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「#エロ」のBL小説を読む
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ジーッと低い空気清浄機の稼働音が耳を刺す。まだ十五時を回ったばかりだったが、カーテンを閉め切った部屋は薄暗く、空気もどことなく湿っぽい。
 身体の異変が顕著に現れたのは、新宿に戻り人払いを済ませたあとだった。
 たいして強くもないレースカーテン越しの日差しが眩しくて、部屋中のカーテンを閉めて回り、シャッターの付いている箇所はシャッターも下ろした。
 カーテンの隙間から漏れた日差しが手の甲を照らす。それだけで肌がが灼けるように痛んだ。日に当たった部分が、日焼けでもしたかのようにじんわり赤くなっている。全てのカーテンを閉め終える頃には、真夏のアスファルトに放り投げられたみたいに身体が熱くなっていた。
 頭は痛いし、目も回って視界が安定しない。貧血に似た感覚だ。頭に血が足りていない。息を吐き出しながら椅子に腰掛け、目頭を親指と人指し指で摘んで優しく揉みほぐす。
 そういえば、朝の七時にパンを一切れ食べたきりだった。空きっ腹にコーヒーを入れたのもよくなかった、と今さら思う。
 最後の食事から経過した時間に気づくと、空腹は波のように一気に押し寄せてきた。
 腹が減って、喉が渇いて気持ち悪い。
 なんでもいいから胃に物を入れようとキッチンに立ち、手近なところからすぐに食べられるようなものを漁る。バターを塗ったパンに、ペースト状にしたゆで卵と生ハムを乗せてトースターにかけた。焼き上がるまでの待ち時間に紅茶を用意する。
 チン、と出来上がりを知らせたトースターのガラス窓を覗き込む。パンの表面がきつね色にほんのり焦げていい具合だった。トングで皿に移し替え、仕上げにブラックペッパーを振りかける。
 立ち上る香ばしい湯気が鼻に滑り込んでくる。温かな香りは驚くほど食欲を刺激しなかった。もちろん、腹は相変わらず空いている。
 火傷に注意しながら、熱いトーストを指の先で支えて口に運ぶ。想像していたものとは随分違う味に顔を歪めた。
 ──不味い。
 吐き出すのをどうにか堪え、無理やり胃に落とす。口直しに紅茶を啜ったが、これもダメだった。
 ひとつの可能性が脳裏でちらつく。
 普段なら食欲不振か、亜鉛不足か、くらいにしか考えないだろうが、今回は状況が違う。
「……まさか」
 新羅の言葉が頭をよぎった。数時間後、発症。
「クソ!」
 悪態をついてラグを蹴飛ばすと、うさぎスリッパの耳がびっくりしたようにぴょんと揺れる。乱雑に前髪をかき上げ、壁時計を見上げた。新羅の部屋から帰宅して三時間弱。辻褄は合う。
 この怠さは薬のせいだと気づくと、疲れがどっとやってきた。息を吐きながらソファに寝転ぶと、背中で何かが潰れるような違和感があった。
 のそのそ起き上がり背中に触れると、シャツが突っ張り、大きく変形しているのがわかる。怪訝に思ってシャツを脱ぐと、妙な解放感があった。何かが背中についている。
 姿見の前に立ち、手鏡を合わせて背中を映す。黒いコウモリのような羽が、肩甲骨付近から不自然に生えていた。
 愕然として、危うく手鏡を落としかける。新羅の言っていた化け物になる、の意味を身をもって理解した。
 羽の一番高い、傘でいう石突きにあたる部位がツノのように尖っている。ある空想上の生き物の名前が浮かび、とっさに口内を確認した。案の定、犬歯が人間ではありえない角度を描いている。まるで肉食獣の牙のようだ。
 鏡の中の顔が苦いものを食べたように歪む。
「……笑えない」
 合点がいって、髪をぐしゃぐしゃに掻き乱す。
 気だるさを感じたときから、すでに効果は表れていた。この倦怠感も、日差しがやけに肌にしみるのも、食べ物が口に合わないのも、ただの体調不良じゃない。吸血鬼としての体質だったというわけだ。
 効果が現れてから二十四時間経てば薬効は消える、と新羅は言っていた。それなら丸一日、部屋に篭っているのがベターだろう。そもそもこんな姿では出歩けるわけもない。
 先月取り換えたばかりの──先代のリビングを見守っていた壁時計はシズちゃんが暴れた際に巻き添えとなった──モダンなデザインの壁時計に目を向け考える。
 同じ時間に服薬させられたということは、シズちゃんも発症している頃かもしれない。それならいやがうえにも外出は控えるべきだ。この絶不調のなか、天敵と街中で鉢合わせることだけは避けたい。シズちゃんが薬を盛られているなら尚更だ。もともと予測しにくい行動が、輪をかけて予測しにくくなっているに違いない。
 相互理解なんて陳腐な言葉を使っていたということは、新羅は俺とシズちゃんを引き合わせたいんだろうが、素直にモルモットになってやる気は毛頭なかった。手摺を頼りに二階へ上がり、薄暗い私室に引きこもる。籠城戦だ。
 眠ってしまえば時間が過ぎるのも早いが、異常事態で神経が高ぶっているせいか、ベッドで横になっても一向に眠気はやってこない。どうにか気を紛らわせようとネットサーフィンをしてみたり、読みかけの本を手に取ってみたりと暇つぶしに努力してみるも集中力が足りず、どれも中途半端に終わってしまう。気が急いているぶん、時間の流れはいつにもましてゆっくりに感じる。
 最終的に作業を諦めることを選択し、黙って寝転んでただただ目を閉じた。視覚情報をシャットアウトすると、余計に空腹が身にしみる。
 あの手この手で意識しないように努力をしてみたものの、空腹を我慢できたのはほんの一時間に満たなかった。
 どうしようもなくなってデスクの引き出しにしまってあるブロック状の栄養補助食品を口にしてみたが、結果は同じだった。食べ物は何を口に入れても砂を噛んでいるようにしか感じないし、いくら水を飲もうが喉の渇きは癒されない。
 人間の血でなければこの飢えを満たせないことは、本能でわかっていた。
 試しに自分の腕に牙を突き刺してみたもののとても飲み干せるような代物ではなく、すぐに吐き出してしまった。口の中に鉄の風味が広がって気持ち悪い。念入りに水ですすぎ流し、数回咳払いをする。気分は最悪だった。
 どうあっても他人の血でなければ渇きは満たせないらしい。
 時間が経つごとに、原始的な欲求は着実に大きく膨らんでいく。その結論に至るまで時間はかからなかった。
 ──新羅に責任を取ってもらうしかない。
 いきなり血をくれと言って訝しんだりしないのは、事情を知っている──シズちゃんとセルティはそれぞれ別の理由で論外だ──新羅以外にいない。
 そもそも事の発端は新羅だ。身から出た錆というものだろう。
