きらめきは死なない
暗闇の中で独りきり。空の青や雲の白、草木の緑だけでなく、お気に入りの書籍や見慣れた譜面、指に馴染んだ鍵盤も、その上自らの手の形すらも消えてしまった。昨日までこの目に映っていた世界は一体何処へいってしまったというのか。あるいは全て夢だったのだろうか。
暖かくて、とても優しい夢。

聞き慣れた声がしない。
冷えた指先に触れる体温が見つからない。



ここは何処。






――わたしは何処。






目が覚めても広がる闇におはようを言えるようになったのはわりと最近の話だ。首元と額にじんわりと汗を感じる。
「嫌な夢……」
ぼんやりとした意識の中で、手を伸ばす。手探りでシーツの波に呑まれかけた電子時計の輪郭をなぞって、リラはゆっくりとボタンを押した。

『11月23日火曜日 12時28分』

単調な電子化された音声が時を刻む。大丈夫。転寝をしてしまっただけのようだ。変わらない日付と告げられた時刻に胸をなでおろしながら、そのままベッドの上で伸びをした。固まりかけていた筋肉が解れてなんとも言えない心地よさと、同時にゆるい痺れを感じる。
瞳の奥でもたつく睡魔を振り払って上体を起こし、ひとつ深呼吸。よし、と立ち上がって向かったのは亡き両親がかつては寝室にしていた部屋であり、今となってはリラが幼い頃から大切にし続けているピアノを置いている部屋だった。

少し重い蓋を開けて鍵盤に触れれば指先から凍てつくような冷たさがあったが、響く音はいつも通り滑らかで優しい。頭の中に広がる音の波に触れた指が迷うことなく続きを奏でる。まるで呼吸をするように繊細なアルペジオの旋律が左から右へ、右から左へと流れていく。
この暗闇から救い出してくれた懐かしい記憶の音だ。

それはきらきらと湖面に燦めく太陽の光や、初夏の青々と育つ葉の香りを乗せた風が髪を揺らす様を、今や暗闇以外を奪われたその目に映して見せた。そして、リラの心の中に暖かな風を吹かせた。
小さくて繊細な指先が優しく鍵盤を弾く姿が思い浮かぶ……あの日、あの子の音に出会わなければ自分は今こうして生きているのかどうかも定かではない。本当に、とても運命的な出会いであったと心の奥底に大事にしまってある。

最後の一音の波紋が緩やかに静寂へと融けていくのを聴きながらリラはひんやりと冷気を放つ譜面台に額を当てた。思い出すだけで涙が溢れそうな程光や色に満ちた響きにもう一度触れられるなら……生涯この暗闇から抜け出せなかったとしても、わたしは不幸だと嘆いたりはしないだろう。

20170827 Takaya
この先、ずっとずっと
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