「……やっぱ、戻るか」
いまいち鍛錬に身が入らず、周囲の視線が気に食わないということもあり、備品の木刀を片付けて修練場をそそくさと後にする。俺に心配かけまいと、とにかく強がってみせたアークに負担をかけないよう、彼の思いをくみ取って稽古に出向いたのはいいが、結局普段の調子すら出せずじまいに終わってしまった。
一つに結っていた紐を解き、一度払って背に流す。この長い紐は、アリエッタが不慣れながらも俺達三人に作ってくれた、大切な物だ。
……イオンは、どうしたんだろう。
もう、イオン達が来なくなって、一年は経つ。俺達を嫌いになってしまったんだろうか。
「……大丈夫、だよな」
きっと、また会いに来てくれる。信じている。
自分から探しにいけないのはもどかしいけど、俺が勝手なことしたら、ただでさえ最近は病弱なアークの身が危険になるかもしれない、し。
「アッシュ」
「――――!?」
呼吸が急に途切れて、再開できないまま振り返る。
忘れることなんてできない、この声、姿。顎に髭を蓄えた、俺よりずっと背丈の高い、男。この人は、なんだか、怖くて――。
「ヴァン、総長……」
「……今日は一人か」
「は、はい……」
「お前の片割れが、今部屋にいなくともか」
「え?」
続いて投げかけられたのは本当に予想外の言葉で、彼に対する恐怖が退き、ぽかん、と呆けて口を開ける。
アークがどこかに行っている、というのは承知の事実だった。実際、彼自身の意思を聞き、出て行く様子を見送ったのは、俺だ。俺しかいない。
きっと、ディストのところにでも行くんだろうなって、思ってて。まさか、俺と同じように、あいつだって苦手としているこの人なんて考えもしなかった。
それなのに……どうして、この人が知ってるんだ?
「今アークは、ディストの研究室に居る」
「……あ、あの……」
「……どうした、行かないのか」
「あ……」
じっと見下ろされ、足がすくみ、一歩下がる。ぐっと目を瞑って、そのまま駆け出した。
時折すれ違う教団員のお叱りの声を聞き流しながら、走る。疾る。呼吸が不規則で、少しも酸素を取り入れられない。体が、軋む――。
――アーク。
「――――あっ……」
俺を正気に戻したのは、耳に響く、酷く鈍い衝撃で。がくん、と、力を失った膝が折れ、全速力の勢いをそのままに、俺は廊下のど真ん中で派手に転倒した。
前方に飛び込むような体勢で一回転し、激しく背中を打ちつけた。束ねていなかった朱の髪が宙に散って、その光景に、恐ろしく胃の底が冷える。
「か、はっ……!?」
胸が締め付けられるような息苦しさに、胸元をつかもうとして腕が上がらず、喉からか細い息が漏れる。
酷い吐き気、脳を揺さぶる激しい眩暈。――ぐにゃりと、世界が歪む。
平衡感覚が働かない。自分は床に倒れている、はずだった。譜石の効力が消えかかっているのか、薄暗い廊下。その割には、いやに視界が明るくて、白っぽく。
「う、あ…あああああッ……!?」
何かが。俺に“入ってくる”。そんな、おぞましい感覚に、肌が粟立った。
抵抗しようにも、拒絶しようにも、それがなんなのか、どこから侵入してきているのかも判らなくて。
――アークが、遠ざかっていく。
別の「何か」が、俺に入ってくる。
……どうして、……嫌だ、アーク!
俺の中で、アークの存在が、……消え――!
「い、いや、だ……待、て……待て、って……!」
行くな、行くな、行くなっ行くなっ……アーク……!
「……アッシュ」 アーク?
「ごめん」「うっ……――あああああああああああああああッ!!」
あいつは俺で、俺はあいつで。その、はずで。
あいつは、「アーク」。
……俺は、「アッシュ」で。
恐れていたはずの人に「どうした」と聞かれて、今までからは思いもよらないほど、すんなりと答えている自分に、少しだけ驚いた。それだけ愕然とし、絶望していたんだろう、な、って。
「あいつ……俺から、離れていった。俺を、切り離した」
「ほう」
「……俺達、別々になっちまった、のか……?」
総長はそれきり押し黙り、そしておもむろに俺の腕を掴んで、何か小型の譜業を押し当てた。怪訝に目を細めていると、しばらくして短い電子音が鳴る。俺達以外廊下には誰もいなかったから、気味が悪いくらいその音は響いた。
わずかにつりあがった総長の口元を、俺は見ていなくて。
「やはり、な」
「……?」
「アークは、お前を裏切って、一人、自由の身になったのだ」
そん、な。
莫迦な、って、笑って言えたはずだった。少し前の自分なら。あいつを信じて、信じて。
頬に何か、生ぬるいものが伝った。懐かしい感触。昔はしょっちゅうコレを流して、あいつを、困らせてて。
「アッシュ」
「あ……あぁ……」
「お前が必要だ。私と共に来い――アッシュ」
握った手は、ごつごつしてて、大きくて、……人の血が、通っていた。
H20.3.9
H21.5.11 加筆修正・再掲載
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