 天敵と鉢合わせる可能性はもちろん頭にあったが、理性でどうこうできる渇きではなかった。
 街がハロウィンでお祭り騒ぎなのが僥倖だった。奇天烈な格好についてわざわざ言い訳などせずとも、勝手に仮装だと勘違いしてくれる。
 ウォークインクローゼットの奥の奥から去年ネットで購入して使わずじまいだった仮装セットの包装袋を破く。不審がられないよう、できるだけハロウィンの雰囲気に馴染んでおきたい。
 シャツとブレザーの背中部分を適当に鋏で裁断し、羽が出せるようにして、その上から黒地のマントを羽織り羽を覆い隠す。羽を畳んでいてもシルエットがおかしいが、街中仮装した人間で溢れているのだから特段気に留められることはないだろう。
 姿見の中にはハロウィンの仮装として違和感のない吸血鬼が映っていて苦笑する。
 ケータイをマントの内ポケットに放り込み、ほとんど着の身着のままマンションを後にした。




 曇天の夕方だというのに、雲越しに感じる日光が肌に痛い。
 狭い路地裏に入り込み、出来るだけ日光を完全に遮断している日陰を進んでいく。この辺りの道は複雑に入り組んでいて、人通りも多くはない。地理に明るいのが幸いだった。今の俺の身体にはうってつけの道だ。
 大通りはすでに賑わい始めているようで、裏道に入っていても騒然さが肌で感じられる。こんなことになっていなければ、人間観察に精を出せたというのに、と臍を噛む。
 一見、行き止まりのその細道は、壁を駆け上がれば目的地への短縮ルートとして利用できる。身体は重いが、すこしでも先を急ぎたい。
 跳ね上がるために室外機に足をかけた時だった。
 肩すれすれのところを飛んでいった重量は、マントを巻き込んで俺の身体を壁に縫いとめる。マントが捲り上げられ、隠していた羽が露わになった。
「いつつ……」
 こんなことをするヤツはひとりしか知らない。最悪のタイミングだ。
 ぱらぱらとコンクリートが剥がれ落ちてくる。今日は何を投げてきたのか、とまぶたを押し上げて確認する。壁に突き刺さっていたものは、下手したら俺の身長より大きい十字架だった。ざっ、と血の気が引くのがわかった。
「いつもよりくせぇと思ったら……なんだ手前それ。吸血鬼か」
「……シズちゃん」
 顔を上げその姿を認めて、絶句した。
 足の付け根まで覆っている鎧。鉄の胸当て。博物館や本の中でしか見たことのないような籠手に、地面に着きそうな丈の真っ黒いダッフルコート。いくら街がハロウィンでお祭り騒ぎだとはいえ、相当目立ったに違いない。
「なに……どうしたのその痛々しい格好は。あんまり酷すぎて言葉を失ったよ」
 舌が重たいことを気取られぬように、いつもの調子で返す。シズちゃんのこめかみがひくりと引き攣った。
「ひとのこと言えねえだろうが……つーか、こうなったのも手前のせいだろ。責任とって死ね」
「どうしてそこで俺の名前が出てくるのかな」
「手前のそのふざけたカッコを見たっていう狩沢に捕まってよぉ……手前がヴァンパイアだから俺はエクなんとかなんだってよぉ……」
 狩沢さんに遭遇したときの出来事を思い出しているのか、声が怒りで震えている。『イザイザがヴァンパイアならシズシズはエクソシストだね!』と早口に捲し立てる光景がまざまざと浮かぶ。女子どもには手をあげないと宣言しているものの、よくキレなかったものだ。
「それはご苦労さま。彼女、だいぶ変わったところがあるからね」
 よりにもよって、狩沢さんにこの姿を見られていたとは。後日街で鉢合わせたりなんてしたら、と思うとすでに頭が痛い。
「これ、ダンボールにアルミホイルを巻いたようなおもちゃじゃなくて、結構ちゃんとした作りだろ。いくら狩沢さんでも、こんな大きくて重量もあるものを都合よく持ち歩いてるとは思えないんだけど」
 人差し指を立てて、真上に突き刺さったままの十字架を示す。シズちゃんも俺につられて視線をわずかにずらした。ああ、とどうでもよさそうに頷く。
「仮装の違反だっつって注意されてんのに言うこと聞かねえガキから取り上げたんだよ」
「それってほとんど恐喝じゃない?」
 勝手な物言いに呆れて目を細める。今日を楽しみにしていただろうその子どもが、毎年このシーズンになる度シズちゃんの凄んだ顔を思い出すことになるのを思うと、哀れでならない。
「ルール守らない挙句、注意されて無視すんだからそのガキが悪い。やめろっつったら調子乗って振り回してきやがったから、係の人の代わりにぶん取っただけだ」
「よりにもよって振り回して当たったのがシズちゃんだったなんて、その子も災難だったね」
「その辺に捨てるわけにもいかねえし、どうすっかなって思ってたんだが……けどまあ、そんな顔色悪い手前の顔拝めんなら悪くねえ。吸血鬼はこういうもんが苦手だって話だったな」
 ──気づかれていた。
 今にも舌舐めずりしそうなその顔は、捕食者そのものだ。
 瞬間的に危機感が爆発した。力業で壁から身を離す。マントの破れた音がした。自由になった腕で、眼球を目がけてナイフを投げる。いつものサングラスはしていないから、当たれば致命傷だ。
 シズちゃんはわかっていたように軽く首を振って避ける。間を空けず再度投げつけたナイフは、口で捕まえられ、ビスケットでも噛むかのように粉々に噛み砕かれた。
「ぐっ……」
 シズちゃんは躊躇なく俺に反撃した。真っ直ぐに伸びてきた手がシャツの襟元を掴み、身体を浮かせて吊るし上げる。
 息が詰まり、反射的に両手で引き剥がそうと腕に手をかけるも、シズちゃんは少しも意に介さない。そういう態度は、本当に燗に障る。今日は特にだ。
「はは……シズちゃんこそ、そんな目しちゃってさ。自分がどんな顔してるかわかってる? 獣みたいだよ。……みっともない」
 笑ってやると、シズちゃんはますます腕の力を込めた。掌の中で首が脈打つ。息が出来ない。引き剥がすために立てた爪は、指先が小刻みに震え出してなんの役にもたたない。
「ああ。殺したくて殺したくて仕方ねえ」
 嬉しそうに告げられて悪寒が走る。勝手に唇が震え出すほどの凄みがあった。怯えが見て取れたのか、気を良くしたシズちゃんはぱっと首から手を離す。ふらついて壁にもたれかかり、咳き込む様子を観察するような目で眺められ、腹の底から怒りが湧き上がる。まったく、趣味が悪い。
 シズちゃんは俺が体勢を整えるより早く、目線を合わせるように屈み込んだ。顔が近すぎて不快だったが、引き下がるような無様な真似はしなかった。シズちゃんは目線を合わせたまま、いつのまにか萎縮してしまっていた羽に手を伸ばす。
「これ、本物か」
「答える義理はないね」
 どうにか逃げようと機会を窺うも、ここまで間合いを詰められていては分が悪い。
 シズちゃんの手が背中から離れ、シャツの衿にかけられる。さっきまでの絞め上げる構えじゃない。物を破くための構えだ。
