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「#エロ」のBL小説を読む
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 臨也が、好きだと言う。
 ちょうどその頃は、不思議にも静雄のまわりにどんどん人間が増えていった時期だった。リッパーナイトと呼ばれるあの夜がすこしの自信を与えてくれたのだと思う。
 人生ではじめての後輩ができたし、歳はだいぶ離れているが静雄を見かければ笑顔で手を振ってくれる小学生だっている。みな大切にしたいと、傷つけたくないと思えるひと達だ。
 そんな自分を慕ってくれているひとたちを、厄介ごとに巻き込むことなどあってはならない。それぞれが厄介ごとの種であることなど知らない静雄は、まず自身からトラブルのもとを遠ざけることを考えた。
 静雄の弾き出した答えは非常に安直で、手っ取り早く災いの塊のような臨也と関わるのはやめよう、というものだった。臨也がいなくとも、静雄はもう孤独ではなかったし、穏やかな日々はすぐそばにある。臨也だけに固執して、孤独から目を背けていた頃とはもう違う。
 そうして臨也との喧嘩を回避するために我慢に我慢を重ねていたときだ。思いつめた表情の臨也から、廃ビルに招かれたのは。


「シズちゃんのことが、好きなんだ」
 声に苦々しさが混じっている。到底、告白するときの声色ではない。へえ、と、思ったのはただそれだけだった。
 こいつ、俺のことが好きなんだ。
 心のなかで臨也のセリフを復唱すると、じわじわと奇妙な高揚感に晒される。
 もしや、いままでの仕返しができるのでは。不穏な考えが頭を過る。今度こそ臨也をこっぴどく傷つけてやれるかもしれない。
 これが赤の他人ならば、こんな人間のクズのような発想には至らなかっただろう。だが、相手はあの折原臨也だ。ヒトではない、ノミ蟲だ。
 一方的な告白を終えて去っていこうとする臨也の背中に腕を回し、薄っぺらい身体を抱き寄せた。瞬間、湧き起こった嫌悪感を根性でねじ伏せる。
 決して臨也などに向けることがないような笑顔をつくり、優しい口調でどうしたいのか問い質す。臨也はバカみたいに震える声で「一緒に生きたい」と告げた。
 ーー勝った。
 思わず吊りあがりそうになる口端を必死に押さえつける。腹を抱えて大笑いしたくなるほどおかしくてたまらなかったが、そんなことをしてはせっかくの計画が台無しだ。
 静雄は自画自賛したくなるような演技力であたたかな雰囲気を醸しだし、触れたくもない臨也の頬にキスをした。

