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 喧嘩以外の目的ではじめて静雄が臨也の家を訪ねて来てからみるみるうちにその頻度は跳ね上がり、先日「錯覚からさめるまでそばにいてやってもいい」と言い放ってからというもの、静雄は毎日のように臨也の事務所を訪れるようになっていた。臨也を抱きもせず、真珠も求めず。これでは本当に、まるでただの恋人のようだと辟易する。
 くうくうといびきをかいて眠る無防備な静雄に、驚くほどなにも感じない自分がいた。あのエメラルドが割られた瞬間、恋情どころか、長い年月をかけて凝り固まった憎しみも消えてしまったらしい。あれほど執着していたのが嘘のようだ。
 静雄が事務所に顔を出して以来、どうしてここにやって来たのか延々と考えているのだが、答えは一向に見つからない。身の回りの世話をする人間がいないことに不便さを感じたのか。はたまた、金と女の貢物に困ったのか。それとも臨也のことをかわいそうに思ってしまったか。大方これらのどれかだろうが。
 本格的に事務所に通いはじめて数日後、なにを思ったのか静雄は臨也の身の回りの世話を買ってでた。これでひとつ目の線は消えた。
 正直なところ家事などこれまで通り波江に任せていれば問題ないのだが、静雄は譲ろうとしなかった。このようなことをしたからといって、もう真珠は出ないというのに。馬鹿だなあと思う。
 いまはこうしておとなしくしているが、いつ態度を豹変させるか知れない。臨也は常に気を張っていた。

 臨也の家に静雄が来訪するのを認める、という意味で交流を了承したのだが、近頃になって静雄は臨也に自分のアパートへ来るようにと言い出した。それは了承の範囲外だと、はじめこそは突っぱねていたが、あんまりしつこいのでついに臨也が折れ、五回に一度ほどは顔を出してやっている。
 つい先日まではあんなに静雄から招かれるのを期待していたというのに、いまとなってはそれもどうでもいい事柄になってしまっていた。それどころか、はやくこの空間から抜け出したいという気持ちが勝っている有様だ。
 臨也があれやこれやと持ち込んだものをすべて処分してしまったから、静雄の部屋はひどく殺風景なものへと逆戻りしていた。ものがすくないせいで、何度も手酷く抱かれたベッドがやけに強調されて見えてしまう。寝室とダイニングすら分かれていない安賃貸アパートでは、仕方のないことだとわかってはいたが割り切れなかった。
 以前そうしていたようにベッドに腰掛けることを静雄は勧めてくるが、臨也はいつも部屋の隅に薄っぺらい座布団を移動させて壁に寄りかかっていた。ここに来たからといって、臨也の事務所にいるときとすることは変わらない。なにもせず、ただ空間を共有するだけだ。
 ひとつ違いをあげるとしたら、静雄がやたらと昼寝をしたがることくらいだ。ここまで睡眠に対して貪欲であっただろうかと記憶と照らし合わすも、そのような事実はやはり見当たらない。
 正直に「そのベッドでは寝たくない」と言えば「シーツは新しくしたからいいだろ」と返され、渋々ベッドに横たわる。デリカシーという単語の意味を一から教えるのと、どちらがマシか考えた結果だった。
 昼寝と言っても、背中で静雄の寝息を感じながらひたすらに時計の針が進むのを待つだけの、臨也にとってはなにも生み出さない無益な時間である。静雄の匂いが染み込んでいる以前と同じままの布団は、嫌でも臨也の記憶を蒸し返した。


 転機は予告なく訪れた。あいかわらずふたりの間に会話は限られていて、臨也がカタカタとキーボードを鳴らす音だけが事務所に響いている。
 そろそろこの生活に飽きて、堪忍袋の緒が切れる頃だろうか。辛抱強く耐えているが、なんの利益もない日々は静雄の忍耐力を地道に削っているはずである。
 何度も思考をめぐらせたが、やはり真珠のでないいまの自分と一緒にいるメリットはないはずだ。臨也の心身も着実に限界に近づいていた。
「……あ!」
 うしろで唐突に声をあげられ、つい振り返ってしまう。言いそびれていたと、ソファに腰掛けたまま静雄は仕事用のバッグをごそごそと漁りなにかを取り出した。
 差し出された手に握られていたのは、金平糖がはいったガラスの小瓶。これが最後と決めたあの日に、臨也が静雄の家へ残していったものだとすぐにわかった。だが置いて行ったときより明らかに量が減っている。