「なにすん……!」
「脱がしてみりゃわかんだろ」
「バッ……!? シズちゃん、ここ外! わかる!? 外!!」
「誰も来ねえよこんなとこ」
 本気で脱がしにかかる腕を両手で捕まえて、必死に止める。捲られた服の端から、秋の終わりの空気が入り込んできて鳥肌が立った。
 それなのに、シズちゃんの手は熱い。目の光も鉄を溶かし込んだような鈍い色のままだ。シズちゃんがこういう顔つきのときは大抵、俺にとって不都合な展開が待っている。
 背後は冷たいコンクリート壁。膝を脚の間に割り込まれてしまえば、逃げ場はなかった。
 服の中に潜り込んでいる手は俺の抵抗に痺れを切らし、途中で方向転換して重そうな鎧を取り外しにかかった。
 その意図が読めないほど馬鹿じゃない。
 シズちゃんとは何度も身体を重ねているが、屋外でしたことなど当然、一度もない。
 獰猛な目で街中を追いかけ回されたことはあったが、それだって、過程はどうであれ結果は室内に落ち着いている。獣のような男ではあるが、それでも人並みの羞恥心は持ち合わせていた。
 だというのに、いまの彼の目は酷い。半紙の端に火が当てられたように、理性が消えかかっている。この状態が新羅の飲ませた薬に起因するのは間違いない。
 ──なにが友達だ。
 あとで覚えてろよ。心の中で毒づく。
「うぜぇ」
 すこぶる機嫌の悪い、低い声だった。これ以上事態が悪化しないうちに、と急いで打開策を講じる。
 人々は大通りでどんちゃん騒ぎをしているが、この細道に来ないとは限らない。平和島静雄に跨がれている姿を愛する人間たちに見られるなど、冗談じゃなかった。
 金属がガチャガチャと音を立てる音が耳にうるさい。脱げねえ、と鬱陶しそうに呟いて舌打ちした。不思議なことに、シズちゃんも気が急いているらしい。
「シズちゃん」
 焦りを隠し、平坦な声で呼びかける。
 脱衣の手順に迷っている腕を鎧の上から掴んで止めにかかる。シズちゃんは当たり前に俺の手を払って振り解いた。どうどう、と獣を宥めるように胸の前で両手を軽く上下させる。
「ストップ。とりあえず落ち着こう。俺はこんな見た目だし、シズちゃんだって新羅に飲まされた薬の効果が出てきてるんだろ。もし自覚がなくてもそのはずだ。普通じゃない状況に神経が興奮してるんだよ、冷静さに欠いてる。わかってるだろ、君だって。こういうときの判断はあとで後悔する、絶対にね。だからいいかい、いまシズちゃんが取るべき行動は、身体を引いて俺から離れる。それから後ろを向いて、そのまままっすぐ家に帰ることだ。それでも神経が高ぶってどうにもならないっていうなら、事の発端である新羅を殴りに行けばいい。そうでしょ?」
「クソ、動きにくいな。どうなってんだこれ」
「聞けよ!」
「手前がぺらぺらぺらぺら喋るときはうぜぇこと喋ってるって話だろ」
「そんな話はしてない……!」
 苛立った声で詰る。話にならない。
 シズちゃんは俺を無視してしばらく鎧と闘っていたが、諦めたように肩で息をつく。そして唐突に腕を前に突き出し、そのまま俺の身体を軽々と肩に担ぎ上げた。
 予期せぬ浮遊感に驚いて声を上げる。思いっきり背中を蹴り上げたが金属の寒々しい音がしただけで、痛んだのは俺の足のほうだった。
「ちょっ、なに、降ろせ……!」
 腹に食い込む鎧が痛い。シズちゃんは俺の訴えに耳を傾けることなく、つかつかと壁の前に立ち、刺さったままの十字架を片手で引っこ抜く。埒外の膂力をまざまざと見せつけられて、頬がひくついた。
「手前、廃ビルやら屋上とかやたら詳しかったよな」
「だったら?」
「ここで脱がされるか、少しでも人目につかなそうなとこで脱がされるか、どっちか選べ」
「──君ってほんとう最低」
 シズちゃんはそれきり口を閉ざす。
 左肩に成人男性、右手に二メートル近い十字架を手にし、おもちゃの兵隊みたいな音を鳴らして歩き出した。


 何度か噛みついてやろうと思ったが、鎧越しでは文字通り歯が立たない。途中で荷物を扱うように俺を脇に抱え直したりして、シズちゃんはずんずん細道を進んでいく。道案内に黙って従う姿は悪くなかったが、今後の展開を思うと憂鬱だった。
 シズちゃんが身に纏っている大量の魔除けもどきのせいで身体が怠く、抵抗する気分にも火が点かない。そんなものが体調に影響を及ぼすという状況自体が屈辱だった。
「ここか」
「そ。左手奥に緩んだドアがあるから、そこから入れる」
 シズちゃんなら立て付けが緩んでいようがいまいが関係ないだろうが、年季の入っているビルだ。妙な力を加えたりなんかして、ビルが崩壊するところに巻き込まれたらたまったものじゃない。
 シズちゃんは言われた通りのドアを足で蹴り開け、すぐそこに見えた階段を黙々と登っていく。
 よくこんなところ知ってるな、と独り言のように呟いたシズちゃんに、腕の間で揺られながら答える。
「拠点を欲しがるヤンチャな子たちに情報提供してたりするからね。カラーギャングとかそういう目立つグループはすっかり大人しくなったけど、いまも結構いるんだよ、友達の部屋とかショッピングモールのフードコートとかじゃできないことをしたがる人間ってさ」
「黙れ。訊いてもないことまでベラベラ喋ってんじゃねえ」
 屋外を行くひとびとの気配から遠ざかるように、シズちゃんはテンポよく階段を登っていく。適当な階の廊下に足を踏み入れ、かろうじて部屋のようになっている場所を選んで、俺の身体を地面に放り投げる。
 ぶん投げられる予感はしていたから難なく受け身は取れたが、羽のことを失念していた。着地時に身体と地面との間に挟まれた薄い羽がコンクリートに擦れて痛み、思わず顔を顰める。
 次いでシズちゃんは、折れて剥き出しになったコンクリート柱を机代わりに、担いでいた十字架を置いた。俺より無機物に対する扱いのほうが丁寧なのが癇に障る。
「にしてもこの服、ほんっとうにうぜぇ。ガチャガチャガチャガチャうるせぇし、動きにくいし」
「それ、服って言わなくない?」
 シズちゃんが身動きするたびに鈍い金属音が鳴り、鬱陶しそうに悪態を吐いた。つくづく狩沢さんに捕まったのが俺じゃなくてよかったと思う。
「クソ、やっぱり脱げねえ」
 鎧に苦戦しているこのチャンスを逃すわけにはいかない。シズちゃんに気取られぬようそろそろと部屋もどきの出入り口を目指すも、なんの前触れもなしにこちらを振り返ったシズちゃんと目が合い、マントの下の肩が跳ねた。
「おい、ノミ蟲。手前も手伝え」
「なんで俺がシズちゃんの脱衣を手伝わなきゃいけないんだよ。俺は帰る」
「手前だって欲しいんだろ。さっきから何回も噛みつこうとしやがって」
 ──バレてた。
 今日のシズちゃんは一段と勘がいい。
 牙は金属の膜を貫けなかったし、鎧越しではわかるまいと踏んでいたが、甘かった。
