辛くて、苦しくて、悲しくて

大丈夫だと思った。
彼なら、サッチなら、きっと大丈夫だと。

真っ暗なアパートの部屋の中、マルコはベッドに横たわっていた。
来ている服は外に出かけたときのまま。
買ってきたケーキも机の上に置きっぱなしだ。
お腹はとっくに空いているはずなのに食欲がわかない。
日課であるはずの妖精への食事の用意も出来なかった。
辛くて、苦しくて、悲しくて。
握りしめた枕は涙で濡れていた。
こんなに泣いたのはあの日以来。
そうブラウニーを失って、サッチに抱きしめてもらった日以来だった。
うつ伏せになった体を起こし、マルコは真っ赤に腫れた目で部屋の中を見渡した。
静かで寂しい部屋。
ここに引っ越してきた日を思い出す。
希望する大学に入るために住み慣れた家を出てきた時のことを。
不安だった。
大学には昔からの幼馴染で友達でもあるイゾウもいた。
早いうちにジョズやハルタという新しい友達もできた。
それでもマンションに帰るとマルコは一人になる。一人は嫌だった。
マルコの目が暗闇に沈む窓を見る。
うっすらと白いものが見え、見つめ続けているうちにそれが雪であることに気がついた。
冬は嫌いだ。
寒いから。どうしても心が冷たくなることを思い出してしまうから。
寒い寒い雪の日。己の母親が亡くなったことをマルコは思い出す。

マルコはまだ十歳だった。
雪の降る通学路を早く母親の待つ家の中で暖まりたいと早歩きで帰っていた。
もう少しで家に着く、そんなときにサイレンの音を聞いた。
自分を追い越していく音のうるさい、白い景色の中で真っ赤ランプが目立つ車。それは救急車だった。
何事だろうかと見送ればそれは自分の目の前で、自分の家の前で停まった。
驚いて足が止まったマルコはさらに驚くものを見る。
担架で運ばれていく母親の姿だ。
慌てて駆け、大声で叫んだ。
だが母親を乗せた救急車は走り去ってしまう。
恐ろしさに泣きじゃくりながら家の前まで来ると騒ぎで集まってきた近所の人がマルコに気がついて救急車が向かった病院まで送ってくれた。
たどり着いた病院ですぐに母親の姿を見ることは叶わなかった。
【手術中】と光る赤いランプを狂うほど見つめていた。
長く嫌な時間だった。
ようやく真っ赤な光が消えて、マルコは出てくるだろう母親に駆け寄ろうとした。
だがその体は付き添いで来てくれた大人の手に阻まれる。
緑色の衣服をきたお医者さんが先に現れた。
その顔は幼いマルコが見てもわかるほどに落胆の表情を浮かべていた。
『残念ですが……』
控えめに吐かれたその言葉の意味をマルコは呑み込めないでいた。
しかしマルコの肩を掴む手がその強さを増して嫌な気持ちが掻き立てられる。
離して欲しい。早くお母さんに会いたい。
結果として、ようやく会えた母親はもう二度と目を開くことはなかった。
言葉も交わせなかった。
毎日のように読み聞かせをしてくれた口は目と同じように二度と開かなかった。
触れた体は石のように冷たかった。
甘えるたびに抱きしめてくれた温かい腕はその温もりを失ってしまった。
泣いて、泣いて、泣き続けた。
けれど泣いたところでどうにもならなかった。
マルコに父親はいない。物心ついた頃からそうだった。
マルコが赤ん坊のころ、事故で亡くなったという父親の写真を母親は大事にしていたが、記憶のないマルコにとって正直なところ父親に対する感情は薄いものだった。
父親がいない分、愛情を注いでくれていた母親がすべてだったのだ。
しかしその母親ももういない。
ひとりぼっちになり、泣き続けるマルコの傍らで時間は進んでいく。
知らせを受けた母方の親戚が葬儀を行い、マルコの当面の面倒を見てくれた。
けれどその人たちの記憶がマルコにはない。
悲しみに埋もれて何も考えられなかったからだ。
何もかもが終わり、いよいよマルコの引き取り先が問題となった。
幸運なことに母方の親戚は良い人たちばかりで何人かが引き取り先として名乗りを上げてくれていた。
だがマルコはそのどれもが嫌だった。
親切なその人たちが嫌いなわけではなかった。わがままを言っている自覚もあった。
だが、母親との思い出がつまった家からどうしても離れたくなかった。
『どこにも行きたくない』
そう泣きじゃくる子供はどれだけ大人たちを困らせただろうか。
母親から読んでもらった大好きな絵本を抱きしめて、物語に登場するモノたちに願った。
ないものをねだったりしないから、だからせめてこの場所だけは奪わないで欲しい。
マルコが母親を感じられる居場所はもうここしかなかったからだ。
嫌がるマルコを無理矢理連れ出すことも出来ただろう。
だが飽くまで大人たちは優しかった。
それは元々体の弱い母親が女手一つでマルコのことを必死に育てていたことを知っていたからだ。
とうとう一人の男が名乗りを上げた。
それはマルコの血縁ではなかった。だが、親戚の古い知り合いでマルコの母親も赤子の頃から知っている人物だった。
エドワード・ニューゲート。その人はマルコの家に一緒に住もうと言ってくれた。
嬉しかった。抱きしめてくれた腕は母親よりもずっと大きくてゴツゴツしていたが温かく、お父さんがいればこんな感じだろうかとマルコは思った。
それを話すとグララララと大きく空気を震わせて、男は笑った。
『俺の年じゃ、せいぜい爺さんだろう』
そう言われたがマルコはそう思わなかった。
確かに見た目は年老いているかもしれないが、鍛えられた体は周りで見る男の人たちよりもずっと立派で、気迫と強さがその体からは滲み出ていた。
父親という存在に密かに憧れていたこともあって、だがお父さんと呼ぶのも少しだけためらわれて、マルコはその人をいつしか『オヤジ』と呼ぶようになったのだ。