「これ、手前のだろ」
「見覚えがないな。シズちゃんが自分で買ったんじゃないの?」
 適当にはぐらかしたが、静雄の目は確信に満ちていた。いまとなっては特に意味のあるものではないのだから正直に話してもよかったのだが、なんとなくよくないものを感じてもう一度「知らないよ」としらばっくれる。認めるにせよそうでないにせよ、静雄はすでに決めつけているのだから大差はない。
「これ、普通の金平糖じゃねえだろ」
「さあ? 見た目はただの金平糖にしか見えないけど。それがどうかしたの?」
「食べたら、手前の感情みてえなものが流れ込んできた」
「は……?」
 なにを言っているのか理解するまでに数秒時間を要したが、ようやく合点がいった。これで静雄がこのようなまだるい行動をとっていたことに説明がつく。
 静雄が話したようなことが実際にあるのかどうか判断はつかないが、そもそも臨也の身体から真珠やら金平糖やらがでてくること自体が異常なのだ。ひとがそれを口にすればどのような効果が出るかなど、わかったものではない。
「シズちゃん、君は俺のことが好きだと錯覚している」
「ああ?」
 低い声を合図に、静雄の眉間に深いしわが刻まれる。しかし臨也はその程度で怯むようなかわいい性格でもないから、かまわず続けた。
「つまり、それを食べてから俺のことが気になりだしたんだろ? ならそうに決まってる。ようやく納得したよ、シズちゃんがどうしてこんなふざけたことを続けているのか。その金平糖にどういう効果があるのか知らないけど、すぐに捨てたほうがいい。そうすればじきにもとのシズちゃんに戻るはずだ」
「ああ!? なんでそうなんだよ!」
「なんで? そんなのわかりきってるだろ。シズちゃんが俺を好きになるなんて、ありえないからだ」
 よく通る声ではっきりと言い切る。そうだ、そのようなことはありえない。静雄の眉がどんどんいびつに曲げられていく。
「ここ一年で君を取り巻く環境も、シズちゃん自身も大きく変わった。いい意味でも悪い意味でもね。現に君は俺のことを忘れようと努めていたし、あの日呼び止められるまで、俺のことなんて忘れかけていただろ? それまでシズちゃんは俺に憎しみをぶつけることで孤独を紛らわそうとしていた節があったけど、いまはもう君のまわりには慕ってくれる人間がいくらでもいる。ないんだよ、どうあってもさ。シズちゃんが俺を好きになる可能性なんて、どこにもない」
 臨也はさっさと自己完結し、静雄に反論の隙を与えなかった。こうしてテンポよく話したてしまえば、静雄が口を挟む隙などない。
 これまでは口下手な静雄の言葉をのんびりと待っていたから会話が成り立っていたわけで、滔々と言葉を並び立ててしまえば静雄はただ黙り込むのみだ。
 言いたいことがあるけど、うまく言葉にできない。言葉にするのを待とうとしてくれない。親に裏切られた子どものような表情で、臨也を見下ろしている。
「くそ、迂闊だったな……やっぱりそれも処分しておくべきだった。恐らく口にした直後からすこしの間だけの一過性の症状で、時間が経てば治ると思うんだけど……新羅に診せてみるか? いや、ことが事だ。どうせ同じ見解だろうな」
 もはや金平糖の持ち主が臨也であったなど、些細なことであった。問題はそれを静雄が口にしてしまい、なんらかの影響を受けたという事実だ。
「だから、一過性とか、症状とかじゃねえって言ってるだろ。ひとの感情を病気扱いするんじゃねえ」
「じゃあシズちゃんは証明できるっていうの? それが本当に君の感情だってさ」
 静雄は戸惑うように視線をゆらゆらさせる。静雄が理論立てて根拠の説明をするなどできるわけがない。火を見るよりも明らかだ。悩みに悩んでやっと選んだ答えは、やはり臨也を納得させるものではなかった。
「……手前がいなくなってから、ずっとイライラしてた」
「俺というストレス解消法がひとつ減ったんだ。その影響だろうね」
「それだけじゃねえ。手前の臭いがしねえとろくに眠れない」
「……は?」
 変態くさいセリフに耳を疑う。なにを言ってるんだ、こいつ。
 しかし言われて記憶をたどると、確かに思い当たる節があった。臨也が寝不足に陥っていくのに比例するように、憎たらしくも静雄の隈は薄くなっていたし、やたらと静雄のベッドで昼寝を勧められたのもそういう理由だったのだとしたら腑に落ちる。