 後退をやめ、なおも鎧と格闘しているシズちゃんをじっと見つめる。
「手伝ったら、くれるの」
「手前次第だな」
 シズちゃんは鼻で笑って答えを濁し、言質を取らせようとはしない。嫌なやり口を覚えたものだ。
 だが正直、限界だった。
 飢えを満たす。その生理的欲求に従ってシズちゃんににじり寄り、鎧に手をかける。新羅のマンションに向かうより、目の前の肉体で済ませるほうが手っ取り早い。
「こんなの、シズちゃんなら簡単に剥がせるんじゃないの」
「ひとが寄越したもんに傷なんてつけらんねえだろ」
「そういうとこ、ほんと律儀っていうか……気持ち悪いよ」
「うるせぇ、黙れ」
「あっ、動かないでよ。ただでさえ脱がせにくいんだから」
 鎧の隙間から汗ばんだ肌が覗き、ごくりと唾を飲む。今の俺には何よりのご馳走に見える。張りのある筋肉に牙を突き立てるところを想像すると、頭がくらくらした。
 化け物じみた欲求を押し隠し、営々と手を動かし続ける。
「狩沢さんもシズちゃんに着せた時点で、無事返ってくるなんて思ってないでしょ。ていうか一方的に押し付けられたんだから、どう扱ったって自由じゃない」
「黙れっつってんだろうが。口じゃなく手ぇ動かせ」
 これ以上喋ったら殴られかねないから、仕方なく口を閉じて黙々と鎧を剥がすことに集中する。シズちゃんの命令に従ったわけではない。自身の身の安全のためだ。
 ようやくひとつ目が剥がれて、床に落とすようにして鎧を置く。ガシャンと重たい金属音が吹き抜けの部屋に響いた。よくこんなものをつけて、普段と変わりなく動けるものだ。
「おい、乱暴に扱うなっつってんだろ」
「はいはい。にしてもこれ、けっこうガチなやつじゃないか。こんなものどうやって手に入れたんだか……」
 脱がすたびに、静雄の血肉の匂いが近く、濃くなるような感覚があった。焦らされている錯覚に、頭の奥が痺れていく。
「ていうかシズちゃんさ、なんでそんなにいつも通りなの」
「なにが」
「新羅が渡した薬、飲んだんだよね? なんか変化なかったの?」
 震えそうになる指を誤魔化して尋ねる。普段ならどうってことはないが、気が急いて指がうまく動かない。面倒な装甲を剥ぎ取ることに傾注するふりをして、上目遣いに顔を盗み見た。シズちゃんは考えるふうにして宙を見つめ、眉間にしわを寄せる。
「自分の部屋にいんのに手前のくせぇ匂いがしたから、プチッとぶっ潰してやろうと思って外に出たんだよ」
 記憶を辿るように、目線は斜め上へとあがっていく。
「そんで手前を見つけて、こう……なんだ……ぶっ殺してやると思って捕まえた」
「普段と変わりないだろ、それ」
 吐き捨てるように突っ込む。真面目に聞いていたのが馬鹿馬鹿しい。
 化け物じみた代謝で薬効を妙な理論ごと吹っ飛ばしたか、命を惜しんだ新羅が偽薬を差し出していたか。
 どちらにしても、自分だけが薬の効果がはっきり現れている状態というのは気分がよくない。
 最後のパーツを外し終えると、俺の憂鬱など知らないシズちゃんは、鬱陶しいものが身体から剥がれて満足げにポキポキと肩を鳴らす。
「あー、すっきりした」
 油断しているシズちゃんの隙を突くのは簡単だった。
 素早くマントを脱ぎ捨て、シズちゃんの顔に投げつける。彼がそれを振り払うより先に、目の前の身体を床に押し倒した。
「──ってぇな。なにしやがる」
「シズちゃんが言ったんだろ、脱げばわかるって。この通り羽は本物だ。君の要求は満たした、次は俺の要求を通させてもらう」
 それだけ言って、蠱惑的にすら見える首筋にかぶりつく。しかし俺が口にできたのは温かい血肉ではなく、硬い金属の味だった。カシャン、と甲高い音が頭蓋骨に反射する。脇に転がっていた鎧のひとつを引っ張り寄せて、牙を防いだらしい。
「なんのつもり」
「そりゃこっちのセリフだ。さっきからなんの真似だ」
「手伝ったらくれるって言ったのはシズちゃんだろ」
 詰る声は低く掠れていて、シズちゃんは俺の余裕のなさを鼻で笑った。最悪で認めたくないけど、この際シズちゃんでもいいと思うくらいには飢えていた。目の前にいる獲物のこと以外は考えられない。
 諦めるという選択肢はなかった。もう一度首に擦り寄り、キスをするときみたいに引き締まった肩口に手を添える。いつもならこれだけで簡単に流されるのに、今日は違った。俺の手を鋭く捕まえて、にいっと唇を曲げる。
「誰が手前なんかにくれてやるかよ」
 掴まれた手首をぐいと力任せに引っ張られ、床に背中を押しつけられる。跳ね起きるより先にうつ伏せに身体をひっくり返して、後ろ手に捻り上げられた。加減はしているんだろうが、それでも痛い。低い声で罵る。
「話が違う!」
「やるなんて一言も言ってねぇ」
「へぇ……悪どいね。詐欺師の手口だ」
「手前よりはマシだ」
 ぐ、押し黙る。シズちゃんとこの距離の近さでの舌戦はあまりに不利だった。
 まずは距離を取らねば、と締め上げられた手を解こうとするもビクともしない。それどころか悠然と背中の上に座り直され、みしりと羽が悲鳴をあげる。身体の一部がひしゃげる恐怖にもがくも、もがけばもがくほど上からかけられる体重は増した。
「いッ……!?」
 羽の付け根をあやしい手つきで撫でられ、背筋がのけ反る。背後で羽がぴんと張るのがわかった。
「なんだよその声」
 は、とおかしそうに笑われ、顔に血がのぼった。俺の反応に気を良くしたシズちゃんは、両手で揉み込むように根元を弄る。びりびりした感覚に喉の奥が震え、呼吸が浅くなっていく。殴ることも蹴ることもできず、握りしめた拳を地面に押しつけてじっと耐えた。
「や……めてくれるかな。不快だ」
「声、震えてんぞ」
 シズちゃんの声は明らかに愉悦を含んでいた。
 唾を吐く代わりに舌を打ち、どうにか重たい筋肉の下から抜け出そうとかぶりを振る。反動で羽が揺れて、シズちゃんは不機嫌そうに唸った。
 背中に力を入れると羽が動くことに気づき、はためかせてシズちゃんを追い払おうとするも、羽先のツノのようなものをがっしり掴まれてしまう。背骨に力を入れても羽は固定されたまま動かなかった。
「鬱陶しいな、この羽」
「なら背中から降りたら? 俺の身体は椅子じゃない」
 絞り出した声は所々がしわがれていた。重みで肺が潰れそうで、本気で苦しい。自分の身体が特殊なだけだというのに、他の人間も同じように扱っても問題ないと思っている。
「めんどくせえ」
 シズちゃんが背中から降りたことで、ようやく満足に呼吸ができた。大きく息を吐き出すも、落ち着いて酸素を取り込めたのは一瞬だけだった。羽先のツノを掴んで怠い身体を引っ張り立たせれ、無理に伸ばされた羽が引き攣る。
 悪い予感がした。
