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「夢であれ、現実であれ」



 やってしまった。今までの小さな失敗の比ではない。それまで必死に積み重ねてきたものを、俺は俺自身の手によって台無しにしてしまったのである。

 あの日、なまえちゃんは出会った瞬間からどこか元気がない様子だった。何度か重ねてきたデートのお陰で、俺達の距離感は随分と近くなっていたと思う。三ヶ月以上かけてゆっくりと、着実に、俺は健全な男であると示してきた。だからそろそろ、勇気を出して告白しようかと考えていた矢先の出来事だ。
 夜ご飯の席、食事を終えたなまえちゃんが俺の瞳をじっと見つめながらぶつけてきた一言は衝撃的だった。「私以外にも一緒にいて楽しい人、いるんじゃないの」って。ひどく苦しそうに言い放たれたセリフ。
 その顔を見たらいてもたってもいられなくなって、俺は強引すぎるよなと思いながらも自分自身を制御できぬまま、会計を終えるなり足早に店を出て、埃っぽい路地裏で勢い任せに気持ちをぶつけてしまった。
 なまえちゃん以外に一緒にいて楽しい人? そんなのいるわけない。いたとしても、なまえちゃんと一緒にいる時の「楽しい」は他の誰かでは代用できないのだ。だから俺は言った。特別だ、と。

 近い距離。それに気付いたなまえちゃんが後退ろうとしたのを、咄嗟に食い止めた。今まであれだけ触れることを躊躇ってきたくせに、ナチュラルに手を繋ぐことだってきちんとこの気持ちを伝えて上手くいってからにしようと決めていたはずなのに、「電気くん……?」と見つめてくるなまえちゃんの表情があまりにも色っぽくて、可愛くて、俺は自分の欲望を押し留めることを諦めてしまった。
 俺の「ごめん」という三文字なんて気休めにもならないことは重々承知だ。それでも、理性を捨てて止まれないことに対する何かしらの謝罪はしなければならないと思った。それゆえの「ごめん」。
 誰かに見られるかもしれないとか、一端のプロヒーローとしてあるまじき行為だとか、それ以前になまえちゃんの了解も得ずに唇を押し当ててしまうなんて、男として、人間としてどうなんだとか、冷静になって考えれば突っ込みどころは満載だ。しかし、キスの最中に押し退けられなかったのは、なまえちゃんも俺と同じ気持ちだからじゃないか、という期待もしていた。
 もしかして今告白すれば雰囲気的に上手くいくんじゃないか? そんな邪な考えが過った時に、ふと冷静な自分が頭を叩いた。
 仮になまえちゃんが俺と同じ気持ちを抱いた上でこの行為を受け入れてくれているとして、俺はまた最初の時のように、このままずるずると欲望に引っ張られる形でなまえちゃんと事を進めてしまって良いのか。そう考えている最中になまえちゃんに服をぎゅっと握られて目が覚めた。答えは確実に、ノーだ。

 名残惜しさから下唇を食んで離れる。これじゃあダメだ。こんなことをした後で「好きなんだ」って言って上手くいったとしても、流れに身を任せただけの軽い気持ちだと思われる。それは嫌だ。
 そうなると、今度は自分をトコトン責めたくなる。俺はどうして今ここでキスなんかしてしまったんだろう。あともう少し我慢していれば、先にきちんと気持ちを伝えていたら、良い方向に進んだかもしれないのに。
 そんな自責の念から表情を歪めた俺に負けず劣らず苦しそうな顔をしたなまえちゃんは、鋭い言葉で俺に詰め寄ってきた。当然と言えば当然の反応だ。

「なんでいつも何もせずに帰るの?」
「え」
「最初はホテル行ったくせに」
「それは、」
「なんで今も、やめちゃったの?」
「……なまえちゃんとは、そういう関係じゃないから」

 適当に進めたくない関係なんだ。本気なんだ。だから手を出さないようにしてたんだ。今のキスも、なんとなくの流れでやったわけじゃないんだ。先に気持ちを伝えなきゃって思ったんだ。
 安っぽくても下手くそでもカッコ悪くても、そんな言葉で補うべきだったのだと思う。しかし俺が口を開く前に「そっか」と呟いて踵を返したなまえちゃんの後姿は、俺に「来るな」と言っているようで引き留められなかった。
 携帯を取り出してすぐさまメッセージを送ろうと思ったけれど、指先は動かず止まったまま。そりゃあそうだ。どんなメッセージを送ったところで、俺の元を去って行ったなまえちゃんを呼び戻す術などない。
 こうして俺は、間違いなく、人生最大の失敗をしてしまった。



 あれから一ヶ月。暑さが和らぎ、朝晩は肌寒さが感じられるようになった十月中旬になっても、俺はなまえちゃんに連絡できずにいた。
 デートのお誘いを気軽にできる仲にまで発展していたというのに、今の俺達は振り出しに戻るどころか、後退してしまったと言えるだろう。全て自分のせいだということは分かっているけれど、それにしたってショックが大きすぎる。お陰で今月の俺は仕事でもイマイチ成果が出しきれていない。