「臨也、やっぱり手前おかしいぞ」
「なにが」
 突然変わった話題についていけず、率直に疑問を投げ返す。その言い方があんまり神妙だったので、一層ムッとした。おかしいなどと言われて気分のいい人間などいない。
「秘書の姉ちゃんに聞いた。ここんところ、ろくに外にも出てねえって。人間がどうだって騒ぐの聞かなくなったって言ってた」
「飽きたんだよ。それだけ」
 波江め、余計なことを言ってくれたな。ここにいない秘書へ心の中で毒づく。
 気取られぬようしれっと返したが、単細胞のくせに妙に鋭いところのあるこの男はそれで納得しなかった。
「嘘だな」
「なんでそんなつまらない嘘をつかなきゃいけないのさ。今日のシズちゃん、しつこい、鬱陶しい。らしくもないね」
「俺が原因か」
 静雄の目は確信を孕んでいた。つくづく勘がいい。どうやらごまかし続けても、いたずらに時間を浪費するだけのようだ。臨也は静雄の視線を正面から受け止めながら、意味ありげな微笑を浮かべてゆっくりと口を開いた。
「ーーそうだよ。君が壊したんだ」
「壊した?」
「そうさ。シズちゃんが、その手でパリンとね。随分あっけなかったよ。おそらくあれが原因だろうね」
 まわりくどい言い方に、静雄は真意を図り損ねているようだった。比喩表現だとでも思っているのだろう。すぐにはわからないように切り出したのだから、当然の反応だ。静雄の戸惑いを楽しんでから、臨也は今度こそ明確な説明を加えた。
「あの日、緑の宝石を割っただろう? おそらく、あれが俺の愛の結晶だったんだよ。面白いくらいに簡単に割れた。パリーン、てね」
「もとに……戻らねえのか」
「さあ。もともと存在自体が不可思議なものだったしね。とっておいてはいるけど、もうもとの形もわからないくらい粉々だ。認めたくないけど、所詮は俺の愛もその程度だったってことかな。でもね、もういいんだよ」
 怪訝そうにこちらを見つめる目に、心配の色が混ざっていることに気づかないわけではなかった。ふっと目元を緩め、軽く息を吐きだす。
「解放された気分だ」
 その言葉を聞き、なぜだか静雄は傷ついたような表情をして床に顔を向けた。そのような反応が返ってくるとは思っていなかったので、こちらのほうが少々面食らってしまう。静雄は考えるように数秒その体勢で一点を見つめていたが、ゴムがもとに戻るようにいきなりガバッと顔をあげた。
「新羅のとこに行くぞ」
「えっ……新羅? なんでいまさら。だいたい、そういう話の流れじゃなかっただろ」
「セルティならなんかわかるかもしれないだろ、その宝石のこと。それに手前、やっぱりなんか変だ。新羅にちゃんと診てもらえ」
「いやだ」
 間髪いれずに即答する。あまりのはやさに静雄のまぶたがひょいと押し上げられた。
「からかわれるのが目に見えてる。そもそも、俺たちの仲を一体どう説明する? あの得体の知れない真珠や、このエメラルドがどこから出てきたのか話さなきゃいけないだろう。そんなの」
 一旦言葉を切り、自嘲気味に笑う。静雄に呼ばれた響きが、いまだに耳の奥に残っている。
「自分から化け物だって、名乗るようなものじゃないか」
「臨也、」
「行かないよ。絶対に行かない。それにさっきから言ってるだろ、割れたままで構わないって。困ることなんてないんだから」
 しばらくのあいだ押し問答が続いたが、外から聞こえてきた馬の嘶きによって半強制的に中断される。そういえば、なにやらこそこそと携帯をいじっていた。どうあっても行かないと頑なな臨也に打つ手がなくなって、新羅たちから出向いてもらうことにしたのだろう。
 臨也はつと眉を顰めて、静雄を厳しく睨めつけた。睨みつけられた当の本人は、勝ったとでも言いたげににやりと口端をあげる。
 ピンポンと、無機質な音が部屋に鳴り響き、おおきく舌打ちした。あのふたりを外に置いておくのは目立ちすぎる。
「やあ、臨也! いやあ、ひさしぶりだね。半年前に会ったきりじゃないかい? 静雄くんからメールをもらって驚いたよ、いきなり『臨也の家に来い』だなんて言うんだから。僕が光のはやさでで『嫌だ』って返したら、今度はセルティにまでメールを送ってくるんだから、やり口が汚いよね。それにしても、本当に静雄くんが君のテリトリーで大人しくしているなんて! 驚天動地、喫驚仰天! 天地変動の前触れかな?」