 逃げ出そうと本気で暴れたが、シズちゃんはおかまいなしに俺の両手首を軽々まとめ、どこからか取り出した仰々しい鎖でめちゃくちゃに縛り上げる。
「なッ……えっ、ちょっと!?」
 シズちゃんは縛った手首を高く持ち上げて、壁に押し付ける。そうして出来た両腕の隙間に、まるで画鋲でも打つかのようにして十字架を壁に突き刺した。コンクリートの抉れる音がすぐ上で響く。十字架は頭上の壁にめり込み、俺の両手首を否応なしに固定した。腕が限界の高さで吊られているために爪先立ちを強いられ、地味にキツい。
 ひどい格好を自覚して頬に朱が差したが、表情自体に変化がなかったのは日頃の経験の賜物だろう。
 首ごと顔を上げ、シズちゃんの視線を真正面から受け止めた。人間離れした業を披露したあとだというのに、シズちゃんの呼吸は落ち着いている。彼からしてみれば、コンクリートに鉄棒を突き刺すなど、プラスチック蓋にストローを挿すのと同じくらい簡単なんだろう。
 苦々しい気持ちと忌々しい気持ちが複雑に絡み合って、乾いた笑い声が口から漏れ出る。拍手してやれないのがこれまた業腹だ。
「ハハ……さすが化け物。やることが人間じゃないや」
「いまの手前が言うか」
「確かにいまの俺は、見た目は化け物だけどね。それでもシズちゃんのほうがよっぽど化け物じゃないか。俺じゃこんなマネはできないし、そもそもしようとも思わないね。自分より力の弱いヤツを縛って、逃さないように拘束までしてさ。楽しいかい?」
「手前だって、普段から似たようなことしてんだろうが」
 シズちゃんは間髪入れず、吐き出すように言い放った。肩を竦めようとしたが体勢のせいで諦念し、首を傾げる。
「なんのことかな」
「人間で遊んでんだろ」
 ギリ、と奥歯を食いしばる音が聞こえそうなほどぐしゃり顔を顰めた。その様子をハ、と鼻で笑い飛ばしてやると、前髪を掴まれ、痛みに顔が歪む。多分、数本髪が抜けた。
 ──シズちゃんのそういう、化け物のくせに正義の味方ヅラするところが、どうしようもなく大嫌いなんだ。
「俺は力で人間を捩じ伏せたことは一度もない。暴力が嫌いだなんて言いながら暴力を振るうシズちゃんと一緒にしないでほしいね」
「弱みを握られてりゃ、逃げたくても逃げらんねえだろ。同じことだ」
「嫌だな。俺はあくまで人間の意思を尊重して──んんッ!?」
 黙れ。その言葉と同時に伸びてきた手に顎を固定され、抵抗する間もなくごわごわとしたものを口に突っ込まれた。シズちゃんの手に握られているものを見遣る。見覚えのある裏地の赤い、黒い布切れ。
 ──マントか。
 俺の着ていたマントを破いて丸めたらしい。
 シズちゃんは俺が布の塊を吐き出す前に、さらに破いたマントで口を完全に覆う。頭の後ろで結んで固定されてしまえば舌で押しやろうが何をしようが、口内の布を吐き捨てることはかなわなかった。
 結果に呆然として、呼気が乱れる。
 ──これじゃ、牙を刺せない。血が飲めない。
 シズちゃんは最初から俺に血をやるつもりなんてなかった。気づいて、耳まで真っ赤になった。
 されるがままになるのだけはご免で、すぐさま蹴りを繰り出すも、膝を脚の間に割り込まれ阻止された。そのままぐいぐい下から突き上げるように股間を刺激されて顎が上がる。張り出した喉仏に噛みつかれ、ひゅっと息をのむ。甘噛みなんて優しいものじゃない。
 ぎゅ、と口の中の布をありったけの力で噛んで痛みに堪える。そのまま骨まで噛み砕かれるかと思って肝を冷やしたが、できた歯型に舌を這わせて離れていった。きっと跡になってしばらく消えないだろう。
 シズちゃんは息を乱した俺を笑って、ゆったりとした動きで腰の前に屈む。ぴん、とデコピンの要領で股の間を弾かれ、身体が揺れる。加減はしているんだろうが、それでも痛い。
「なにおっ勃ててんだよ、変態」
 君のせいだろ、とか、あんなことされたら誰だって、だとか、言いたいことはいくらでもあったが言葉にならない。唾液とともに布に吸い込まれて消えていく。
 他にどうすることもできなくて余裕の表情を睨むと、目を眇め口端だけを上げて笑われた。凄まれたわけでもないのに、ぞく、と道端で獣に遭遇してしまったような悪寒が背筋を駆け抜ける。
 シズちゃんはなんの躊躇もなしに、俺のズボンに両手をかけた。俺は見ているだけしかできない。
「ベルトしてねえんだな。いつもそうしろよ、あれ面倒くせぇんだ」
 ──ひとが喋れないのをいいことに好き勝手言いやがって。
 ぶん殴るつもりで脚を振り上げる。不意打ちの蹴りはしっかり脛に入ったが、シズちゃんは顔色ひとつ変えない。やめさせようと両手を暴れさせるも、十字架に吊られた腕が引き攣っただけで、ズボンもパンツもあっという間に脱がされる。
 剥き出しになったペニスの前でシズちゃんが口を開けた。
「んんッ」
 熱い口内に取り込まれて背が反り返る。羽がぴんと反り返る気配がした。太ももを押さえつけられてしまえば、できる抵抗はもうない。
 ──フェラは嫌だって、いつも言ってるのに。
 フェラをするときのシズちゃんは、いつにもまして獣じみていて不安になる。本当に喰われるんじゃないかと考えてしまうくらい、執念深く口で責め立ててくる。
 しね、と呪いを込めて睨むと、なにを感じ取ったのか仕置のように歯を立てられ、大袈裟に腰が跳ねた。
 舌を使い、熱心に俺のものを貪る。時折、反応を窺うように見上げる視線の熱さに頭がぐらぐら茹だった。
「ッ……!」
 シズちゃんはこちらを窺いながら、口全体でペニスを吸い上げては、唇で根元を食んで刺激する。下生えを梳くように撫で、さわさわと生え際をいじられると壁から腰が浮いた。
「ああ、そういやこれ好きだったっけか」
「んんッ、ふぅ、んーっ!」
 顔を振って否定すると、シズちゃんの機嫌はますます良くなった。ふくらはぎの筋肉が引き攣れ、限界が近づくのがわかる。イきたくなくて、壁に爪を立てて耐え凌ぐ。
「我慢すんなよ」
 シズちゃんは軽くペニスから離れ、器用に舌で鈴口を嬲る。ただでさえこれには弱いのに、ベッドと違って逃げ場がないのはいっそう苦しかった。指は相変わらず下生えをくるくると弄んでいて、身体は勝手にシズちゃんの責めに反応する。空いた手で玉の後ろをぐにぐに突かれ、喉の奥で悲鳴を上げた。
 酸素が薄くなっていき、視界がぼやける。だめだ、と思ったが耐えられなかった。
「んうぅ──!」
 シズちゃんは顔色ひとつ変えないまま口で精液を受け止めて、ぺっと手に吐き出す。とろ、と彼の唇から白いものがゆっくり垂れていくのを見て、居た堪れない気分になり慌てて顔を逸らす。
 自分の意思に反してイかされたショックは大きかった。動かせない身体を弄ばれ、翻弄された。それも、屋外と変わりないこんな場所で。
