奇跡

「おじさん?」
 公園でサッカーの練習をしていたらボールが遠くへ飛んでしまった。慌てて飛んで行った方向に走るとベンチの辺りで男の人がそれを持っているのが見えた。
 幼い頃に買ってもらった青いボール。いつもはちゃんとしたサッカーボールを使っているが、うっかり学校に忘れてきてしまったために仕方なくそれを持ってきたのだ。
 ボールを返してもらうために声をかけたけれど、男の人はなかなかこちらを見なくてもう一度だけ声をかけた。それでもり返らない。どうしようかと自分も固まっているとようやく男の人が動いた。
「おじさん、大丈夫?」
 思わず声をかけた。振り向いた男の人は自分を見て急に泣き出してしまった。わんわん泣いているわけじゃない。ただ黙ったまま、それでも自分をじっと見て泣いていた。
 かけた言葉に対し、男の人はなぜか笑って頷く。けれどその涙が止まることはなかった。その目はまだ自分を見つめたままだ。
 予想しない出来事にこれが学校の先生や親が言う変質者なのだろうかと考える。確かに変だ。けれど気持ち悪さや怖さは感じなかった。ただ、これでは自分はどうしたらいいのかわからない。
「お母さん呼んでこようか?」
 悩んだ末にそう言うと、初めてその男の人が口を開いた。
「いや、大丈夫だよい。優しいな」
 そう言って、涙を拭うと持っていたボールを返してくれた。受け取ったボールには涙が零れている。
「お前さん、名前は?」
「サッチだよ。ボールにも書いてあっただろ?」
 教えてから不味かっただろうかと思い直す。けれど言ったようにボールにも書いてあることだった。それになんとなくこの人は悪い人ではないと感じていた。まじまじと見ているとその目にまた涙が浮かび始めた。
「それよりおじさん、本当に大丈夫なのか?」
 なんで泣いているのだろう。とても気になった。
「ああ、平気だよい」
 そう男の人は答えるけれど、どう見ても信用できない。疑うように見ていると男の人は笑顔を見せて言った。
「本当に大丈夫、いきなり目にゴミが入ってすっごく痛かったんだよい。驚かせてすまねぇな。でも泣いてるうちに取れたよい。ありがとよい」
「そうか? まぁ、大丈夫ならいいんだけどな!」
 違和感はあったけれど、泣き止んだその顔にとりあえず安心する。
「いつもこの公園で遊んでいるのかい?」
「うん! 俺、サッカー上手いんだぜ!」
「そうかい。そりゃあ、すごいな」
 やっぱり怖い人とは違うようだ。話しかける声はとっても穏やかで優しい。褒められるのも悪くなかった。
「なあ、また会ったら今度は俺と遊んでくれるかい?」
「え、俺がおじさんと?」
 いきなりの誘いに驚く。思わず聞き返してしまった。戸惑う自分に対して男の人は言葉を続ける。
「ああ、俺とお前さんが一緒に。嫌かい?」
「うーん、別にいいけどおじさんサッカーとか出来るのかよ?」
 嫌かと聞かれたら嫌とは答えにくい。それによくわからないおかしな人だけれどこの人のことを自分は嫌いじゃないと感じていた。
「少しくらいならねい。ルールもちゃんと知ってるよい」
「それだけじゃわかんねぇよ! でも、まぁ下手だったら俺が教えてやるよ」
「ああ、それはいいねい」
 自分の提案に男の人は笑って頷いた。その顔はなんだか楽しそうでつられて自分も笑ってしまう。
「あ、俺もう行かなきゃ」
 母親の呼ぶ声が聞こえる。もう帰る時間になってしまったのだろうか。走ろうとしてから男の人のことを思い出す。
「じゃあ、またな。おじさん!」
「ああ、またねい。サッチ」
 別れのあいさつを急いで済ませて、ボールを抱えたまま母親の元へ向かう。
「どこに行ってたの?」
「ボールが飛んで行っちゃって。あっちにいた」
 心配した母親に聞かれて来た方向を指さす。
「もう気をつけてよね。人にはぶつけなかった?」
「うん、大丈夫。そうだ、新しい友達が出来たよ」
「友達?」
 母親にさっきあった出来事を話す。
「飛んでったボールを拾ってくれたんだ。今度遊ぼうって約束した」
「そうなの。どんな子?」
「男。泣き虫だけどサッカー知ってるみたいだから一緒にやることになった」
