お鍋におたま

恋は落ちるもので愛は育むものだと言う。
そんな世間の言葉の様に俺は転がり落ちた。
坂の上から真下まで、あっという間に。
それでも飽き足らずに転がり続ける。
恋がこんなに心を駆り立てるもので、衝動に突き動かされてしまうものだなんて知らなかった。



出会いは二年前の春。
桜が芽吹き始めた頃にマルコと俺は出会った。
出会いの場所は自身の働く製菓店。
並べられたお菓子の主にケーキの前で一見無表情には見えながらも目をきらきらと輝かせて一時間は悩んでいた。
そうしてそのケーキの中から二つ。
イチゴのショートケーキとイチゴたっぷりのタルトを買っていった。
あの箱を受け取った時の嬉しそうな顔と言ったら……!
高校ではありきたりな青春を過ごし、卒業後はもう勉強はしたくないと就職すると決めていた。
男であるが昔からお菓子作りが趣味であった自分は近所の製菓店にもよく入り浸っていた。
店主とも仲が良く、気に入られていたから就職先もそこにすんなりと決まった。
今でも仕事は楽しい。
お菓子を作るのも、それを買っていく人たちを見るのも。
けれどこんな出会いがあると知っていたら大嫌いな勉強だってもっと頑張っていたのに。
一日中マルコを見つめられる機会があると知っていたのなら意地でも同じ大学への進学を決めていた。
出会えたことだけでも最高に嬉しいのだけれど、やはりもう少し早ければと悔やまずにはいられない。
蒼く瑞々しい紺碧の海のような瞳、ぷるんとした艶やかな唇はとっても柔らかい弾力を持っていそうで、髪はとろけるような金糸、体つきは細くともしっかりしていて、足の形はシルエットだけでも綺麗なことがわかる。
何よりあの成熟してそうであどけない顔つきが好きだ。
一度きりの出会いかと思えばその一週間後にマルコはまた来て同じようにケーキを悩み、また別の二つを買っていった。
その時はただ見ているだけのような真似はしなかった。
さりげなく聞いた“近くにお住まいですか?”という問いにマルコは近くに通う大学生であることを明かしてくれた。
そこからは簡単だ。
次の日店長に休みを取り付け、学生を装ってその構内に入り、必死に探した。
午前中は見つけられず、他の大学生に混じり、味はそこそこでも値段は安い学食を味わう中でその姿を見つけた。
そこからは食事を終える時間を合わせ、後をつけて学部を特定し、ついでに家まで突き止めてしまった。
声を掛けるにはきっかけがなさ過ぎて諦めた。
でもその日見つけてからずっとその姿を見ることが出来て幸せだった。
そしてその幸せは今も続いている。