 ふ、ふ、とできる限りの酸素を鼻から取り入れようと奮闘するが、肺への供給が追いつかない。口を使えないというのは思っていた以上に酷だった。何度も肩を上下させ、身体全体で息をする。
 頭に靄がかかったみたいに、色彩がぼんやりしていた。俯いて目を細めると、収まりきらなかった涙が片目からこぼれ落ちる。
「いい顔すんなよ」
 下卑た声でからかわれ、かっと頭に血がのぼった。暴力的な衝動のまま、目を限界まで見開いてから鋭く睨みつける。唾を吐き捨ててやりたいが、猿轡のせいでそれすらできない。俺の形相に対して、シズちゃんはただ鼻を鳴らしただけだった。その余裕が憎い。
 にぃ、と口角を上げたシズちゃんは、さっきまで俺のものに触れていた手をゆっくりと顔に近づける。
 頬にぬめりを感じ、眉間に力がこもるのがわかった。嗅ぎ慣れた嫌な臭いが鼻のすぐ近くでして、きつく瞼を閉じる。嫌なのに、嫌だと声にすることもできない。まつ毛が水分を含んで重くなるのがわかった。
 ──こんな、強姦みたいな真似。
 もともと合意のない一方的な乱暴から始まった関係ではあったが、それも最初だけで、それからは多少強引なことをされることはあっても俺の意思をすべて無視するようなことはなかった。荒削りだが直情的なセックスは気持ちがよかったし、お互い満足していると思っていた。
 予想していなかった仕打ちに、ショックはじわじわと胸を食い破る。喉の奥がきゅう、と縮んで痛んだ。
 シズちゃんはそれを舐めるように見ている。目をつむっていても、ねっとりした視線が注がれているのを肌で感じ、産毛が逆立つ。
 突然、やんわりと頭を抱え込まれ、目を瞠った。慰めるための抱擁などでないことくらいは理解していたから、息を潜めて意図を探る。
 何度か後ろ髪を撫でたあと、シズちゃんは俺の頭に巻きつけていた布を引きずり下ろし、その指で口内に詰めていたマントを摘んで放った。強引なやり口に何度か噎せる。唾液を十分に含んだそれはボト、と重たい音を立てて地面の色を変えた。
 解放された口で、吸って吐いてを繰り返す。しね、と罵るのをわかっていたように、シズちゃんは俺の口を手で強引に塞ぐ。噛み付こうとすると鼻も塞がれ、抵抗する気力は簡単に挫かれた。
 俺がおとなしくなったのを確認し、シズちゃんは静かに手を外す。やっと満足いくまで肺に酸素が充満したが、強引に押し開かれていた顎は閉じるのも億劫になるぐらい怠い。
「臨也」
 名前を呼ばれ、片眉がぴくりと反応する。身勝手に熱を高められたせいで、頭は鉛のように鈍重だ。顔を上げてやる気になど到底ならなかった。
「臨也」
 落ち着き払った声音で再度名前を呼ばれ、背筋に冷たいものが走った。顔を俯けたまま目線だけそろそろとシズちゃんに向ける。目が合うと、シズちゃんはこの場にそぐわない微笑みをみせた。
 ぞわ、と臓腑が萎縮する感覚がした。
 さっきまで布が突っ込まれてぐちゃぐちゃだった口内はからからに乾き、飲み込む分の唾液すらない。
 思わず半歩後退しようとするも、ふくらはぎの裏に冷たいコンクリートの感触が迫った。ゆっくり、俺を捕まえるためにシズちゃんの手が伸びてくる。睨みつけて絡み合った視線を逸らすつもりなんてなかったのに、手が肩に触れた瞬間、首ごと露骨に避けてしまった。
 それが間違いだった。怯えによる反射的行動は、シズちゃんの加虐心にわかりやすく火をつけた。
 シズちゃんは心地好さそうな笑顔のまま近づき、片腕で俺の腰を引き寄せる。息遣いがわかるほど顔が近い。
「なに……」
「別に?」
 警戒レベルを下げないまま口火を切る。
「なら……ならもういいだろ。今日のシズちゃん、やっぱりおかしいって。もうやめよう、離せよ」
 言いながら膝を使ってシズちゃんの身体を押し退けようとするも、効果はまるでない。
 い異形の羽はいつのまにか隠れるように折り畳まれていた。シズちゃんはそれを無理やり押し広げ、根元に手を差し入れる。羽の生え際を力任せに揉みしだかれ、堪えきれずに声を上げる。羽をばたつかせて暴れると、シズちゃんはますます好き放題に根元をいじくった。
 イった直後にこの刺激は辛い。熱はあっという間に昂ぶっていく。
「──くあぁッ」
 がくんと首から力が抜けて頭がしな垂れる。
 ──最悪だ。
 ──こんなことでイかされるなんて。
 頬の内側を噛んで理性を保つ。ここで涙を見せたりなんてしたら、シズちゃんはますます調子に乗る。
 息が整うのも待たず、シズちゃんは俺の身体を撫で回した。股から腰、腰から胸へ──そうして、つう、と羽の端を触れるか触れないかの距離で羽の先を撫でられると、頭の芯がびりびり痺れた。奥歯を噛み締めて趣味の悪いいたずらに耐える。ぶるりと身震いすると、シズちゃんはおかしそうに声を上げた。
「随分よさそうだな」
 怒りで瞼の裏が焼けた。
 ──絶対あとで殺してやる。
 羽の内側をさわさわとくすぐられ、息が上がる。耐えかねて羽を閉じようものなら、無理やり根元に突っ込んだ手で押し開く。羽を丹念に弄り回す手つきは、愛玩動物に対するそれだった。
「しね、しねよマジで……!」
「手前がしね」
 シズちゃんに触れられた箇所が、火がついたようにに熱い。外気に晒された皮膚は肌寒いくらいなのに、首から上だけが茹っている。
 ──あつい……。
 喉の渇きは限界だった。
「ちょっ……!」
 背中から離れた手が前に回り、片脚を腹より上に持ちあげる。はっとし、我に返った。知らないうちにシズちゃんは前を寛げている。
 このまま最後までするつもりだ。
「手前だけ満足して終わりっつーのはねぇだろ」
「満足もなにも、俺は頼んでなんかいない……!」
「あー、そうかよ」
「まって、こんな体勢……まって、無理だって!」
 折り曲げて抱え上げた脚をぐ、と俺の胸に押しつけ、もう一方の腕で上半身を支える。片足立ちで、不安定な姿勢を強いられた。おまけに両腕は鎖で縛られ十字架に引っ掛けられているままで、まるで役に立たない。
 これからの苦痛を考えて、身体が強張る。
 いくらなんでも無茶だ。
 俺は浮かんだすべての言葉で止めようとしたが、シズちゃんは耳が聞こえていないみたいにまるっと俺の意見を無視した。
「くッ、ぁ……!」
 押し入ってきた熱はいつもと違う場所に当たって、慣れや経験は一気に吹っ飛んだ。後ろが引き攣れて痛い。
「いたッ……! 痛いシズちゃん、ぬいて……!」
「バカ、もっと力抜けって……!」
「痛いんだってばぁ!」
 シズちゃんも苦しいみたいで、堪えるような呻き声が降ってきた。なのにやめる気はないらしく、腰を抱え直して挿入を続けようとする。俺だって痛いのは嫌だから力を抜きたいが、この体勢ではどうにもならない。
 やっぱり十字架から降ろすよう、強く言おうか悩んだときだった。
「ひああぁっ!?」