 臨也は無言のまま新羅とセルティを部屋に招き入れる。この時点でセルティは臨也の醸し出す絶対零度の空気に凍りついていた。新羅は臨也が不機嫌なのをわかっている上で、あえてこの態度を選んでいるのだろう。あいかわらずいい性格をしている。
 ふたりは勧めるまでもなく、自らテーブルの前のソファに腰をかける。自然な流れで、静雄はテーブルを挟んだ反対側のソファに腰をおろした。なんとなくわかってはいたが、この配置でいくと静雄の隣に座ることとなる。さも当たり前のように開けられたスペースに嫌気がさす。
 みんなを残してキッチンへと足を運ぼうとするのに気づいた静雄が腰をあげかけたが、すぐさま顎で制した。静雄にまともな紅茶が淹れられるとは思えないし、なにより勝手知ったるというところを新羅に見られるのはたいへん不本意だ。手慣れた手際で紅茶を用意し、それぞれの前にわざとらしく音を立てて置いていく。
『……いやがらせか?』
「善意を湾曲して解釈しないでほしいなあ。マナー、礼儀だよ。俺が呼んだわけじゃないけど、一応は客人だからね。隣の浮かれた変態にでも飲ませておけばいい」
「失礼な、誰が浮かれてるって? 」
「お前以外に、誰が首なしの隣にいるんだよ」
「僕しかいないね! でも、浮かれているのは臨也、君のほうじゃないかい?」
「……なんだと?」
 険悪な雰囲気にセルティがおどおどとPADに指を滑らせる。読まずとも書いていることはなんとなく想像がついたので、臨也はおとなしく席に着いてミルクを紅茶に注ぐ。
 いざ四人、テーブルを囲んでも部屋に響くのは紅茶を啜る音だけだ。臨也がむっつりと沈黙を決め込んでいるから、喋り出そうとするものは誰もいない。もしセルティに口がついていれば場を和ませようとフォローのひとつやふたつ、入れただろうがあいにく彼女は首なしである。
 新羅から話し始めてくれることを静雄は期待しているらしいが、新羅はただにこにこと胡散臭い笑みを浮かべるだけだ。さらに無言のまま数十秒が経過し、痺れを切らした静雄がたどたどしく説明しだすが、臨也がストップの意を兼ねて手で遮る。
「悪いけど、俺と新羅は席を外すよ」
「ああ!?」
「ええっ、なんで僕まで?」
 わかっているだろ、と目だけですばやく新羅を黙らせる。
「化け物の前でまともに話なんてできるわけがないだろ」
 いまは俺も化け物に仲間入りしちゃったんだけどね、と胸の内でつけ足す。主に静雄に対しての意味で使ったが、半分は新羅への当て付けだ。 
 嫌味を正確に理解したようで、ピリ、と新羅の空気に尖ったものが混じる。セルティが宥めるように新羅の太ももに手を乗せた。わたしは気にしていないから、とかそんなところだろう。まったく、見せつけてくれる。
「ああ、シズちゃん。余計なことは一切、口にしないでね。君はいつも通りセルティと雑談していてくれればそれでいい」
 念を押して、でれでれしている新羅の腕を取り別室へと連れていく。耳を澄ましても声が聞こえることのないように、二階の一番奥の部屋へ新羅を押し込んだ。
「やっぱりあの時の真珠、ただの真珠じゃなかったようだね」
 開口一番、新羅はそう口にした。勘のいいやつだ、呼ばれた要件をとっくに察しているらしい。どこから切り出そうか迷っていたが、その必要はなくなった。
「覚えてたのか」
「当たり前だろ? 様子がいつもと違ったからね。で、単刀直入に訊くけど、君たち付き合ってるの?」
「お前って……本当に直球だよな。どこかの誰かさんとおなじでデリカシーの欠片もない」
「ええ……そういう面で静雄と一緒にされるのはちょっと……。それで、否定しないんだ?」
「……好きに解釈すればいい」
 へえ、というふうに顔を驚かせただけで、用心していたような冷やかしの言葉を口にすることはなかった。気遣われているようで余計に腹がたつ。
「で、なんで静雄は僕たちを呼んだんだい?」
「俺が訊きたいくらいだよ。簡潔に説明すると、シズちゃんに金輪際、関わらないでくれって言ったのさ。そしたら『手前、なんか変だ』の一点張りでね。俺としては通常モードに戻っただけなんだけど」
「ふうん……? 静雄のことがどうでもよくなったってこと? あんなに執着してたのに、どうしてまた」
「それどころか、あれだけ愛してやまなかった人間への興味も薄れる始末だ」
「人間?」