 臨也とほぼ同棲のような生活になるには時間がかからなかった。一番リラックスできるはずの場所が、ストレッサーの塊に占領されている。しかも臨也の私物や買い込んだものが、ただでさえ狭い部屋に日に日に増えていくときた。何度堪忍袋の緒が切れそうになったことかわからない。
 それでも我慢ができたのは、臨也の作る飯だけは文句なしの上等なものだったからだ。すっかり胃袋を掴まれてしまったようで、ノミ蟲の作った飯なんて、と心では思うのだがいざ目の前に置かれてしまうと食欲を抑えることは難しかった。そう、ただそれだけである。間違っても臨也に情がわいてしまったわけではない。
 しかしいくら食事がうまいからといって、臨也と同棲まがいのことをしているストレスがなくなるわけではなかった。タバコの本数は日増しに多くなっていく。いつまでこれを続けなければならないのか、嫌気がさしていた。
 憂さ晴らしをしようと思いついたのはただの気まぐれだ。仕事の帰り、なんとなくまっすぐ家に帰る気になれず、ぼんやりと街を歩く日々を重ねていた。
 その日も臨也からメールがあったことには気づいていたが、やはりすぐに帰る気にはなれず目的もなくただ時間を潰すためにぶらぶらと街を練り歩く。だんだんと治安が悪くなっていく景色に、場所を間違えたと後悔した矢先だ。引き返そうとホテル街に背を向けたのと、ふにょんと柔らかなものを腕に感じたのはほとんど同時だった。
 すぐにそれが女の胸だと気づいたが、たいして驚きはしなかった。職業のせいかこの見た目のせいか、こういったことに慣れていないわけではない。
 そういう気分でもなかったから、静雄は女に鬱陶しさしか感じなかった。適当にあしらって帰るつもりだったが、突如ひとつの考えが頭に浮かぶ。
 ひょっとすると、これはチャンスではないだろうか。この生活に終止符をうち、臨也のあの澄ました顔をぐちゃぐちゃにできるチャンスでは。もともとそのつもりで臨也と一緒にいるのだから、なにも躊躇うこともない。
 奇妙なほどにくびれた女の腰に自ら手を回す。こうして誘われるままに乗ったのが、静雄の仕返しの始まりだった。
 妙な情報網とやけに鋭い勘の持ち主だ、バレることは理解の上だ。その読みが当たっていたのは帰宅後、臨也を一目見てすぐにわかった。
 なにも知らないふうを装っていつものように触れようとすると、癇癪を起こしたように叫んで静雄の手を叩き落とす。いつもの臨也からは想像しがたい感情の動きを目の当たりにし、静雄は興奮した。臨也の瞳はゆらゆらと燃えていて、傷つけられたと強く訴えている。
 熱を吐き出してきたばかりだというのに、どうしてだかその顔は静雄を十分に煽った。殴りつけるようにベッドに押し倒すと「いやだ」と喚いたが、臨也がずっとこうされたかったことは知っていたので鼻で笑う。
 しかし臨也にもプライドがあるのか、見せかけでない抵抗はそれなりに面倒だった。だがそれによって燻る熱があがったのもまた事実だ。
 臨也も静雄とは違う意味で神経が昂ぶっているようで、顔に血がのぼっている。ツラだけはきれいなやつだ。男となどできるわけがないと思っていたが、これならイケる。静雄は臨也の意思など気にせず身ぐるみを剥いで、臨也が気を失うまで白い身体を好きにした。
 一方的な行為を終え、隣で横たわっているだらりと力の抜けた身体は、強く掴み過ぎたせいかあちこちの皮膚が変色している。血の気のない、寝息ひとつ立てないその姿はまるで死んだようだった。
 あの折原臨也がここまで無防備な姿を晒したことが、いままでにあっただろうか。先ほどまでの高揚感が、嘘のように冷めていく。
 ーーいまなら殺せる。
 そっと細い首に手を添える。起きる気配はなかった。徐々に力を加えていけば苦しそうに呻いたが、抵抗らしい抵抗は一切ない。なぜだかそのざまにやたらとムシャクシャして、パッと手を離す。
 こいつはこんなに楽に死んでいいやつなんかじゃねえ。心で言い訳のように呟く。
 臨也は急激な酸素の増加に情けない音を立てて咳き込むが、それでも目を覚ますことなく眠りつづけた。
 タバコをふかしながら、臨也の目元から真珠がこぼれていくのをぼんやりと眺める。意識がなくとも涙は溢れるものらしい。ためしにひとつ取り上げてみると、静雄の顔がちいさな玉のなかで間抜けに伸ばされていた。
 これを売り払ったと知れば、臨也はどんな顔をするだろうか。臨也を傷つける。目的はただそれだけだった。
 しかし予想に反し、臨也はこれまで通りの振る舞いを続けた。真珠の行方だって知らないわけではないだろうに、あくまで何事もないかのように振る舞う臨也に苛立ちが募っていく。
 臨也のなかは文句なしに気持ちよかったし、女を抱く必要性はなくなっていたが、それでも臨也の耐えるような顔を見るためだけに真珠を売った金で女に手を出し続けた。帰り際に女の香水をわざと身体に振りかけてから臨也を抱くという、なんとも手の込んだ嫌がらせをしてみたこともある。人の気配に敏感な臨也が気づかないわけもないが、それでも文句のひとつも言わずに黙って腰を揺さぶられていた。
 声を出せとしつこく要求しても、臨也はそれだけは従わなかった。臨也を支える最後の矜持だったのだろう。
 そのようなことをされればよけいに聞きたくなるのがわからない臨也でもないだろうに、どれだけ手酷くされても臨也の奥歯はぎっしりと合わさったまま緩むことはない。ここまで好きにさせておいて、最後の最後ですべてを明け渡す気のない臨也に目の裏が赤くなった。
 そして結局、静雄は臨也の喘ぎ声も達する表情も知らないまま、この関係も終わることとなる。
 
