迷い子を深い深い森の奥へ

 おれ達は、生まれてどのくらい経ったのだろう。
 博士が買ってきた積み木を、意気揚々とひたすら高く積み上げているアッシュを見ながら、ふと照らされた天井を見上げた。

 昼夜の判断ができない、外界から遮断され密閉されたこの一室が、おれ達の唯一の物理的な居場所だ。新たに置かれた本棚は横幅が広く、多様なジャンルの書物がずらりと並べられている。
 特に目立つ高価そうな赤い表紙に金の文字で音素学と書かれた博士からのお古。やけに分厚い古代イスパニア言語辞書。薄っぺらく何やら愛嬌のある動物が表紙の、〜たのしくまなぼうやさしいフォニックもじ〜、など。
 ディストが豊富に揃えてくれるおかげで、相変わらずアッシュは舌足らずだけど、発音としてはなかなか様になってきた。よく本棚の前に座りこんでいる様子を目にする。

 ……そういえば。
 自分も彼のことばかりに気をとられていたが、そろそろ教養とかいうものを、学んだほうがいいのだろうか。博士にいつも口煩く『マナーがなってませんよ!』って顔真っ赤にしながら怒られる、し。
 ……最近はそれさえもないけど。
 おれはともかく、アッシュには必要不可欠な知識であることに間違いない、のだろう。備わっていないといつか困るのかもしれない。

「…………」
「?」

 不安定な積み木をはさんで、さっきまでの笑みはどこに消えたのか、アッシュが不意に身を縮こまらせた。思いがけない事態に驚いて手を伸ばそうとしたものの、高々と積み上げられた積み木に阻まれる。
 仕方なく再度アッシュに声をかけてみたものの、彼は言葉を返すことなく、積み木を掴んだままじっと扉を睨みつけていた。

 ……誰か、来たのだろうか。
 それならばまず、アッシュから積み木を取り上げておかないと、扉が開いた瞬間にパニック状態を起こし、その人物に投げつけかねない。以前に運悪く博士が怪我をしてしまった事例がある。
 人体のなかでも脆弱な頭に当たったにしては出血はなく、ただ、もとより血色の悪い肌に痣が浮いてしまっていた。

「アッシュ、積み木直そう」
「やだ」

 扉の向こうにいるのが何者か知れない今、アッシュはそれに恐怖を示している。彼は抵抗する術を積み木以外に持たないのだから、それを本能的に理解しているため、なかなか積み木を手放そうとしてくれない。
 積み木を崩さないよう回り込んで彼の隣に跪き、何度か頭を撫でるうちに、アッシュは積み木を乱暴に落とし慌てておれに隠れるようしがみつく。

 そして、扉を叩くこともなく不躾に入室した人物を目にして、やはりアッシュは震え上がった。
 最近目立ってきた髭が印象深く、眉を吊り上げ、こちらの存在自体を不快に思う深い蒼の瞳を持つ男。

 何故ここまでアッシュがヴァンを嫌うのか、少し理解できない事もある。とはいえおれがヴァンを好きなわけでもない。
 ただ不愉快そうに鋭い眼光を向けられるだけで、暴力などの危害を加えられたことはない。
 ……でも、そういえば。どうしてヴァンはアッシュを作ろうと思ったのか、おれは知らされていないのだ。
 代替品まで必要とされるような、そこまで大切にされるおれ達の被験者って、どんなひとだろう。

「……聞いているのか」
「ひ……ッ!」
「…………」
「導師イオンが面会を希望している。一体目が暴れぬよう、見張っておけ」
「……面会? いおん? ……どうして?」
「お前の知るところではない」

 そう吐き捨て、静かに扉は閉められた。導師イオンなる人は、たぶんヴァンの上の位に就いている人なのだろう。
 ……もっと知識を得ないと、蓄えないといけない。アッシュだけじゃなくて、おれも。この世界に適応できるように。

 見送ることなく首だけ回して振り返り、後ろ手でアッシュの手を探る。わずかに触れると縋るようにそれを捕まえ、ばっと俯いていた顔を上げた。

「…………」
「これから導師って人が来るんだって。……静かにしてれば何もされないから」

 根拠なんてない。上辺だけの根も無い言葉なんかで、突然の出来事に順応できていないアッシュを、落ち着かせることができるだろうか。
 ……あぁ、その前に積み木を片付けないと。

 ただ今は、事前の知らせもなくやってきた面会者に、ほんの少しばかりの憤りを感じたのと、その奥にある大きな興味を必死に閉じ込めていた。



 それでも、深い深緑と鮮やかな桃色のそれに、思わず目を奪われてしまったのも確かで





H21.5.11 加筆修正・再掲



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