 予告なしに羽と羽との間を摘まれ、背が反り返る。身体中が痙攣し、まぶたの裏がちかちかした。吊り上げられていなかったら膝から崩れ落ちていたに違いない。
「それ、やめろ、さわんな……!」
「なんで」
「なん、でも……!」
「こんなに締めてくんのに?」
 低く耳元で囁かれ、肌が粟立った。意地悪く問いかける声は掠れている。シズちゃんも無理してる証拠だ。
 腰を持ち上げられているせいか、いつもより挿入が深い。怖さすら感じる。
「あっ、やっ、はぁっ……」
 言いたいことは山ほどあったが、頭も口も麻痺したように働かず、意味のない声が鼻から抜けていく。シズちゃんの荒い呼吸の間にも艶っぽい声が混じってる。吐息が耳にかかる度、ぞくぞくしたものが込み上げて首を竦めた。
 耳元で喘ぐなって、いつも言ってるのに。普段ならどうにかして逃げるが、縛り吊るし上げられた体勢では、何もできない。
 ──やっぱり、ちょっと怖い。
 止まってもらえないかと、シズちゃんの名前を絶え絶えに呼ぶ。何度目か名前を口にしたとき、抱きしめるように引き寄せられ、安堵で息を吐いた。
「シズちゃ……」
 手心を加えられたと思って、気が一瞬緩んだ。シズちゃんはそれを見逃さなかった。
「あっ!? あっ、やああぁ!」
 目の前が光って、なにが起こったのかわからなかった。羽が意思に反して大きくばたつき、シズちゃんが荒っぽく抱きしめて押さえつける。
 肩甲骨の内側に鈍い痛みが走って、羽の根元を引っ掻かれたのだと知った。過ぎた快感に羽が限界まで張り詰める。声も出なかった。
「くっ……あ……!」
 シズちゃんが呻いて、奥がびしゃりと熱く濡れたのがわかった。余韻を味わうように数度腰を振り、俺の耳を甘噛みして離れていく。支えを失った脚は力なくだらんと垂れ下がり、手首に体重がかかって苦しい。
 恨めしい視線を向けると、シズちゃんはようやく俺の両手を十字架から下ろした。腰が抜けてしまったようで、その場に崩れ落ちそうになったのをぎりぎりのところでシズちゃんが腕を掴んで留めた。強制的に上げられていた腕にじわじわと血がおりていく。
 シズちゃんは俺を支えながらゆっくり床に胡座をかいた。解いてよ、の意図を込めて両腕を突き出すも、無視して胡座の上に向き合うようにして座らせられる。尻の下に硬いものを感じてギョッとした。出したばかりなのに、シズちゃんのそこはもう熱を取り戻してる。
「まっ……俺もう、結構、まじで限界……なんだけど」
「まだイけんだろ。おら、踏ん張りやがれ」
 ビシッ、と揶揄するように尻を叩かれて背筋が痺れた。めちゃくちゃに絡めた鎖もまだ解く気はないらしい。
 たいして重さはないのに、錨をつけられたように腕が重い。多分、鉄製だというのが関係しているんだろう。
 伝承だとかファンタジーだとかそういった話に詳しいかは別として、勘のいいシズちゃんのことだから、これが余計に俺の体力を奪っているのには気づいているはずだ。それでも外さないということは、シズちゃんはとことん、俺の身体を好きに扱うつもりらしい。
 限界は本当に間近だった。いつもより体力の消耗が激しい。
「ぅあっ! あッ、あぁ……っ」
 むんずと腰を掴まれ、わざとらしく時間をかけて下ろされる。俺が逃げようともがくのを見て、この獣は楽しんでいるのだ。
 熱いものが肉を割って入ってくる感覚に、崩れるようにしてシズちゃんの肩口になだれた。
 ──あ……。
 シズちゃんの肌がすぐ傍にきたせいで、甘い血肉の匂いが生々しく鼻腔に入り込んでくる。
 目の前の据え膳に手を出さない理由がない。俺は躊躇なく張りのいい筋肉に牙を突き立てた。
「いッ……?!」
 シズちゃんは痛みに呻いて俺を突き離そうとしたが、牙は簡単には抜けなかった。俺も離す気はハナからなかったから、さらに顎の力を込めてご馳走に食いつく。反動で中が締まって、シズちゃんが耐えるように眉を寄せた。
 口の中に広がるそれは、昼から感じていた干からびるような飢えをやっと潤した。
 一度口にするともう止まらなかった。自分の鼻から抜けていくみっともない声を遠くに聞きながら、必死で舌を使って血を舐めとる。
 一滴も逃したくない。頭の芯みたいなところがぼんやりして、目の前の男の身体以外のことを考えられない。
「い、臨也!」
 慌てふためくシズちゃんの声が心地よい。散々焦らされ虐め抜かれた分、吸い殺してやるつもりでじゅ、じゅ、と音を立てながら血を啜る。普段の食事では音を立てるような真似など決してしないが、なりふりかまっていられなかった。
 ──もっと、もっと欲しい。
 熱っぽい視線できめ細かい肌を見つめる。
 だがその望みは、常軌を逸した膂力によって断たれた。
「あっ……!」
「ノミ蟲が……ふざけやがって」
 牙が肉に食い込んだまま無理に引き剥がしたで、シズちゃんの首筋からはとぷとぷと血が滴り出ていた。
 その血が鎖骨を伝い、胸を伝い、鎧の下に着ていたシャツを染めながら落ちていく。赤い液体から目が逸らせない。
 ──もったいない。それなら、俺が。
 しかしシズちゃんの腕が邪魔をして、流れ落ちていく血液を唇を噛んで見ているだけしかできない。歯痒くて、口周りについていた血の残滓を舌で舐め取る。これだけじゃ全然足りない。まるで麻薬だ。
「くそ、シャツが汚れちまったじゃねぇか」
「ああ……シャツね……」
 聞こえてきた単語をおうむ返しする。シズちゃんの血が身体にしみ渡って、ぼうっとしていた。ちょうど、猫がまたたびを与えられたときの様子みたいな。
 上の空な俺の態度が気に入らなかったようで、シズちゃんは気色ばんだ顔で睨みつけてくる。目鼻立ちがくっきりしているぶん、間近で見るとその迫力はすごい。だがぼんやりした頭では、シズちゃんがまた怒ってるな、くらいにしか思えなかった。
「聞いてんのか」
「んあぁ!」
 がっしり掴まれた腰を揺すられ、あえかな声を上げた。聞いてるのかと言うくせに、がつがつ下から突いてくる。
「うご、かないでよ……! こんな、あっ……はなし、できない……!」
 懸命に訴えると、シズちゃんはゆるやかに動きを止めた。それでもさっきみたいに急に突き上げられるかもと思うと、緊張は解けない。
「ちゃんと、聞いてるよ……。弟くんからもらった……? それとも、それも狩沢さんのだったりするのかな? でも、今はどうだっていいじゃない」
「あ?」
「どうだっていいよ。それくらい俺が買い直してあげる。それより、ねぇ、シズちゃん、もう一回ちょうだい……まだ足りない、全然足りない」
「手前……」
 シズちゃんは困惑したような顔を浮かべている。鎖がついた腕でシズちゃんの首を引き寄せ、縋るように強請る。
「お願い。ねえシズちゃん、ねぇ……」
 言いながら、剥き出しの首に噛みつく。シズちゃんがノーと言ったところで噛みついていた。