家に帰りたい。
母親と過ごした家に、オヤジのいる家に。
大学進学のためマルコは初めて長年暮らしてきた家を出たが、オヤジはそのまま残ると言ってくれた。
だからマルコは時折、実家に帰省する。
家には母親とともに親しんだ本がいまでも大切に保管されている。
そうしてまた暗いアパートの室内をマルコは見渡した。
ここは寂しい。いや、寂しくなった。
ブラウニーがいた頃は寂しさを忘れていたからだ。
そうしてまた過去のことを思い出す。
引っ越した当初、マルコは慣れない不安に押しつぶされそうでいた。
いつまでもオヤジに甘えているわけにはいかないと将来のために進学を決めたものの、やはり常に人の気配のある家で暮らしてきたマルコにとって一人暮らしは寂しいものだった。
シンとした無機質な家の中で一人黙々と過ごす。
大学では人がたくさんあふれているため、余計に家の中での寂しさが目立った。
しかしやがて違和感を覚えるようになる。
どうにも家の中に変化が起きているようなのだ。
物の配置がほんの少しずれていたり、作っていたごはんの味付けがほんのちょっと変わっていたり。
マルコは割と鈍い方だ。それは自他共に認めている。
だから本来ならこんなことは気のせいで済ませていただろう。
だが、窓辺に置かれたものを見てマルコは今までにない驚きを得た。
妖精のためにと日課で置いていたお菓子の皿が動いていたのだ。
他の物だったら見過ごしていただろう。
だが、それはマルコにとって大切な事柄だった。
何かがこの部屋に訪れている。そう思った。
他の人間なら気味悪く思うに違いない。
けれど、妖精を信じ、またお人好しであり、寂しさに押しつぶされそうだったマルコはそれに心が動かされた。
その日からマルコは気配を探るようになる。
するとだんだんとその気配を感じられるようになっていった。
ひとりぼっちだと思っていた部屋の中に自分以外の何かを感じる。
それも日に日に強くなっていく。
いつしか感じていた寂しさはなくなっていた。
パラパラと思い出の中の本のページをめくる。
本の中に描かれた小さな妖精の一人“ブラウニー”。
姿を見たことないマルコは日々の様子から見えない“誰か”をそう名付けた。

密かに名付けた妖精のことをマルコはだれにも話さなかった。
それは今までの経験から来ることだった。
マルコが妖精を信じていると言うと周りはみんな馬鹿にしたり、困った反応を見せたりするからである。
イゾウですら呆れていた。
マルコの話をちゃんと聞いてくれたのは母親だけ。
オヤジはもしかしたら受け入れてくれるかもしれなかったがなんとなく言えないままでいた。
誰にも言えない秘密というものはたまらなくもどかしい。
母親がいた時は二人だけの秘密だからよかった。
誰かとこの楽しさを共有したい。みんなでなくていい、心の底から信じて欲しいわけでもない。
ただ、大切なこの秘密を笑って聞いてくれる誰かに打ち明けてみたかった。
ブラウニーはいなくなってしまったけれど、大切な思い出としてせめて誰かに、この気持ちを受け止めてもらいたかったのだ。
マルコの体がふるりと寒さに震え、そっと目を閉じる。
サッチなら大丈夫だと思った。
優しく、いつだって微笑んでマルコの話を聞いてくれたサッチだったらきっとマルコを受け止めてくれるに違いないと。
勇気を出して、マルコはサッチに問いかけた。
尋ねるのが少し怖かったけれど、きっといつものように微笑んでくれると思っていた。
けれど、現実はどうなったか。
冷たくなったマルコの手がぎゅうっとシーツを握りしめる。
サッチの顔に広がった表情がマルコは忘れられない。
辛くて、苦しくて、悲しい。
ブラウニーがいなくなって、その悲しみを和らげてくれたのはサッチだった。
けれど、サッチに受け入れられなかった今、マルコには誰もいない。
暗く、静かで寂しい部屋の中、マルコは泣き疲れ、そのまま眠りに落ちた。

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