「割られたんだよ。愛の結晶、とでも言えばいいかな」
 エメラルドの欠片の入ったポケットをズボンのうえからぽんぽんと叩く。好奇心に輝いた目が見せろとうるさい。嫌そうなのを隠そうともせずやれやれと首を振り、巾着袋を取り出す。
 手渡される瞬間まで、新羅は待ちきれないという顔をしていた。手に乗せてやるとすぐさま巾着の口を開け、指先でかけらのひとつを摘みあげる。
「へえ! なかなか立派じゃないか。知ってるかい? エメラルドっていうのはインクルージョン、包括物が多くなりがちな宝石でね。綺麗な緑色を出すために必要なクロムという成分が、結晶に入るときに無理をさせるためらしいんだけど。だからといってそのクロムがなければ綺麗な色はでない。非常に繊細な宝石なんだ。いやあ、それにしてもここまで深い色のエメラルドは珍しいよ。で、これが愛の結晶だって? どこからどう見てもただのエメラルドなんだけど」
「原産地が俺でなければね」
 新羅はたちまちキョトンとした顔になったが、すぐにその意味を理解したようで、得心したように数回頷いた。
「ああ……なるほど。だから愛の結晶だなんてくさい言い回しをしたわけか。ならあの真珠も原産地きみっていうことかい? まったく、奇々怪々な話だ」
「驚かないんだな。もうすこしやかましいリアクションを想像していたよ。ま、でももう出なくなっちゃったみたいなんだけどね」
「なんだ、それは残念。いまさら君に羽が生えようが尻尾が生えようが驚くに値しないよ。日頃の行いだろうからね。あ、でも採血のお願いくらいはするかもしれないけど」
 いかにも新羅らしい返答に首をすくめる。すこし、救われた気持ちになったなど決して口にはしない。
 いきなり伸ばされた手が臨也の髪に触れて、するりと頭を撫でていく。どうやら糸くずでもついていたようで、新羅は自身の指先にふっと息を吹きかけて、髪についていたなにかを宙へ飛ばす。吹き飛ばしたものがどこかへ舞っていくのを見届けてから、新羅はことなげに話しを戻した。
「で、これが割れてから君の感情に変化があったと」
「断定はしてないけど。長年築きあげてきたアイデンティティが崩れかけてるんだ。考えられるとしたらこれくらいだろ」
 新羅は張りつけていた笑顔を閉じて腕を組み、ううんと考え込むような素振りを見せる。なにかおかしなことでも言っただろうか。
「それって本当にそのせいかな」
「……なんだって?」
「人を愛する心っていうのは誰しも生まれながらに持ち合わせているわけで、そう簡単に消えるものではないよ。それは臨也、きみが一番よくわかってるだろ。静雄との間になにがあったか知らないけど、もう嫌な思いをしなくて済むように心が自己防衛をはたらかせて、辻褄合わせのためにほかの人間たちへの興味もなくなった、とも考えられないかい? つまり君の愛はきっとここの奥底に隠れてしまったわけだよ」
 ここ、とトントン臨也の胸をノックするように小突く。興味深い解釈ではあるが、腑に落ちない点も多々ある。臨也は黙って新羅が続けるのを待ったが、新羅は自分のなかでの答えを決定したようで、それ以上説明が掘り下げられることはなかった。
「まあ、もし本当に真珠が出なくなったのならいいんだけど、気づかずに押し込めてる状況だとまずいかもしれないね」
「まずいって?」
「知っての通り、ヒトは不足しているものを補い、過剰になったものを排泄することで体内のバランスを保って身体を維持しているわけだ。そのバランスが崩れてしまったらどうなるか、わからないわけではないだろう?」
「へえ、新羅は俺を殺したいわけだ」
「そんなわけないだろ」
 軽口を強い調子で諌められ、口をつぐむ。「そんなわけがない」ともう一度繰り返されて、冗談だと態度で表すが新羅の追撃の手がゆるむことはなかった。
「ここ最近、なにか変わったことは?」
「なにも」
「あるんだね。正直に話してよ。ぱっと見だと栄養も睡眠も不足してそうだけど」
 こういうときの新羅はいやに目ざとい。正規でないとはいえ、さすが医者を名乗るだけのことはある。
「……身体がだるくて、ふらふらする。喉の奥も詰まった感じがして息苦しい。まあ、お前の言う通り寝不足と栄養不足だろ」
「ちょっと診せて」
 言うなり新羅はぐいと身を乗り出し、遠慮なく臨也の下まぶたを引っ張って血の状態を確認する。続いて舌を出すようにいわれ、べっ、とこれでもかというくらい思いきり突き出してやった。
