年季の入った木製の扉は些か重く、押しあけるときのその手応えに懐かしさを感じながら久しい店の入り口を静かに入った。店内は薄暗く、所々に備え付けられた間接照明の柔らかなオレンジ色の光が揺らめく様は、店主の控えめな性格とそのセンスの良さを滲ませている。
カウンターが五席とボックスが一席だけの小さなそのバーは、警察学校時代に友人や先輩とよく通った馴染みの店だった。
夕飯どきの今の時間帯はほとんど客の姿など見られない店内に先客が一人。癖のある髪と撫で肩なその背中には見覚えがあった。

「渉じゃないか」

振り返った友人は少し驚いた顔をしていた。
「は?あぁ、零か」
「奇遇だな」
右隣の席に乗せていたジャケットを反対側に退けながら渉は「久しぶり」と静かに笑う。
「お前が来るかも、と思って」
「バーカ。直らないだけだろ、その癖」
「うっせーよ」
此処で飲むときはお互いに座る位置が決まっていたせいか、渉が先に店にいるときは決まってその右隣の席が彼のジャケットや鞄なりで確保されていることが多かった。あれから一体何年経ったと思っているのか。
まぁ、少し嬉しいと感じたのも事実だった。
「で?何飲む?」
少し悩んだのちに、彼と同じものを、と店主に呟いた頃には渉が昔から気に入って飲んでいるウイスキーが準備し始められていた。この流れも、昔から変わらない。一杯目は、必ず相手に合わせている自分の癖すら未だ健在のようだ。

「最近どうなんだ?」
「まぁそこそこだな。どうせ警護するなら加齢臭のするハゲ親父よりグラマラスな美女がいいって言ったら殴られた記憶も浅いが」
お前は?とグラスの中身を煽りながら渉は優しい目でそっと此方を見た。相変わらず彼は自身に素直なようだ。
「変わりないさ」
どうぞ、と差し出されたグラスを受け取って身体を左に向ければ、同じように渉もこちらを向く。
互いのグラスを静かに合わせた。

「久しぶりの再会と」
「変わらず元気な姿に」

「「乾杯」」

緩やかに喉を通り抜ける熱は心地よくて、ふと最近、あの人が自分の家で口にしていた酒を思い出した。姉弟揃って好みは一緒か、と喉を鳴らす。どちらかと言えば、渉が姉に憧れて影響されたという可能性の方が高い。

「姉貴、元気にしてるか?」
「元気すぎるくらいだよ」

案の定、話題は彼女の方へと向く。少し前に倒れたことは伏せておく。極端に姉思いなこの男を無駄に心配させるのもどうかと思ったし、何より彼女がそれを嫌う。まぁ、実際たった一晩眠っただけで全快したわけなのだから言うまでもないだろう。あの人のタフさは昔から変わらない。

「そうか……」

ところが渉はほんの少し表情を曇らせた。まさか、他からすでに情報が漏れていたか?いや、あの晩他の人間は全て帰っていたし、そんなことはないはずだ。本人が話すとも到底思えない。というか、それが一番ありえない。

「どうした?」
「まぁ……ちょっと嫌な噂を聞いちまってさ」
「噂?」
突然その眼の光を厳しいものにした渉は、詰めるように此方を向く。警備部内で何か体制に変化でもあったのか。自分なりに拾える情報は拾っているつもりだが、どこか見落としがあったか?

「お前、稲垣律って知ってるか」

見当違いなその言葉にふっと息が漏れた。
「あぁ、そういうことか」
そして、彼の殺気に納得して手にしたグラスを傾ける。軽やかな音を立てて氷が鳴いた。けれども隣の男からは溢れんばかりの怒気がヒシヒシと伝わってくる。そろそろ大人になれよ、という言葉は口に馴染んだウイスキーと共に飲み込んだ。
「お前がそういうってことは、やっぱり……本当なんだな」
「見ていて微笑ましい限りだぞ?」
「それならお前の方がまだ良かった」
「おいおい……勘弁してくれ」