「それはよかったね」
 相手がおじさんであることは黙っていた。もしも何か言われたら面倒だと思ったからだ。正確に言えばまだ友達でもない。けれど今度遊ぶ約束をしたのだから次会うときには必ず友達になるだろう。
 サッカーは出来ると言っていたけれど、どのくらい出来るんだろうか。まずはドリブルで勝負してみようか。どうせなら他の友達も誘ってみるのもいいかもしれない。
 次に会うことを考えて、そしてあることに気がつく。
 そういえば名前を聞くのを忘れていた。
 自分の名前は言ったけれど相手の名前は聞いていなかった。おじさんのままじゃ流石に悪いだろう。今度会った時に教えてもらおう。一体どんな名前なんだろうか。楽しみだ。
 拾ってもらったボールを握りしめ、気持ちはわくわくしていた。



「ん〜? マルコ、この問題おかしい! 答えが合わねぇよ!」
「よく問題を見ろい。ほら、おかしいのはお前のここの計算だ」
「あ、本当だ!」
「まったくそそっかしいやつだよい」
 あの日、公園で会ったおじさんは二度目に会った時、『マルコ』と名乗った。出来るといったサッカーは少しどころかすごく上手くて試合での戦い方とかそういうものまで教えてくれた。
「出来た!」
「やれば出来るんじゃねぇか」
「ヘヘッ」
 半月経ったいまでは勉強も教えてもらっている。あれから母親にマルコのことを紹介したら初めはすごく驚いて、あれこれと俺やマルコに質問をしてきた。でもマルコは良いやつだ。それがわかると両親も安心したようで、二人が忙しい時にマルコが俺を預かるようにもなった。
「おい、ひゃにふんだ!」
「ちょっと意地悪してみたくなったんだよい」
「なんでだよ! 正解したのに!」
 褒めたかと思ったら頬をつねられる。もちろん痛くはないけれど遊ばれるのは嫌だ。むにむにと頬をつまむマルコはすごく楽しそうで俺もそのパイナップルみたいな頭を引っこ抜いてやろうかと思いはじめる。
「意地悪してないで今度はこっち教えてくれよ」
 マルコの髪に伸びそうになる手をとどめて、抗議する。これでも一応は勉強を教わっている身だから乱暴は出来ない。その代りに今度仕返しをしてやると心に決める。
「これも出来ないのかい?」
「算数は苦手なんだよ!」
「『算数は』?」
「あ、今バカにしただろ!」
「どうだろうねい?」
 マルコは案外意地悪だ。最初会った時はいきなり泣き出して気が弱そうだったのに仲良くなった途端、俺でも大人げないなと思う時があるくらいこちらに対して全力でくる。まあ、その方が楽しいからいいけど。今さら大人しくされても気持ち悪い。でも仕返しはやってやる。
「そうだ、今度お母さんがうちで焼肉するからマルコも来いって!」
「へえ、俺も参加していいのかい?」
「お父さんも一緒にお酒飲みたいって!」
「そうかい。そりゃ、楽しみだい」
 これだ。今度マルコがうちに来た時にお酒になにか入れてやろう。しょっぱい塩でも入れてやる。マルコへの仕返しを考えながらも問題を解き続ける。悔しいけれどやっぱりマルコの教え方は上手い。きっと学校の先生にだってなれる。
「今度はミスなく出来たねい」
「俺だって本気を出せばこんなの簡単だ!」
「さっき苦手だって言ったのはどの口だよい」
 夏休みが終わってからの学校は友達とたくさん会えて嬉しい反面、勉強がとても面倒くさく感じる。マルコがいなければ宿題にも四苦八苦していただろう。なにせうちの両親は 子供の時のことなんて忘れたって相手にしてくれない。大人のくせに子供の宿題出来ないなんておかしいだろ。
 マルコが友達で本当によかった。
「その問題まで終わったらおやつにしようかい」
「本当か!」
「ああ、だから頑張れよい」
「うん!」
 おやつと聞いて俄然やる気が出た。難しい問題に一生懸命立ち向かう。問題を解くヒントをくれたマルコはおやつの準備をするために台所へ行った。なんとしても自分の力で解いてやる。マルコが戻ってくるよりも先にだ。
「マルコ、出来た!」
 マルコがお盆を持って戻ってきた。そわそわするものの、まずは出来上がったノートを見せる。
「どれ、見せてみろい」
