数日後、寒空に浮かぶ太陽の柔らかな光を背に、リラはフランチェスカが勤める幼稚園を訪れていた。目の前にあるはずの扉は僅か数センチ程だろうが、とても重厚なもののように感じる。
「今日はみんなに紹介したい人がいます。ちゃんと大きな声でごあいさつ出来るかな?」
普段よりもずっと柔らかさを湛えたフランチェスカの声に、室内からは幼いソプラノの声が「はぁーい!」と元気に響き渡った。
すーっと吸い込んだ冬の空気は凍てついていたが、高鳴る胸の鼓動を治めるには丁度いい。リラは「大丈夫、大丈夫」とお呪いのように呟きながらガラリと開いた扉の音に顔を上げた。
「準備はオーケー?」
「うん。頑張る」
そっと手首を引かれながら、入った教室の中にはささめくような声が溢れている。小さな意識が自分へと集まるのがとてもこそばゆく、思わず笑ってしまった。
「はい。先生の妹で、とってもピアノが上手なリラ先生です。今日はみんなの為に素敵な音楽を届けに来てくれました」
「みなさんはじめまして、こんにちは」
「「「こんにちわーッ!」」」
良くできました、と言わんばかりに今日もみんな元気ねだなんて、隣で微かに笑うフランチェスカを感じる。重なり合う幼い声はまるで歌の一小節。心躍るメロディが血液を流れる様に響いていく。リラは自身の体温がゆっくりと昇っていくのを感じ取った。
「今日はみなさんと楽しい1日を過ごしたいと思って来ました。よろしくお願いします」
小さく頭を下げれば輝きを失わない声がなぞる様に「おねがいしまーす!」と追いかけてくる。
リラの目が見えないことは、フランチェスカが事前に子供たちに説明をしているらしい。彼ら、彼女らが子供なりにそれをどこまで認識しているのかは知らないが、リラにとってそれはどうでもいいことだった。なぜなら、たとえ見えなくても伝えられるものがあることを自分は知っている。
「それじゃあ、カレンちゃん。リラ先生を連れて行ってあげてね」
幼い手がオルガンの前へと誘導してくれる道のりの中、その歩幅の小ささやぎこちなさ、緊張で汗ばんだ掌が愛おしくなり、きっとフランチェスカと沢山練習したのだろうとリラは思った。
それと同時に、これから奏でる1音目がどうしようもなく待ち遠しくて、弾む気持ちが抑えられない。
左手を乗せた鍵盤の位置と椅子の高さを合わせ、ペダルの固さを確認する。普段から使い込まれているからか、指先によく馴染む鍵盤はドの音を鳴らせてみると少し軽いぐらいだった。落ち着いて弾かなければ音を落としてしまいそうだと、リラは意識を集中させた。
「それじゃあ先ずは皆がよく知っているお歌をひとつ。分かったら大きな声で歌ってくれる?」
まるでクイズを出すかのようなリラの発言には子供達に少しばかりの緊張が走る。小さな胸の高まる鼓動が聞こえた気がしてリラは柔らかく微笑んだ。
そして、冬の風に少しだけ冷えていた彼女の指先が鍵盤を撫ぜて歌えば、アッ!とその前奏に顔を見合わせた子供たちが明るい笑みを浮かべる。自分達の知っているリズムで音が弾むことが嬉しそうな様子にリラの笑顔も一層深くなった。
「せぇのッ」
前奏の終わり、メロディが始まる直前にかけた掛け声で子供達が大きく息を吸い込む音が心地よくリラの耳に届いた。
きらきらひかる おそらのほしよ
まばたきしては みんなをみてる
きらきらひかる おそらのほしよ
月明かりのない夜。闇夜が恐ろしくて眠れなかったとき、母親がよく歌ってくれた歌だった。お月様と一緒で、お星様もきらきら光りながら貴女を見ていてくれるのよ。だからほら、怖くない。ひらめく星々がリラの記憶の裏側で微かに揺れていた。
20190129 Takaya
まるで魔法のように