それを指す名前がないな
そこは通いなれた大学へ続く大通りからは少し外れた場所にある。

“TRY AGAIN”

なんでもマスターが贔屓にしている歌手の曲名がその店の名の由来らしい。短絡的だ、物好きだと笑うものもいた。けれどそんな他人の言葉には一切惑わされない意思の強いマスターを、アルトは兄のように慕っていた。そして、時折現れる性質も酒癖も悪い客を相手に、渋い笑みを浮かべてあくまで大人な対応をしてみせるマスターが、その歌手の話をするときにだけ、まるで少年のように目を輝かせて、いつもよりずっと生き生きとした笑みを見せる様がアルトは嫌いではなかった。

「アルト君久しぶり!」
「よぉ、元気だったか?」
「まぁ、それなりに」

久しぶりに顔を見せたそのバーのカウンターの奥で二人の人影が揺れた。カラン、とどこか上品に響くベルの音を背に、アルトはいつもの自分の位置に腰を下ろす。然程広さはないが店の中央にはホールがあり、そのホールの壁際には一台のアップライトピアノが置かれている。チッペンデールデザインが特徴的なそのピアノを見ながらグラスを傾けるのがアルトが此処に通う一番の理由である。
さして高級なブランドのものであるわけでもなく、それでも抜群の存在感を放ち、店内の柔らかいオレンジ色の光に包まれて、ただ静かにそこにある。星の良く見える晴れの日は凛と、厚い雲が空を覆う雨の日はどこか悲しげに……まるで人のように表情があるみたいだと、そう口にした過去の自分をオズマは笑うでもなく、ただただグラスを拭いていた。

そんな旧懐の想いとピアノから視線を外したアルトは、ごく自然に出されていたグラスに手を伸ばす。ハーフ・ロックにされたウイスキーをゆっくりと舐めれば、カウンターの向こう側では賑やかな兄妹のやりとりが繰り広げられている。
どこか息苦しささえ感じてしまう実家よりも、ずっと居心地の良い空間に静かに酔いが回っていくのを感じながら、アルトはそっと目を細めた。

2011XXXX Takaya
穏やかでささやかな、ひととき
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