「ほら!」
 急いだから字はちょっと汚いかもしれないが問題を解くのは丁寧に頑張ったつもりだ。見返しだってちゃんとした。どきどきしながらマルコの言葉を待つ。
「正解だよい。おやつにしようかい」
「やった! 今日はなんだ?」
「エクレアだよい。デパ地下で美味そうなやつを見つけたんだ」
「早くくれよ!」
「わかってるよい」
 自力で正解できた嬉しさとおやつがもらえる喜びで気持ちはとてつもなくハッピーだ。
「いっただきま〜す!」
「いただきますよい」
 置かれたエクレアを口いっぱいに頬張る。丸ごと一個を口に入れたから口の中はもうパンパンだ。とろりとしたクリームがたまらなく甘い。エクレアが乗った皿には可愛いクジラの絵が描いてあった。
「なあ、このカップ可愛いな」
 エクレアを三つ食べたところでようやくミルクの入ったカップを手に取る。カップには青い鳥の絵が描いてあった。
「俺、鳥好きだからさ」
 描かれた鳥を撫でる。親の都合で飼えなかったが昔インコが欲しいとだだをこねたことがあった。ちょこちょこ動く鳥の姿がとても可愛くてどうしても欲しくなったのだ。
「ありがとよい。俺もそれが気に入りなんだよい」
 そう言ってマルコが笑う。とても嬉しそうだった。



 四角く白い紙に描かれた丸。その丸の中には出席の文字がある。そのことを確認して微笑んだ。
 数日前に各所に送った招待状。返事の一番乗りはやはりマルコだった。出席のそばに綴られた祝いの言葉は驚くほどに達筆だ。普段はもう少し雑な字なのに気合いを入れて書いてくれたようだ。
 2か月後、俺は大切な晴れの日を迎える。大切な人と愛を誓い、人生を共に歩むと宣言する。そう、結婚するのだ。
 式の準備もずいぶんと進み、ウエディングドレスも選んだ。純白のドレスに身をつつむ彼女はさぞ綺麗に違いない。少し遅くなってしまったが明日には彼女と結婚指輪を選びに行く予定だ。
 どんな指輪が似合うだろうか。左手を広げ、薬指を見つめる。
 自分もとうとう結婚するのかという不思議な感慨を覚える。子供の頃は早く大人になりたいと思っていたが、こうなると月日の早さをしみじみと感じてしまう。
 子供の頃の手はこんなに大きくはなかった。それを言うなら体もだ。幼い時はチビとさえ言われた体はいまでは父親も超えた。俺をガキだと言い続けたマルコまでもだ。
 そういえば、マルコも白髪が増えてたな。
 招待状を送るよりも前に会っていたマルコの姿を思い出す。顔や手にも皺が増えていた。両親もだけれど、自分が大きくなったということは他の人たちもそれだけ年を取ったということだ。
 マルコは結婚に興味がないと言っていた。女性や子供が嫌いというわけでもないのにどうしてだろう。一人に慣れすぎたのだろうか。でもその割には俺の面倒をよく見てくれていた。マルコは俺のことを友達というよりは自分の子供のように思っていたのだろうか。 余計なお世話に違いないと思いつつもあれこれと考えてしまう。
 なにせあんなに年の離れた友達はいない。マルコが自分のことをどう見て、どう思っていようが俺はマルコのことを初めから今までずっと友達だと思っている。父親とは違う。でもある意味、父親よりもずっと貴重だ。
 あの日、初めて出会った時、戸惑いながらもとてもわくわくした。自分よりずっと年の離れた相手に遊びたいと乞われたのだ。日常に突然訪れた変化に自分は心を弾ませた。
 もしあの時、ボールがマルコの方へと飛んで行ってなかったら出会ってはいなかったかもしれない。たとえお互いの姿を見つけはしても、ああして話をすることはなかっただろう。
 そう思うとマルコとのあの出会いは奇跡のように思えた。
 もしも俺に子供が出来たらマルコは俺の時と同じように遊んでくれるだろうか。きっとそうに違いない。でも自分の子供にマルコを取られてしまうのはちょっと寂しいかな?
 まだ先の未来を想像してくすりと笑う。まだ見ぬ未来はきっと幸せに違いない。
 そう思うと楽しみだった。

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