「いつから眠れてないの? 食欲は?」
 黙って首を横に振る。それだけで新羅は状況を把握したようで、呆れたように両手を八の字に広げた。
「ここ最近になって酷くなったっていうなら、やっぱりその突然変異した体質が原因だと思うけど。放っておいたらどういうふうにかはわからないけど、悪化しかねない」
「新羅の仮定が正しければそうかもね」
「そうかもねって……君のことだろ」
 説教じみてきた新羅の言葉を適当に聞き流す。こうなった新羅が面倒なのは中学のときから変わらない。話をはやく終わらせたがっていることは察しているはずだが、新羅はまだ続けた。
「とにかく、出せるならとっとと出しちゃいなよ。出し切るだけ出し切ったらその体調不良も治るかもしれないだろ。運がよければその不可思議な体質ももとに戻るかもしれないし」
「べつに出したくて出してるわけでもないし、溜めたくて溜めてるわけでもないんだけどね」
 一息で言い切り、ふう、と肩の力を抜いて天井を仰ぎ見る。つい口調に責めるようなものが混じってしまう。ただの八つ当たりであることはわかっている。新羅も臨也に余裕がないのをわかっているからか、それ以上言葉を返してくることはない。普段からこうして空気を読んでくれると助かるのだが。
 結局臨也の予想した通り、新羅でもこの不思議な現象をはっきりと断定することはできなかった。増えたのはあやふやな仮定ばかりだ。新羅に静雄との奇妙な関係と特異体質について知られただけで、収穫はむしろマイナスである。
「ねえ、折角だからセルティにも見てもらおうよ。なにかわかることがあるかもしれないよ」
 好きにすれば、と身振りだけで示す。どうせなにもわかるまい。あの首なしのことだ、なにか異変を感じたなら部屋に入ってすぐに指摘していただろう。
 部屋を出るときに再三「いま話したことは誰にも口外するな」ときつく言いつけたが、新羅はかくかくと頷くだけで本当にわかっているのかしれない。「もし余計なことを口にすれば、セルティに膨大な仕事を送りつけてやるからな」と付け加えれば、新羅は短く悲鳴をあげ、破竹の勢いで不満を並び立てる。ここまで釘をさせばさすがに軽はずみなことはしないだろうと踏んで、ふたりの待つリビングへと戻る。
 階段を降りるなり、すぐさま静雄がソファから立ち上がりこちらへ駆け寄ってきた。新羅の陰に隠れるようにして伸ばされた手を拒めば、静雄はむき出しの敵対心を新羅に向ける。慌てふためく新羅を放って、ソファに座ったままのセルティの隣に腰かけた。
『いいのか? あのふたり、あのままにしておいて』
「いいんだよ。それより、俺たちが戻ってくるまでなに話してた?」
『なにって……お前たちが出ていったあと、静雄は難しい顔をしてむっつり黙り込んでしまったからな。お前たちもそんなに時間かからずに戻ってきたし、ほとんどなにも話してないよ』
「ふうん?」
 探るような目つきで観察すると、嫌そうに黒い煙を揺らす。どうやら嘘はついていないようだ。
 目を横に滑らせ、静雄が犬のように逆毛を立てていまだに新羅を睨みつけているのを確認する。注意が逸れているうちにと、胡散臭い笑みを絶やさぬまま、先ほど新羅にも見せたエメラルドのかけらをポケットから取り出し、セルティの手のひらへ乗せた。
『なんだ? 宝石か?』
「うん、そう。もういいや、ありがと」
『なんなんだ、一体』
「きれいだろって、見せびらかしたかっただけだよ。それより、あれほっといていいの? 面倒だからとっとと回収していってよ」
 静雄に両肩を掴まれ、いまに泡でも吹き出しそうな勢いでがくがくと揺さぶられる新羅を指差す。おそらくなにを二階で話していたか聞き出そうとしているのだろう。
 セルティの影が驚いたようにボンッと破裂し、焦ってふたりの間に割って入った。ここにいればさらに面倒なことになると判断したようで、新羅はセルティの登場に乗じてとっとと退散する。もちろん、役得とばかりにセルティの腕を引いて。
 嵐が過ぎ去ったようにしんと静まり返った部屋を見渡して、問題の種が去ってくれたことを心から安堵した。嵐を呼んだ静雄はというと、新羅との会話の内容を聞きたいようで、そわそわと落ち着きなくこちらに何度も視線を送っている。