「お邪魔しまーす」
誰にでもなく声を掛ける。
向ける相手がいるとすれば今はいないマルコへ向けてだろう。
いつか“おかえりなさい”って言われてみたいなぁ……。
午後の講義へと出掛け、留守になったマンションの一室。
鍵を開けて靴を脱ぎ、そっと床板を踏む。
ぎしりと鳴る音に誰もいないとわかっていながら心臓がどきりと跳ね上がる。
仄かに漂う花の香り。
マルコは玄関の靴棚の上と台所の流しのスポンジ入れの横とテレビ台の右角の隅に花瓶を置いて毎日花を飾っている。
それは公園や川べりで咲いていた花であることが多い。
そしてそんな花の香りと共に鼻孔に入るのはきっとマルコ自身の匂い。
その匂いを堪能するべく口と鼻で大きく呼吸する。
吸った息を吐き出すのがもったいないのでちょっとずつ吐き出す。
そしてまた吸い込む。
同じ空気を共有できるというのは本当によいことだ。
そろそろと中へと進めばきちんと整頓された部屋がはっきりと見える。
ゴミでもあれば儲けものだが生憎今日は火曜日で、それはこの地域では燃えるごみの日だった。
きちんとしたマルコはやはりゴミは全て捨ててしまったようで市販でよくある形の丸くて黒いゴミ箱の中には何も入っていない。
もちろん台所の方も切ったばかりだろう野菜のくず以外に何もない。
しょんぼりと肩を落とす。
いっそこの野菜くずを持ち帰ろうかと悩んだが止めた。
家庭菜園でもしていれば肥料になっただろうが生憎そういうことまではしていなかった。
けれど今後はそういうことも考えていた方がいいのかもしれない。
今育てるのにちょうどよい野菜は何だったかなと頭の隅で考える。
この間入った時はゴミ箱の底に埋もれていた壊れたシャーペンとお菓子の空き箱が拾えた。
壊れたシャーペンはお得意の手先の器用さでも直すことは出来なかったが毎日ペンケースの中に入れて持ち歩いている。
例え書けなくてもマルコの物だったシャーペンを握っているとなんだか頭が冴えるような気がする。
お菓子の案や店の雑用の仕事で悩むことがあればいつだって取り出して何度でも握る。
握るほどに自分の手垢がついてマルコの存在が薄くなってしまわないか心配にもなるがそれでもマルコが使っていたことには変わりがないからやはりたくさん握る。
あのシャーペンの様にマルコの手が自分の手と触れ合えればもっと幸せなのに。
シャーペンの硬い感触を思い出しつつ、拳を握る。
いつかはそんな硬いシャーペンではなく、柔らかそうなあの手をぎゅっと握りしめたい。
お菓子の空き箱の方は丁寧に屑を拭き取って物入れにしている。
四角くて蓋も付いているし、大きさも割とあるので中には写真が入れてある。
なんの写真なのかは自分だけの秘密だ。
絶対誰にも見せてやらない。
でもすっごくいいものだ。
思い出すだけで顔がにやけてくる。
帰ったらまた眺めよう。
「これがマルコの使ったおたま……」
どきどきとしながら見つけたお鍋の中に入ったままのおたまを握る。
無いはずの温もりが伝わるような気がして両手でぎゅっぎゅっと握り込む。
そうして右手で持ってさらなる胸のときめきを感じるべく、それを鍋の中からゆっくりと取り出す。
「あ、味見のためだから。だからそういうことが目的じゃなくて味見のためだからっ……」
自身に言い聞かせるようにぶつぶつと呟き、握ったおたまをゆっくりと口元へ。
マルコもそうやって味見したに違いないおたまを口へと近づけるとなんだか悪いことをしているみたいでバクバクと心臓が音を立てる。
「さ、触っちゃった……!」
口では言いつつもおたまの触れた唇を何度も唇で舐める。
あまり美味しいと言えない鍋の味はどうでもよかった。
マルコが作った手料理を食べてる!しかもマルコが使ったおたまで!
ぞくぞくとした喜びが腹の底から湧き上がる。
出来ればもっと食べたかったけれどそれではばれてしまうのでぐっとこらえる。
だけど汁の垂れたおたまはなんだかもったいなくてもう一舐め、二舐めしてしまった。
マルコとの間接キス……そう胸をときめかせるサッチだがその実マルコはおたまで味見などしていないだなんて事実は知る由も無かった。
暴走した頭が勝手にマルコはおたまを使って味見したと思ったのだろう。
マルコは味見するのに小皿を使っていた。
だが小皿はすでに流し台の中に置かれてしまっていたためサッチはその事実には気づかなかった。
そして律儀なサッチは後から口を触れたのを悪く思ってそのおたまを綺麗に拭いてしまった。
サッチが帰った後、マルコは本当におたまを使って味見をしたがサッチの唇の触れたおたまは綺麗に拭かれてしまったから事実上二人の間で間接キスの事実はない。
残念な男である。
それでも今マルコの部屋に身を置くサッチは至福を感じていた。
「そうだ、折角だから味を整えて置いてやろう」
必要な調味料を棚の中から取り出す。
どこがどこにどんな向きで置かれているのかも全てサッチの頭の中には入っている。
何一つ間違うことなく取り出し、鍋の中に入れて味を整える。
納得する味が出来るとまた問題の無いように棚の中に仕舞う。
その後、ぐるぐると部屋の中を回り、トイレと風呂場を覗き、ベッドの上にそっと身を横たえる。
マルコの生活を感じるこの時がサッチの興奮を掻き立てる。
青年らしい欲に駆られかけるが流石にここでするわけにはいかないと自分を制する。
部屋を出る時は自分の痕跡が残っていないか、入念なチェックを怠らない。
そうして問題ないと判断してからサッチは部屋を出る。
もうすぐマルコが帰ってくる時間だった。
「いってきます」
最後にかける一言はいつか来るかもしれないときの予行演習。
そう囁いたくすぐったさにはにかみながらサッチは鍵を回した。

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