しようとするマットの首根っこを捕まえて、室内を訝しげに見渡す。それは何かを警戒するというよりは、不信を示す表情だった。
入り口の前で立ち止まった二人の背中を見ていたニアは、メロの行動に気だるい気分の中にそっと警戒心を忍ばせ、二人の体の隙間から教室内に誰かの後ろ姿があるのを確認した。
「あれは…」
ニアの呟きを聞いたメロは、自分より低い位置にある頭を一瞥し、鼻を鳴らした。ニアが自分と同じ見解に至ったことが気に食わない。
「マネキン、だな」
しかしまだ気づいていないマットのために、メロは囁くように言い、ニアは黙ったまま頷いた。
「え?マジ?」
マットはそこで漸くマネキン(らしい)の姿を注意深く観察する。身じろぎすらしないそれは完全に静止し、呼吸筋が動いている気配すらない。静寂の中で佇む後姿には生気が感じられない。
「あー…言われてみれは人形っぽいな。授業で使うのか?」
マットは自分だけ気づかなかった事実を誤魔化すように、決まり悪く頭をかいた。
ハウスではナンバー3の成績を誇っていたマットだが、天才と呼ぶにはもの足りない。ハウスの職員たちには所詮秀才止まりと詰られた時期もあった。
しかし、マットにはそれで良いと考えられる柔軟な頭脳と深い懐があった。
「それは考えにくいですね。アカデミーのカリキュラムは一貫していますから、授業で使うのであれば卒業生である我々も一度はあのマネキンを見ていて然るべきです」
だからニアの淡々とした口調に否定されても、マットの心は劣等感や憤りを感じることはない。
そもそも天才がそう何人もいてたまるか、というのがマットの持論だ。
「メロ」
「…ああわかってる」
ニアはメロに教卓を突けと目配せした。ニアの視線の意図するところを正確に読み取ったメロは、不意に湧き上がる苛立ちを飲みこむように舌打ちする。自分も同じことをしようと考えていたのに、ニアに指図される形になってしまった。投擲用ナイフを握る手に必要以上の力がこもる。
この教室には、マネキンだけが鎮座しているように見えるが、自分たち以外の誰かが息を潜めこちらの様子を伺っている気配がある。
ただ敵意や悪意はないことを忍になるべく培われた感覚が伝えているため、警戒レベルはあまり高くないと判断できる。メロやニアがいつまでも教室の入り口に突っ立ているのはそのためだ。
「マット、下がれ」
マットは大人しく従った。マットも投擲は得意なほうだが、だからといってでしゃばらないところが高く評価できる。
メロは仕込みのスローイングナイフを3本同時に教卓へ向けて放った。クナイではなくナイフを愛用しているのは、前世でも使用していたナイフの方がなじみ深く愛着を持てるからだ。
メロの投擲の腕前は、下忍のそれを軽く越えている。もっと言えば、メロはアカデミーでは10年に一人いるかいないかの天才と呼ばれ、幻術の素質以外は全てトップクラスだった。あの"うちは一族"の末裔をも凌ぐ実力は賞賛も罵倒も一手に集め、良くも悪くも注目の的にされていた。クール気取りのうちはサスケですら看過できないほどに。
ナイフは狙った的を過たず、教卓の足の側面貫いた。
足の側面が板張りになっている教卓は中が空洞になっており、子供なら三人、大人でも小柄なら二人は隠れられるスペースがある。そこから辛うじて"誰か"の気配がもれていた。
まるでわざと気配をもらし自分の居場所をあえて知らせているようだ、ということにはメロもニアも気づいていた。だから面白くない。ナイフの刃が板を突き抜けるように投げたのは、メロのささやかな意趣返しだ。
教卓がガタッと音を立てて振動した。それは狭い空間でうっかり頭を強打したような音だった。もしそれが本当ならザマミロだ。
そうしてメロとマットが含み笑いを浮かべていると、教卓の下にいる誰かは観念することを決めたようだった。
先ずは生白い腕がぬうぅっと現れた。そして腕の後を追うように濡羽色の頭がニョキリと突き出す。方々に伸びた艶のない黒髪は自然なようで不自然に毛先の長さが揃っていない。
「さっさと出てこいよ」
苛ついたメロの声がその人物を急かす。しかし、そんな声は聞こえていないかのように殊更ゆっくりと、まるでナメクジが這うような速度で全貌を露にしていった。
這い出したのは若い男だった。着ている服は一見すると木の葉の忍装束に見えるが、よくよく眼を凝らして見るとくたびれた黒のスウェットだ。 その男は這い出た体勢のままシャカシャカとゴキブリのように四肢を動かしメロたちの前にやってきた。
―――…あ、変態だ。とは三人の心の声だ。奇跡的に心がひとつになった瞬間だった。
そのゴキブリは機敏な動きで停止し、頭をこれまたぬうぅっと擡げる。
毛先の不揃いな頭。生白い不健康な肌。ギョロついた丸く大きな眼。パンダのような隈。薄い唇。
見るからに貧弱で、少し神経質そうな空気をまとった男は、ゆっくりと立ち上がりながらメロたちを窺う。
男の唇が微かに開く。
「はじめまして、ルエと呼んで下さい」
そう言って男、―――ルエは爪を噛んだ。
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