喉に潤いを下さい

 イオンがあの人から聞いたという話によると、おれ達が生を受けてから、あと一ヶ月ほどで二年目になるらしい。

「いお、……? ……ん」
「アーク?」
「ごめん」

 イオンを呼ぼうとしたら声がかすれて、一度唾を呑み込んでから、改めて声を出した。
 イオンが運んできてくれるのは、世界情勢や、教団内の動きについて。今上がっていたのは、随分前にリグレットという女の人があの人の副官になったという話だった。

「どんな人?」
「話したことなんてないから、性格はわからない。金髪に青の目で、まぁ整った顔立ち、とでも言えばいいのかな」

 譜銃の腕は確かだよ、と呟くように言ったイオンは、彼にとって彼女はあまり関心がない相手のようだ。アッシュはいつも通り床に寝転がって、頬杖をつきながら、画用紙にクレパスを滑らせている。
 ……どうやら、今回の画題は『海』らしい。
 相当使い込まれた割には汚れていない画材は、彼が毎日大事そうに抱えているものだ(この間なんか抱いたまま寝ていた)
 現在棚の裏側には、イオンが彼に送った様々な種類の本であったり、使用済みのスケッチブックであったり……そんなものが密かに置かれ、埋め尽くしている。

 あの日以来、アッシュはおれが外に出してくれるという約束を信じきって、ますます絵描きに精を出すようになった。日に何度も画用紙をめくり、色彩鮮やかな画材を手にとって、上手下手も何もなく、ただ思うままに描く。
 この短期間で何度もイオンはスケッチブックをせがまれており、きっと今では苦笑いしながらも二つ返事を返すのだろう。

 ――ぐぅぅぅ。

「は」

 イオンがきょとんと目を瞬かせた。
 おれも思わず同じようなしぐさをし、ふと床に顔を伏せるアッシュを見る。かわいらしい地鳴りの、おそらくは発信源を。

「……腹減った」

 ぶぅ、と顔を膨らませ、不機嫌そうに唸るアッシュ。慌てて時計を見上げれば、とっくに正午は過ぎていた。

「もうお昼か」
「イオン、戻らなくていいの? じゃないと、導師守護役が……」
「別にいいよ。もう慣れてるだろうし」


 ……一ヶ月も経たないうちに、周囲の導師様への印象は、随分不良になっていっているようだ。それにほんの少しだけ笑いながら、クローゼットの帽子を手に取り、扉へとかけていく。

 なんだか最近よく喉が渇く。確か、ちょうどイオンがお忍びで遊びにきだした頃からだ。
 先程のように、喋ろうとする度に声はかすれる。アッシュと同じ水分をとっているはずなんだけど……。

「アーク?」
「イオンはアッシュとここにいて。昼食、もらってくるから」
「毎食、キミが取りにいってるのかい?」
「量は少ないし、そっちのほうが早いんだ」

 アッシュも最初は『俺も行く』といって駄々をこねたけど、今では、ほら……すっかり大人しくなって、きちんと椅子に座り、両手を膝の上にのっけながら待っている。
 イオンは、いつの間に、と少し驚いたように彼を見て、それから苦笑した。

「イオンは、何か食べる?」
「もう済ませてきたよ」
「そう」

 いってらっしゃい。

 扉が閉じきる前にイオンがそう手を振っていたけれど、でもおれには意味がわからなくて、どう返事をすればいいかも解らなかった。
 扉はぱたんと、虚しい音を立てて、閉まった。



 見慣れた廊下を照らすのは音素灯の仄かな光だけで、しかし普通に通るためだけには十分な明るさだ。ただの黒線の紋様にみえるそれは、その上に人間が立って決められた言葉を唱えると、たちまち淡い光を纏い、瞬時に場所を移動できる譜陣の効果を発揮する。
 いくつかの角を曲がり、それからまた小走りで廊下を進んでいると、もうそこはいつもの場所。

 ……行動を制限されているおれが、毎日取りに行けるわけがない。おれ達が行ける場所なんて微々たるものだ。……行けるはずもないんだよ。
 でも、今日はイオンがいるから、イオンもおれ達も、……見つからないように、しないと。

 そこに食堂なんかはない。何の変哲もない廊下で、あの人が現れるであろう譜陣より、少し下がった場所で立ち止まる。
 なんとか、間に合っていたみたいだ。

 全力疾走で乱れた息を落ち着けていると、譜陣が淡く光りだして、瞬く間に人影が現れた。思わず背筋を伸ばして帽子の位置を正すと、鎧の人間はおれを見るなり不満げな雰囲気をかもし出す。
 その両手で持たれているのは、器を乗せたトレイ。

 本来ならば、あまり外の任務に出ない博士が運んできてくれる手筈になっている、三食の食事。だがもちろん、博士だって不在の時がある。
 その時は決まってこの兵士が運んでくるのだけれど、初日にアッシュが本を投げつけて怪我をさせたことにより、あの作り笑顔は一変して、今みたいな嫌悪感を隠さないようになったんだ。

 きっと、口止めとして『それなりのモノ』を与えられているに違いないから、あんな人当たりの良さそうに笑っていたんだろう。結果的には警戒心の強いアッシュを煽って、溝を生んでしまった。
 ああ、えっと、なんて言うんだっけ……?

「……ありがとうございます。受け取りに来ました」

 そう、こうだ。ありがとうって言っただけで受け取ったとき、ご飯ひっくり返されたから。敬語、だっけ。

 両手を少し控えめに伸ばすと、兵士は言葉を返すことなく、おれの腕を無視してトレイを床に置く。トレイはガシャンと音を立てて、それを置いた人物は、さっさと譜陣で去っていってしまった。
 それを最後まで見送って、完全に兵士が消えたとき、膝をついてトレイを持ち上げる。

「……あ……」

 手前の飲み物が倒れて、カレーらしいものの上にこぼれてしまっていた。慌ててコップを持ち上げたけど、すでにカレーは悲惨な状態になっていて。
 幸い片方だけだったから、こっちをおれが食べればいい。できるだけ揺らさないようにゆっくり持っていく。足音を聞きつけたのか、誰かがガチャリと扉を開いた。

 …………ああ、喉が渇いて仕方ないよ。

 


「おかえりアーク。思ったより早かったね」
 アッシュの隣に居たイオンが立ち上がりながらそう笑って、だが食事の器を覗き込むなり目を瞬かせる。
「どうしたの、これ」
「途中で、躓いちゃって。すぐそこだったから戻るのも面倒だし、そのまま持ってきたんだ」
 アッシュの前に無事なほうの器を置き、自分はトレーに乗せたまま、椅子に座ってスプーンを手にする。
 アッシュはスプーンですくおうとして、ぴたりと動きを止めた。
 こちらが不思議に思って首をかしげていると、えっと、言いよどんで掌を合わせ。
「いただきますっ!」
「……?」
「食事の前に言うんだよ」
「…イタダキ、マス?」
「そう」
 イオンがアッシュの隣に居たのは、これを教えていたかららしい。おれが反復すると、発音に間違いがあったのか、イオンは苦笑しながらも笑っていた。
 それに何か意味があって、それを俺は聞いていたけど、あまり覚えていない。
 コップに残っている水を飲み干す。……ひんやりとした液体が、喉を下りていった。

 喉の渇きは、まだ癒えない。




H21.5.11 加筆修正・再掲載



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