「わっ、ごめんなさい!」


 足元を埋め尽くす白を見て、ジュード・マティスは反射的に謝っていた。ぶつかった相手はぽかんとしていたが、散らばった書類も汚れはなく、強く咎められることはなかった。けれどジュードとしては、それほどに落ち着きがなかったのだと、顔が茹で蛸になる気持ちだった。
 一度深く呼吸をして、再び廊下を小走りに進んでいく。曲がり角は、特に用心して曲がるようにした。そして、やがて辿り着いた図書室で、ようやく目的の少年を見つけることができた。


「……エリアス?」


 そろそろと近づいて、机に突っ伏している肩へ声をかける。
 返事がない代わりに、少年の肩が、ゆっくりと上下しているのが見て取れた。すっかり夢の中にいるらしい。

 ……どうしよう?
 たった一人の同い年を目の前に、ジュードは少し迷ってから、やはり彼を起こすことに決めた。


「エリアス」
「……………ん」


 揺すられたエリアスがわずかに顔をしかめ、ジュードはぎくりと手を浮かせたが、もう一度強く肩を揺らしてみた。
 そもそも彼は、すぐ戻ってくると出ていったものの、結局昼休みに入るまで姿を見せなかったのだ。今のうちに起きていないと、昼食を食べ損ねたまま午後の講義に望まねばならなくなる。それは流石に気の毒だと思った。


「……ん……?」

「エリアス、大丈夫?」

「あれ……ジュード……」


 寝ぼけ眼を擦り、しばらく状況把握に費やしたのち、エリアスは勢いよく立ち上がった。
 彼が何度も謝るのをなんとか落ち着かせて、とりあえずは、周囲の邪魔にならないように図書室から出ることにした。



「あー……図書室で、話の長い先輩に捕まっててさ。しまったな、いつの間にか寝てたみたいだ……」

「エリアス、昨晩も寝るの遅かったもんね。何かあったの?」

「いや、それがさぁ」


 曰く、合同研究発表が迫っているが、研究のまとめや参考資料が不完全で、今日の夜はメンバー全員で集まらなくてないけなさそうだ、とのこと。
 エリアスは首から不安な音を鳴らし、「一回着替えに帰らないとなぁ」なんて呟きながら、ぼんやりとした目をこすっていた。


「じゃあ、今日は夜別々だね」

「うん、悪いな。明日またお邪魔していい?」

「もちろん。じゃあ放課後、」

「おーい、エリアス」


 不意に、聞き慣れない声が被さってきて、ジュードは思わず口を閉じた。
 先に振り向いたエリアスが、学科の先輩だ、と呟く。ジュードとしては見慣れない、背が高く、いくつか年上の少年だ。思っていたより距離は近く、その先輩はさらに近づいてきながら、ジュードとエリアスにニヤリと笑っていた。


「なーんかお前らの会話って、やっぱ誤解を招くよなぁ」

「え?」

「…………んがっ」


(なんのことだろう?)とジュードは首を傾げる。
 この時、この純朴で利発な少年は多くの知識に長けていたが、結局隣でエリアスがものすごい顔をした理由については、最後までてんでわからなかった。対するエリアスは猛然と先輩に食ってかかっていたので、ジュードは思考を止めて目を丸くした。


「ちょっと、違いますからね! 変な噂流さないでくださいよ!」

「え、えっと……エリアス……?」

「ジュード、気にしなくていいからな!」

「わっ……」


 ぐるんとエリアスの首が回り、ジュードとエリアスの目がかち合う。あまりの勢いに鼻先がぶつかるんじゃないかと思ったけれど、それよりも、その近すぎる距離感に、ジュードはドキリと固まった。

 うわあ、エリアスって目が綺麗だなあ。
 そういえば、エリアスが怒るの、初めてだ。

 けれどそれも一瞬の出来事で、少年はすぐに先輩へと向き直ってしまった。


「怒るな怒るな、冗談だって。じゃあまた後でなぁ」

「絶対ですよ!」


 ジュードが口を挟む間もなく、エリアスの先輩は足早に居なくなってしまった。その後を目で追ってみると、どうやら別の知り合いに話しかけているようだ。社交的な人なんだなあ。
 ぼんやり感心していると、エリアスがズイと覗き込んできて、思わず「わっ」と一歩下がってしまった。逆にぽかんと目を瞬かせる彼に、不意打ちをくらった僕は、とりあえずといった具合ににこりと笑った。


「えっと。明日、何が食べたいか考えておいてくれると嬉しいな」

「あー……うん」


 するとエリアスは、なぜか心底気まずそうに目を逸らした。ついで、「こういう会話もだよなあ」と呟かれた真意も、ジュードにはやっぱりわからなかった。



'140824

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