 気づかないふりをして、臨也はひとりぶんのコーヒーを淹れてソファで一息つく。覗いたカップの中の黒い液体がぐわんと揺れたのが妙に不吉に感じて、胸騒ぎに駆られた。そしてすぐにその正体は形となって、臨也を苛むこととなる。


 翌朝、目をさますと再び例の真珠がシーツに散らばっていた。臨也の予感は見事的中したのだ。
 やはり、新羅に会うべきではなかった。あのくだらない仮説に触発されたのだろう。
 奥歯をきつく噛み締め、ベッドマットを力まかせに殴りつける。真珠が音を立てて弾け飛んだ。床に落ちた真珠がカラカラと音を立てて四方に転がっていく。
 ーー隠さなければ。
 いつもより始業時間がはやいからと、静雄が泊まっていかなかったことが不幸中の幸いであった。ぬるま湯に浸っていたこの関係も今日で終わりだ。
 また真珠を産める身体になったと知れたら、静雄は再び態度を豹変させるだろう。エメラルドの割れる音が、まだ耳奥で残っている。あんな思いは、もう二度としたくない。
 臨也はケータイのメール機能を立ち上げて『今日の夜、うちに来て』という短い文を静雄宛に送信した。

 静雄から『いま仕事が終わった。すぐ行く』という内容の報告メールが届いたのは、つい今しがたのことだ。すぐに来ると言っているとはいえ、はやくても静雄がここへ着くのに三十分はかかるだろう。
 わざわざ静雄を待つ理由もないから、波江に用意させた温かな夕食をひとり黙々と食べ進める。
 ポテトサラダ、グリンピースのポタージュスープ、オムライス。「お子様向けメニューでよろしく。二人前ね。それ作ったら帰っていいから」という指示を、波江はきっちり実行した。
 指示した直後はいやいや重たげな腰をあげ「わたしはあなたの小間使いではないのだけど」と、不満そうに顔をしかめていたが、彼女の弟が体調不良で急遽早退したそうだと伝えれば波江は軽快に包丁を振るった。脱帽ものの変わり身のはやさである。
 皿の上の食事がほとんど胃袋に消えていったころ、予想より五分ほどはやく静雄は事務所に到着した。玄関をくぐってすぐに持ち前の嗅覚で夕食が用意されていることに気づいたようで、ぱあっと顔が明るくなる。秘書が用意したものだと前置きをしたが、それでも静雄は自分のぶんの食事があることを喜んだ。
 そのまま食事の並べられている向かいの席に座ろうとするのを、手くらい洗いなよと一喝し台所に向かわせる。ようやく席について静雄が食事をはじめすこししたところで、臨也は本題を切り出した。
「今日はね、話があって呼んだんだ」
「話?」
 静雄はよもや自分にとって都合の悪い話が口にされるとは思っていないようで、ポカンとあどけない顔をしてみせる。臨也は夕食の感想でも訊くようになんともないふうで、笑顔のまま告げた。
「今日でおしまいだよ、シズちゃん」
「……あ?」
 オムライスを頬張ろうと大きく開けた口から間抜けな声がもれる。そのまま数秒間、静雄の口は塞がらなかった。理解できていない静雄のためにもう一度繰り返す。
「今日でこの関係もおわり。それを食べ終えてここから君が去ったら、俺たちは赤の他人に戻るんだ」
「なに言ってんだ、手前」
「理解が悪いな、だから……」
「なにがあった」
 静雄は臨也の言葉に割り込んで、真剣な目つきで問いただす。あまりにも真面目な顔をするものだから、ごくりと唾を飲んでたじろぎを押し殺した。
 この場にいては分が悪い。ストレートな視線を正面から受け止め続けるのは難しく、もう少しで食べ終えるところだった食器を持って席を立つ。
ところが横から伸びてきた手にぐいと腕を引かれ、思わず手元が狂ってしまった。
「あッ」
「あち……!」
 静雄は素早く臨也から手を離したが間に合わず、みるるうちに腕とシャツへ緑のシミが広がっていってしまう。木でつくられたカップがフローリングと軽快な音を鳴らす。ひらひらと手を冷ますように振る静雄を見て、臨也はハッと我に返った。
「まって、いま冷やすもの持ってくるから」
「や、大丈夫だってこんくらい。そんな慌てることねえだろ。俺が引っぱって落としたんだしよ。俺が頑丈なのは手前がよく知ってんだろ」
「……ちょっと驚いただけだ。うえ、脱いだほうがいい。貸して、しみになっちゃう」
 静雄は言われた通り、おとなしくワイシャツを脱いで渡した。ちらりとポタージュスープのかかった腕に目を向ける。ほんのり赤くなっている程度で、気にする程度でもない。気づかれないように細く息を吐き出す。緑に染まったシャツをぬるま湯で濯いで、洗濯機に突っ込む。