 シズちゃんはびく、と身体を浮かせ俺を押しやろうとしたが、びっくりするくらい腕に力が入っていなかった。血を吸って俺がこんなになるぐらいだから、吸われたほうも影響があるのかもしれない。
 なんにせよ、いつもの馬鹿力が出ないのは好都合だ。
 ややこしい原理など深く考えず、首から湧き出る血を吸うことだけを考える。口に収まりきらなかったぶんは、舌を使って丁寧に舐め取った。やばいな、これ。止まらない。
「手前、まじ……」
 まぶたを半分浮かせて声がしたほうを一瞥する。シズちゃんの顔は真っ赤だった。
 俺の中に入ったままのペニスが硬くなって、脈打っている。どうやら血を吸われて興奮しているらしい。俺のことを変態呼ばわりするが、シズちゃんの性癖も大概だ。
「シズちゃんったら、興奮してんの? はは、やらしい……」
「手前が血ぃ吸ってから変なんだよ……!」
 恨めしげに見上げる視線は壮絶に色っぽく、俺まで煽られた。
 下から腰を激しく突き上げられ、涙が滲む。それでも噛みついた筋肉を離す気はなかった。
 俺は夢中で血を吸い、シズちゃんは憎々しげな顔で腰を振った。お互い何度果てたかわからない。シズちゃんが血の気の引いた顔で本気で止めるまで、俺は血を吸い続けた。




 コンクリートの床という悪条件の場所でめちゃくちゃにまぐわったせいで、身体のあちこちが悲鳴をあげている。
 疲れてはいたが、渇きも飢えも満たされて満足していた。最後はわけのわからないスイッチが入って、正直すごく良かった。
 一方シズちゃんは珍しく疲れ切った様子で、汗で濡れた顔を歪め、情けなく肩で息をしている。だらしなく開いた唇の隙間から、整った歯列が覗いていた。がっつきすぎたせいで唇がぷっくり腫れている。
 俺の機嫌はすこぶるよかった。ぐったりしているシズちゃんなんて、そうそう拝めるものじゃない。
 終わってから思えば、あれだけ血を吸われながら俺を抱えて動いていたんだから、たいしたものである。
「もうこれ、解いてよ」
 枷のついた両手を前に突き出す。シズちゃんは気怠げな動きで鎖を掴み、折り紙の輪飾りでも相手にしているようにいとも容易く引きちぎった。
 あれだけ血を吸われていて、よくもまあこんな力が出せるものだ。
 だいぶ暴れたせいで、縛られていた手首はかなり鬱血している。なかなかグロテスクな有様に、なんとも言えない気持ちになった。これはしばらく跡になって消えなさそうだ。
 こんな場所、どうやって隠せっていうんだよ、とうんざり思う。
 視線を自分の身体に向けると、手首以外にも惨たらしい跡が無数に散らばっている。脱ぎ捨てた服の上でヤッたとはいえ、布一枚隔てたその下は硬いコンクリートの床だ。知らぬ間に擦っていたようで、腕も脚もあちこちに擦過傷ができている。
 それに比べて、シズちゃんの肌は不自然なほどに傷がない。俺が噛みついていた肩の穴も、もう塞がりかけている。悪いのは顔色くらいだ。
「あー……うぜえ。くらくらする」
「シズちゃんでも血が足りなくなったらそうなるんだねぇ。そうか、失血死なんて手もありかもね。普段はナイフすら刺さんないから考えもつかなかったけど。あれ、そういえばなんで牙は刺さったんだろう」
「知るか。あーくそ、レバー摂りゃいいんだっけか……」
 ぼそぼそと独りごちながら、床に敷いていたマントをタオル代わりに身体を拭いていく。シズちゃんはそのまま俺の身体を拭こうとしたが、嫌味を織り交ぜ辞退した。こういうところのデリカシーのなさは直したほうがいい。
 引っ張り寄せたスキニーのポケットからハンカチを取り出して、最低限の汚れを落とす。手首の重しからは解放されたのに、驚くほど腕が重い。床に敷いていた服を着なくちゃならないのも、すぐにシャワーを浴びられない環境にも辟易した。
「運んで。足腰が立たない」
 自分でも不気味に思うくらいテンションは高いが、身体がついてこない。抱っこをせがむ子どものように両腕を広げ、催促する。
「ここからなら俺の家のほうが近い。すぐそこに部屋を借りてるんだ。シズちゃんに場所が割れるのはこの際目をつむるよ」
「その羽で飛んで帰りゃいいだろ」
 あまりに突飛な発言に眩暈がした。嫌味や冗談で言ってるというよりは、半ば以上本気の回答だ。
「馬鹿なこと言うなよ。俺は人間だ。乗り物も使わないで空なんて飛べない」
「人間に羽なんて生えてねぇだろ」
「嫌な言い方をするね。一時的なものだ、風邪と同じだよ。新羅の言葉が本当なら、明日には全部もと通りだ」
 シズちゃんはそれでも引き下がらなかった。肩越しに熱い視線を羽へ送っている。
「人間なら、一度くらいは空を飛んでみてぇって思うもんなんじゃねえの」
「えっ……。なにシズちゃん、きみ、空飛びたいの?」
「ああ。だから乗せろ」
 気力を振り絞ってどうにか上体を起こす。
 実のところ、ハイになったテンション任せに喋っているだけで、このままふっと気絶してしまいそうなくらい疲れていた。余分な体力など微塵も残っていなかったが、ここできちんと説得しておかないとのちのち後悔するのは俺だ。
「あのさシズちゃん、俺の話聞いてた? 足腰立たないんだよ。こんな状態で、そもそも背中に生えてるこれが羽としてきちんと機能するかもわからないっていうのに、シズちゃんを抱えて飛ぶなんて自殺行為だ。無謀にもほどがある。墜落でもしたらどうするの? 落ちた先にひとがいたら? シズちゃんは無事でも、ぶつかった人間は無事じゃ済まないだろうね。しかも今日はハロウィンで、街にいる人間はいつもよりずっと多い。あっちもこっちもごった返しだ」
 俺も大怪我をする、という言葉は口にしなかった。俺が怪我しようがシズちゃんは構わないし、むしろ飛び跳ねられなくなっていい、と考えるのはわかりきっていた。
 シズちゃんを言い包めるには、無関係の人間を引き合いに出すのが効果的だ。もっとも、使い所を間違えると諸刃の剣だが。
 今回は効果覿面だった。見込み通り、正論を説かれたシズちゃんは渋い顔をして空中飛行を諦めた。詮方なくコートを風呂敷のようにして鎧をひとまとめにして、羽を畳んだ俺を脇に抱えてビルの階段を一段一段降りていく。
 歩くたびに振動があちこちにできた傷に響いて痛かったが、それくらいは我慢した。
 部屋に着くや否や、何をさておき有無を言わせずバスルームに直行させた。こんな格好で部屋に上がりたくなどない。
 シャワーを浴び終えたシズちゃんは湯に当てられたせいで一層ふらふらして、見ていて面白いくらいだった。俺も髪も乾かさないまま最低限の衣類を身に纏って、ふたりして死んだようにベッドで眠りについた。



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