上下感覚すら掴めない白濁の世界に、おれは身を委ねるしかなかった。
自分が今、目を瞬かせているのか、呼吸を継続しているのかすら定かじゃない。そんな中でただ、この『どこか』にいるって事実だけが浮き彫りにされていて。
いつの間にか、網膜を焼く橙の光がおれを取り巻いていて、『何か』がおれの意識に介入し、音波のように揺すってきた。
『聞こえるか?』
――年若い、男性のようだった。どこか懐かしいようで、全く聞き覚えのない声質。
温かみを垣間見せる中で、無機質さが浮き彫りにされるているような。
瞼が下りているのか判らないままその人物を探すものの、影一つ見当たらない。いや、その前に「見えている」のかさえ。
(だ、れ)
『オレはお前さ』
声の出し方が判らない、なんて奇妙な感覚をひとまず差し置いていると、おれが心中で考えたことにどこからか返答が飛び込んできた。怪訝に思って聞き返す。
(おれ?)
『あぁ、そうだ。オレは、お前』
(……あっしゅ?)
『一概に違うと断言は出来ない。ある意味正しく、間違いでもある』
……どういうことだろう。とにかく、アッシュではない、のか。
(よくわからない)
『今はそれで構わないさ』
(…………)
『本題に入るぞ』
声の主はおれを置いてけぼりにして、話を進め始めた。何がなんだかのおれはどうしようもなくて、ただ流れるままに耳を傾ける。
……少し、雰囲気が変わった。声音が幾分か、緊張を帯びている、ような。
『お前は、お前の片割れを助けたいか?』
(え……?)
『いや、違うな。巻き込みたい、か?』
意味が分からない、と頭を悩ませる。彼の口振りから推測するに、おれが片割れ――アッシュに、何か危害を加えてしまったのだろうか。
(おれが、何かした?)
『あんなのは、お前の意志じゃないだろう。お前という個体に起きた現象が、お前の片割れにも影響しているんだ』
(じゃあ、どうなるの)
『まだその時ではない。運が悪ければ二人とも乖離し、ここに還る』
(――死ぬ、の)
『……あぁ』
――避けられない死が、目の前にある。
名も姿も知らぬ相手から、おれは今、あまりにもはっきりとした宣告を受けたのだ。
アッシュも、消える?
彼が笑えなくなるって?
おれのせいで。
『生きたいか』
「…………生き、る」
ダメだ。
そんなの、いやだ。
今まで束縛されながらも与えられていたそれは、なんとも幻想的な響きを持っていた。この彼は、どんな意味合いを込めて、おれに訊いたんだろう。
生きて、そこに、おれ達が笑いあえるような、そんな世界があるだろうか。
空は、あの空は、そこに広がっている?
「何か、方法は……」
『ある。一つだけ、な』
「じゃあ」
『ただし、お前達を切り離すことになるぞ』
そんなの、構うものか。アッシュが助かるのならなんだっていい。
約束は、守らないといけない。
守りたいから。
『……そうか』
そして、そこに《誰かがいた》。
橙の光に包まれた青年を認識し、そこでようやく自分の躯の自覚に至る。
波打つ豊かな髪が一際乱された瞬間、視界と聴覚に激しいノイズが走った。
――ぶつり、と。
長時間だか一瞬だか分からないまま画面が切り替わる。
暗く、鼻を刺激するカビ臭ささ。肌が直に人肌と触れ合う生々しさに、驚くほど重たい瞼をなんとか開ける。
(……アッシュ……?)
まだ髪が短くて、肉体も幼いけど、顔立ち、毛髪の色、確かに彼だった。何より絶対的な感覚が、そう知らせてくれる。
そして何故か、おれは眠る彼に折り重なって倒れていたのだ。
(総長、と……ディスト)
……あぁ、そうか。これは、おれ達が「生まれた時」の、記憶、なのか。
認識はできても体を動かすことはかなわず、ただぼんやりと傍観して――。
(……あれ?)
他に、子供がいた。このフォミクリーと思わしき台の上に。
鮮やかな紅色の髪は短く、体格的には今のおれ達くらいで――。
……まさか。
(被験者?)
直後、何かで殴られたような激痛に体が折れた。
突然成長した体に安堵する間もなく、尋常じゃない圧迫感に頭を引っ掻き回される。ぐらぐら、揺さぶられるように。
気持ち悪い――。
「う、あぁぁあ、ああァ、あぁぁぁぁ……」
――彼の手を、掴まえられ、な、
「あああ……ッ!!」
――もう、並んで笑いあうことは、できないのかな、って。
――いこう。
いかなくちゃ。
約束を、守りに。
H20.3.31 過去篇終了
H21.5.11 加筆修正・再掲載
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