その日のイル・ファンは、正午の鐘あたりから、止まない雨に見舞われていた。軽やかになってきた雨音が、夜と耳に優しく染みていく。
 施錠間際の正面玄関に出ると、そこには記憶に新しい美人が立っていた。


「あれ? えっと……ミサリアさん?」

「こんばんは」


 彼女の形の良い唇が、形の良い笑みを浮かべる。
 その、どうも作り物目いた化粧だと、失礼ながら思ってはいたけれど。その目元や唇に、ふと別物の違和感を覚えた。


「ミサリアさん、体調大丈夫ですか? ちょっと、顔色悪く見えますけど」

「そうかしら。暗いから、そう見えるだけよ」


 にこりと、笑顔が重ね塗りされていく。
 ……そうだろうか。発光樹の淡く、暖かい光でも、唇が一瞬だけ震えるのだって見逃さない気もした。


「……でも、そうね。もうすぐ……誕生日、だから」

「誕生日……嫌い、なんですか?」

「ええ。嫌なことが、たくさんあったわ」


 湿気った空気も、ミサリアさんの声色も、なんだか暗くひんやりとしていた。
 俺より頭一つ背が高くて、理知的なその眼差しに、一瞬だけ強い光が差した。けれどすぐに歩き始めた彼女は、雨に濡れることも厭わず、大きく足を踏み出した。

「もう行くわね。さようなら」

「あ、待って!」


 傘を、と、追いかけた足はすぐに止まってしまった。
 いつの間に振り返っていたんだろう。光を反射する瞳は、鋭い氷塊のように凍てついて……



「あなた、例のお友達のこと、どのくらい信用しているの?」

「例の……って、ジュードのことですか? や、どのくらいって言われても……」

「あなたはせいぜい、裏切られないといいわね」


 まるでそんなこと、一欠片も、思っていないような。
 俺はそれ以上、傘を押し付けるどころか、追いかけることすらできず、ぼんやりと細い体を見送っていた。その日以降、ミサイアさんを学校で見ることはなかった。



「エリアス、お疲れさま」

「うわっ!」


 意表を突いてきた声に、ぎくりと肩が情けなく跳ねた。ドキドキと落ち着かないまま振り返ると、おそらくは同じような顔をした友人がいた。


「あ、ああ、ジュードか。お疲れ」

「……何かあったの?」

「えっと……」

 ジュードの心配そうな顔に、思わず目線を逸らしてしまった。
 やましいことも、後ろめたいこともなかったけれど、今しがたの不穏な空気の後では、なんとなく居心地が悪い。

 なんでもないと適当に誤魔化し、二人並んで帰路についた。安物の傘を、雨玉がパツパツと叩いては落ちていく。
 しばらく経っても気にしているジュードに、少しだけ考えて、重たい気分をぽつりとこぼした。


「あのさ……ジュードにとって、誕生日ってどんなもの?」

「え、誕生日?」


 まるで予想外といった顔に、一度だけ頷いてみせる。
 するとジュードはひとまず流されてくれたようで、うーんと眉を寄せながら、ぽつぽつと話し始めてくれた。


「……なんていうか、賑やか、かな」

「あ、噂の幼馴染さんのこと?」

「うん、だいたいそう」


 琥珀色の瞳が柔らかく、どこか困ったふうに笑みを浮かべる。
 ジュードは片手にカバンを持ちながら、もう片方の手にある傘を、器用にくるりと回転させた。飛んだ滴が俺に当たることはなかった。


「幼馴染の家、家族で民宿をやってるんだけど、彼女のお父さんがすごく料理上手なんだ。
 僕、そこで毎年祝ってもらってたんだけど、その子……あ、エリアスは名前、知ってるっけ。レイアってば、張り切りすぎて毎回料理をひっくり返しちゃうんだよね」

「はは、勢い余って空回りしちゃうんだな。いいじゃん、そこまで張り切って祝ってくれる人って、なかなかいないもんだろ?」


 幼なじみのいない俺にとっては、なんだかとても眩しいものに感じるのだが。ジュードは肩をすくめて、世話好きなんだよ。と苦笑した。


「あれもこれもってしているうちに、毎回てんてこまいになっちゃって、いつも僕が……って、これは関係ないね、あはは……」


 思い出したのか、気恥ずかしそうに他所を向くジュードに、俺はにやりと笑った。なんかエリアス、意地悪い顔してるよ、なんて引き気味に言われてしまった。
 正直なところ、双方が羨ましいという気持ちもあったのだ。幼なじみのいるジュードが羨ましいし、ジュードの昔のエピソードを知っているレイア嬢も気になる。なんだか思っていたよりもずっと、自分はジュードを友人として大切に思っていたらしい。


「その時、レイアのお父さんがチキンの丸焼きを作ってくれたんだけど、それが町の名物にまでなっちゃって」

「へえ! じゃあ、いつかル・ロンドに行くことがあったら、絶対チェックしなきゃなぁ。人にも教えとこー」

「ふふ……僕こそ、君の住んでいたカラハ・シャールに行ってみたいよ。きっと、すごく賑やかなんだろうね」


 それからジュードの家に着くまで、俺がカラハ・シャールの様子を話す番となった。
 忙しく動き回る市場の賑わい、風車の回る音、青空と広い海……それからアイスキャンディーの爽やかな甘さ。俺が移り住んだ中でも、カラハ・シャールは本当に良い街だったから、ジュードにもぜひ訪れてもらいたい。
 俺が良いなって思うものを自慢したいし、ジュードにも知ってもらいたいと思うのだ。

 いよいよ扉を開けようというときに、ふと、ジュードは鍵を持ったまま固まった。


「ジュード?」

「その……ね、エリアス。もし君が、ル・ロンドに行くことがあったら……」


 背中を向け続けるジュードに、場の雰囲気がじわじわと緊張感を帯びていく。な……なんだろう。もしかしてやっぱり止まるの無理とか?
 自分までドキドキと顔が青くなり始めたとき、ジュードは深呼吸を置いてから、ぐるりとこちらに向きなおった。


「その時は、ぜひ僕に案内させてくれないかな。……あ、といっても、イル・ファンよりはずっと小さいし、少し寂れてきた街なんだけど……」

「えっ」

「あ……ご、ごめんいきなり、やっぱり嫌だった……?」

「いやいや! って嫌じゃない、そうじゃなくて! ……えっと。そりゃもちろん嬉しいけど、いいのか?」

「うん、もちろん。それに、君と一緒なら、僕も今よりはあそこを……」


 一気に気の抜けた俺に、その後の言葉は届いていなかった。安堵感とだだ滑りした気持ちが、まだ少し早鐘を打っている気がする。
 何かと尋ねた俺に、少し瞬いたジュードも、「ううん、なんでもない」と小さく笑った。


「なんか、ありがとな。んじゃ、そんときは真っ先にジュードへ声かけるよ」

「うん。ありがとう、エリアス」

「お礼を言うのはこっちだろー」


 ジュードはそれでも「ありがとう」と言って、改めて扉の鍵を開けた。薄暗い室内にかけていく足取りは、なんだか少し機嫌が良さそうに見えて、エリアスは首を傾げていた。




'140813

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