憧憬

 いつだったろうか。前世という言葉を知ったのは。人から聞いたものだったろうか、本で読んだものだったろうか。思い出せない。
 俺は海が好きだった。広い空の下に広がる真っ青な海。波打ち際では波がざわめく。歌うような海の音、とびちる飛沫はキラキラと輝いてまぶしい。潮の匂いも好ましかった。
 海を見ていると心が落ち着いた。でも同時に心が湧き上がる思いもした。なぜこんな気持ちになるのだろう。
 前世は魚だったのかもしれない。もしくは漁師とか。
 そう考えるくらい海に強い感情を抱いていた。海は昔の俺を覚えているだろうか。
 海が死ぬことはない。ならば前世の自分のことも覚えているんじゃないだろうかという面白い考えが浮かんだ。
 今日の海も自由に波を躍らせている。サンダルを脱ぎ捨て、ズボンをまくり上げて、砂浜から海の中へ突入する。熱い日差しの中、水に浸かるのはとても気持ちがいい。潮の匂いがいっそう鼻につく。
 この感覚がたまらない。
 遠い水平線を見つめると小さな船が一艘浮いていた。釣りでもしているのだろうか。
 今を生きる俺は漁師にはならなかった。海に関する仕事にも就いていない。その代りに海の近くに住み、海の近くで働いている。海の見えるホテルが俺の職場だ。職務中は海の匂いを嗅ぐことは出来ないがホテルの広い窓からいつでも海は見えた。高い位置から見る海はそれはそれで面白い。住んでいる場所も職場に近いので自転車で通っている。海沿いの堤防を走らせる心地よさはきっとわかって貰えるだろう。
 打ち寄せては引いていく波がまるで自分を海の中まで誘っているかのようで、もう少しだけ深みに近づく。まくり上げたズボンもこれでは意味がない。太ももまで浸かった海の中で魚の影が見えた。
 もし……もしも俺の前世が魚ではなくて人だったとしたら、この世界のどこかに同じ前世を生きた人たちもいるんだろうか。魚であったとしても同じように人間に生まれ変わっている場合もあるかもしれない。一体、生まれ変わりはどのようにして決まるのだろう。
 会ってみたい。
 誰でもいい。同じ前世を生きた相手と会って、話をしてみたい。
 実際のところ、覚えてもいない前世の相手を見つけるなんて不可能だし、会えたところでわかりもしないのだろう。けれど海を見て、心が落ち着くように何かを感じられる人がいるかもしれない。
 いまのところ、そういった人物には出会えていない。仲の良い人も、好きな相手もいるが、運命的だと思えるほどの相手はいなかった。でもそれも覚えていないだけだからかもしれない。
 出会っているのか、いないのか。
 考えるほどに深みにはまっていく。答えなどありはしないのに。でも想像するのは自由だ。
 海から目を離し、空を見つめる。この空の下のどこかに【誰か】はいる。自分と同じように。そう考えると楽しかった。

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