「姉貴にはその辺の男じゃ釣り合わねぇんだよ」

残りを一気に煽った渉は、そのままグラスをカウンターへと叩き置いた。それを見た店主が苦笑したのを確認できたのは、おそらく自分だけ。グラスの飲み口の良さから、ある程度高価なものだと意識はしていたが、次は止めた方が良さそうだ。
「俺もその辺の男なんだが」
「お前は出来過ぎだ。同じ男として憧れる半面で、嫉妬もするぐらいにな」
やけに真剣な表情で自分の肩を抱いた彼からは、確かに酒の匂いと微かな硝煙の香りがした。昔から渉の射撃の腕前はなかなかのものだったが、この様子では今日は大して的に当たらなかったとみた。

「渉、酔ってるだろ……」

仕事柄もあるが、血筋もそうだ。決して彼は酒に弱いタイプではない。ともすると、自分に会うまでに結構な量を飲んでいたのか、よほど姉に恋人が出来たことがショックだったのか。子供じみた理由には呆れすら通り越す。そういうところがなければわりと優秀な人材なんだが、と困ったように笑う彼女の顔を思い出した。
「酔ってねぇよ……お前は凄い。姉貴だって、認めてる」
「未だかつてそんな風に言われたことはないが」
「なんとなく分かるんだよ。姉弟だから」
大真面目に囁かれた言葉に苦笑しながら顔を上げれば、店主と目があった。そして直ぐに渉の前に静かに差し出された水の入ったグラス。この姉弟が姉弟として過ごした年月よりもよっぽど長い間客を見てきた店主にとっては、その流れを汲むのは造作もないことであったかもしれない。それでもキャリアとはこういう人に使う言葉だなと、妙に納得した。

「零の目から見て、稲垣ってどんなやつ?」
ようやく自分との距離を置いた渉は、ジャケットのポケットを探りながら視線だけをこちらへと向けた。左の内ポケット。無意識な彼の癖を思い出して教えてやれば、ひしゃげた煙草の箱を満足そうに取り出すその姿。いつもそこに入れるのに気付けば探そうとする迷惑な癖だ。
「あまり口外するのも職務上アレなんだが……お前が心配しているほどではないさ。それに」
傷の目立ち始めたジッポーから響く甲高い音と火花を見つめ、一呼吸。

「あの人が選んだ男だろ?」

あの日、熱に浮かされどんな夢を見たのかはしれないが、寝ても覚めても、あの人があんな風に誰かの名を呼ぶのは初めて見た。愛しそうに、けれどもどこか寂しげに……胸に何かつかえたような苦しさを重ねた声。
生憎その理由を探ることは自分の公務ではないし、ましてや渉に教える義理もない。そういうのは、結局のところ当人同士の問題だ。

「……なぁ零、お前姉貴のこと好きだろ?」
「俺の好きはどちらかというとお前たち寄りだ」
「いーじゃん、この際」
「何がだ。押し付けるな」

煙草を咥えたまま左頬を下にしてカウンターに伏せた渉は、だって年下の兄貴とかありえねーだろ、と項垂れながら目を閉じた。
問題はそこなのか。
たとえば、いつか、もしもの話
そりゃあ幸せにはなってほしいけど


「シスコンも程々にしておけよ」
「俺なんかより昇が煩いに決まってる」
「あーそうだった」
「いや、待て、零。俺一番厄介なの忘れてたわ」
「一番厄介……あぁ、浩孝さんか」
「あれこそまさにラスボスだよ。魔王バンザイ」
「親父さん説得するより、よっぽど大変そうだな……」
「下手したら沈められるんじゃね?」
「それとなく、忠告しといてやるか……」


あとがき+α

一ノ瀬家は一姫四太郎なので、一ノ瀬さんはそこそこ大事にされてます。本人はそんなもの盛大に無視してますが。
中でも一ノ瀬さんと双子である次男の昇さんと、三男の渉くんは一ノ瀬さん大好き。そしてラスボス、浩孝さんは一ノ瀬さんのお父さんである浩之さんの弟で、ようは一ノ瀬さんの叔父さんですね。甥っ子たちには鬼神の如く厳しいけれど、姪っ子にはデレっデレのちょっぴりチャーミングな叔父さん(一等海上保安監)。

20180813
Title by 誰花

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