「チャージズマ! 明日非番だろ? 久し振りに合コン来ないか?」
「あー……」
「どうせ最近ノってないのは女にフラれたからだろ? 新しい出会いがあれば気分も変わるって」

 帰り間際、事務所の先輩に声をかけられた俺は唸りながら考える。一ヶ月前の俺なら即断っていた(というか先輩も誘ってこなかったと思う)けれど、今の俺の心は揺れていた。
 なまえちゃんへの気持ちが薄らいだり消えたりしたわけではない。むしろ会えない分フラストレーションが溜まって、以前より強くなっているような気さえする。
 しかし現状、俺はなまえちゃんに愛想を尽かされたのだと思うし、前のように二人で出かけることは愚か、連絡を取ることすら叶わない。せめてもう一度謝って、ダメ元で好きだと伝えられたら踏ん切りがつくのかもしれないが、俺にはフラれる勇気がなかった。それなりに自覚はしていたけれど、とんだヘタレである。

「実は人数足んないんだよ。今回だけ。な?」
「そういうことなら……」
「よーし! じゃあ明日の夜七時な。場所はまた連絡する」

 なかば押し切られる形ではあったが、気乗りはしなくとも気分転換がてらなまえちゃん以外の子と話してみるのも悪くないかもしれない。俺は自分に無理矢理そう言い聞かせた。
 しかし翌日の合コン会場に足を踏み入れて席に案内された俺は、断っておけば良かったと激しく後悔することとなる。そこに見間違えるはずもない、なまえちゃんの姿があったからだ。
 俺を見て顔をこわばらせるなまえちゃん。おそらく俺もなまえちゃん同様、こわばった顔をしていることだろう。運の悪いことになまえちゃんの正面の席に座ることになってしまった俺は、こんな時にもかかわらず出会った時のことを思い出していた。

 口数は多い方ではないが、相槌を打つのが上手。元々少し幼く見える顔立ちだけれど、笑ったら更に可愛らしさが増す。空いたジョッキに気付いてさりげなくドリンクメニュー表を渡してくれる気遣いができる。
 今日もそれは変わらない。俺の方は当然のように見てくれないけれど、俺の隣と、その向こうに座るもう一人の先輩とも上手に会話を繰り広げている。そのことにイラッとしてしまうのは、完全に俺の心が狭いせいだ。
 俺となまえちゃんは恋人でもなんでもない。だからなまえちゃんはこの合コンの席にいる。俺は数合わせで来ただけだけれど、そんなことなまえちゃんにとってはもはやどうでも良いことだろう。

 もう俺のことは何とも思ってないのか。だからここにいるんだもんな。そんなことを考え始めてしまうと、なまえちゃん以外の二人の女の子には申し訳ないが全くテンションが上がらず、どうにかして気を紛らわせようと酒を煽るように飲んだ。そんなに強いわけでもないくせに。
 その結果、合コンが終わってからの俺は完全な酔っ払いと化していた。先輩に「大丈夫か?」と声をかけられた俺は「大丈夫っすよー」とヘラヘラ返事をする。先輩達は元気に二次会に行くらしいが、俺はここでオサラバさせてもらう。
 ふらりふらり。足元が覚束ない。ただ幸いなことに、吐きそうになったりはしていないし眠たくもなくて、ただ気分がふわふわと高揚しているだけだから、ゆっくり家を目指せば帰れるだろう。
 途中からなまえちゃんの存在は考えないようにした。向こうも俺のことを気にしていないから話しかけてこないのだろうし、それなら俺もそういう態度の方が良いんだろうと思った。だから酒の力を借りてどうにか乗り切ったのだけれど。

「……家ってこっち?」
「うぇ?」
「ふらふらしてる……タクシー呼ぼうか?」

 耳障りの良い、心地良い声だ。好きで好きで堪らなくて、忘れたくても忘れられなくて、合コン中もその声で俺の名前を呼んでくれないかと何度思ったことか。
 考えないようにしていたけれど、存在を消すことなんてできやしなかった。どんなに酔っ払っていても、なまえちゃんへの気持ちを誤魔化すことは不可能だ。それを今、思い知る。

「タクシー呼ばなくていいから、俺と一緒に帰って」
「……や、だ」
「これが最後になっても良いから」

 今日を逃したら、もう二度となまえちゃんと話ができないような気がした。だから俺は、後先考えずになまえちゃんを逃すまいと手を掴んで引き留める。
 熱い。俺が酔っ払っているからという理由だけじゃなく、きっとなまえちゃんの体温も高いような気がする。未練がましい男だと振り払われるかと思った手は、意外にも振り払われることはない。

「そんなこと言うなら、最後になっても良いからもう一回……して」
「……へ?」
「電気くん」

 なまえちゃんの瞳は、あの日と同じように、否、あの日以上に色っぽくて、可愛くて、どうしようもなく抱き締めたくなった。何をしてほしいのか、なんて、訊く必要はない。


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