 まさか上半身裸のまま食事を続けさせるわけにもいかず、寝巻きにつかっているぶかぶかのパーカーを代わりに差し出した。スラックスとのバランスは間抜けもいいところだが、ワイシャツではサイズの違いがもろに出てしまう。
 洗濯を終え、乾燥機をかけ終えるまで一時間とすこし。どうせすぐ帰すんだ。それくらいの時間は我慢してもらおうじゃないか。
 それよりも延びてしまった一時間をどう潰すか、そちらのほうを考えなければならない。食事を終えてから切り出せばよかったと、ばかげた後悔をした。
「なあ、さっきの話の続きだけどよ」
 静雄は何事もなかったかのようにもう一度席に着いて、話の続きを促す。スプーンを握った手が迷っていたから、手のひらをつかってオムライスを指してやる。静雄は大きく掬い取って、口の中へ運んだ。
 皿はすでにほとんど空で、このままいくとあと数分もしないうちに食べ終えてしまうだろう。臨也はテーブルから離れたソファに移動し、静雄の視線を真正面から受けることを避けた。
「話した通りだよ。今日で、今回でこれも終わり。つぎに君がここに来ても俺はロックを解除しないし、部屋にも入れない。もしその馬鹿げた力でこじ開けようっていうなら、迷わず警察に通報する」
 静雄は訝しげな表情のまま飲むように豪快に食事を終え、カチャカチャと空になった食器をひとつにまとめる。台所へ下げるかどうか迷った素振りを見せたが、結局静雄は皿をそのままに臨也の座るソファへ腰かけた。
 自然に静雄の温かすぎる手を重ねられ、こつんと肩に頭を預けられる。頬が強張ったことに、幸い静雄は気づいていない。
 やはり、やめなければ。自分に嘘をつけるうちに。これ以上は耐えられない。
「なんで、あんなこと言ったんだよ。やっぱりなんかあったんだろ」
「なにかあったもなにも、いままでが異常だったんだよ。平和島静雄と折原臨也がこんなことしてるなんて、ありえないんだ」
 静雄は真偽を見極めるように臨也の目をじっと見据える。それは、本来ならこちらがする顔だというのに。
 静雄がここに出向くようになってからいまに至るまでそれなりの時間があったのに、やはり臨也は静雄が本心で臨也のそばにいるのか、また臨也を嵌めるためなのか判断がつかなかった。喉の奥がツキツキと痛む。真珠が外に出たがっている。
「許してくれなんて言うつもりはない。でももういいだろう? 復讐は成功したんだ。わざわざ嫌いなやつと関わる必要もない。だから、今日で終わりにしてくれ。シャツが乾いたら出てってよ」
「だから、そうじゃなくて、俺は手前をーー」
 静雄は自分がどうしたいのかうまく言葉にできないようで、もどかしげに唇を動かす。臨也はそのチャンスを逃さず、畳みかけるように捲したてた。
「シズちゃん、どうあっても俺たちは今日で最後。これは決定だ」
「いやだ」
「往生際が悪いな」
「嫌だ」
 空気を読まない洗濯機が、作業の終わりを明るい音楽で伝える。シャツを取り出しに行いこうと立ち上がるはずが、がっしりと腕を掴まれソファに引き戻されてしまう。
「手前よ、俺が手前を好きじゃないって認めるまで側にいるって言ったよな。あれはどうなんだよ」
「シズちゃん、まさか忘れたの? 俺は嘘つきだ。そもそもあのとき俺は頷いた記憶はない。君が都合よく思い込んでるだけだ」
「沈黙は肯定と同じだって、いつだか手前が自分で言ってたよな。ならあれはイエスと同じだ。手前が俺のもとからいなくなるっていうなら、宣言通り手前を縛りつけて閉じ込めて、どこにも行けねえようにする」
 いつになく饒舌な静雄に不気味さを感じる。どこまで本気なのか知らないが、その目は真剣そのものだ。こうなってしまえば、臨也が妥協し諦めるほかない。
 臨也が黙ったのをまたもいいように解釈した静雄は、「今日も泊まっていくからよ」と一方的に言い渡し、ポタージュのおかわりをよそいにキッチンへと消えていく。話は強制的に終了させられてしまった。
 金平糖を処分してからずいぶん経つというのに、静雄の態度に変化は見られない。静雄の本心がわからなかった。



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