 いつものように「真珠をよこせ」と臨也を押し倒し、服を脱がしにかかったときだ。よくは覚えていないが、臨也が珍しくも静雄に意見した。すぐに慌ててフォローを入れようとしたが、もう沸点を超えてしまった静雄にとってそのようなものはどうでもよかった。
 どうにかこの場を切り抜けようと、意味のないへらりとした笑みで誤魔化そうとする臨也に苛立ち、胸ぐらを掴んでベッドから投げ出す。拍子にポケットからなにかが落ちて、静雄の足元へ転がった。
 それだけではとくに気にも留めなかったというのに、臨也が露骨に動揺したので、中身が気になって伸びてきた手より先に拾い上げる。キーンと耳をつく声で叫ばれたのがスイッチだった。怒りの矛先が手の中にあるものに向けられる。
 巾着袋から出てきたのは、指の第一関節ほどの大きさの緑色をした宝石だった。静雄がなにをしようとしているのか正確に汲み取ったようで、なりふり構わず飛びかかってきた臨也をはたき落す。 
 あのいつも澄ましている臨也が取り乱すほどだ、よほど大事なものなのだろう。だから容赦などしなかった。ぐっと指先にすこし力を込めただけで、いとも簡単にそれは砕け散った。
 宝石を割ったときの臨也の表情は、それは笑えるくらいに酷いものだった。この顔を見るためだけに数ヶ月、我慢してきたのだ。
 それだというのに、なぜだか心は晴れないままである。どうやらちっぽけな石を砕いただけでは苛立ちは収まらなかったようだ、と未消化に終わった原因を解釈した。
 「もう来るな」と吐き捨てて、荒んだ気持ちを落ち着けようとタバコを吸いにベランダへ出る。一服を済ませて部屋に戻った頃には、臨也はもういなかった。臨也とはまったく縁のない単語だと思っていたが、どうやら素直に出て行ったらしい。
 どうせまたすぐに顔を出しにくるのだから、臨也の行く先など興味もなかった。しかし、静雄の予想はまた裏切られることとなる。

 臨也が家へ来なくなって、もう一週間が経った。穏やかな日常が戻ってきたことを歓迎すべきなのに、なぜだか臨也がいた頃よりもタバコの減りがはやい。
 考えれば考えるほど苛立って仕方がないので寄り道せず帰宅しすぐに寝てしまいたかったが、家に帰ってもご飯がないのを思い出し、近くのコンビニでカップ麺と牛乳を手に取りレジに並ぶ。帰宅ラッシュが重なる時間のせいかレジは混雑していて、すこしの待ち時間さえ静雄の苛立ちをどんどん助長させる。一刻でもはやく身体を休めたかった。
 コンビニから自宅まで五分もかからないというのに、その道のりさえやけに長く感じてしまう。やっとの思いでたどり着いた自宅の前で鍵を取り出しドアノブをひねるも、扉は開かない。
 不審に思ったが、もう一度鍵を差し込んで回してみれば、今度は簡単にあいた。今朝はたしかに鍵を閉めたはずなのに、どうもおかしい。
 なかの様子を確認しようと、すぐさま玄関の壁にあるスイッチを押して明かりを灯す。静雄の目に飛び込んできたのは変わりきった部屋の有り様だった。メラメラ湧いてきた怒りが部屋を壊してしまいそうだったので、静かに壁から手を離す。追い出されるのは勘弁だ。
 真っ先に頭に浮かんだのは空き巣であった。しかし部屋をよくよく検分してみると、荒らされたというよりは、ものがなくなっているといったほうが正しいことに気づく。
 なくなったものの共通点はすぐに見出せた。どうやら静雄が留守の間に臨也が私物を撤去したらしい。
 そうか、終わったのか。それだけだった。
 もうすこし解放感があると思っていたが、その類いの爽快な感情はいくら待てどもやってこない。
 唯一、残されていたのは合鍵だ。ずぼらな静雄の目につくように、テーブルのうえの灰皿のそばにポツンと置かれていた。どうやらあいつはもうここへ来る気はないらしい。
 どうせならきっぱり振ってやればよかった。まず思ったのはそれだった。これでは付き合っているのかそうでないのかはっきりしない。
 自然消滅、と呼ばれるものを静雄は認めていない。はじまりを作ったなら、幕引きもその手でするべきだ。
 そうなると、臨也がもう静雄と会う気がないのであれば、こちらから連絡を取って関係の解消を伝えなければならなくなる。つくづく面倒事ばかりを残していくやつだ。がりがりと乱雑に頭を掻きまわす。
 ピー、と絶妙なタイミングで静雄の苛立ちを吹き飛ばすようにヤカンが鳴って、お湯が沸いたのを知らせる。腹が膨らめば多少はこのムカつきも落ち着くだろうと考えたが、食事を終えても不快感は増す一方であった。


 仕事の休憩中、静雄の上司であるトムはなるべく静雄を刺激しないように細心の注意を払いながら、こう切り出した。
「静雄、お前ここんとこまた外食が増えちまったな」
「……そう、っすかね」
 他人の目から見ても、ここ数週間での静雄の食生活の変化は著しいものだったようである。トムは弁当を作ってくれていた相手が彼女だと思っていたようで、静雄を気遣いこれまで指摘することを避けていたのはわかっていた。だが、ついに見かねたらしい。
 トムの言う通り、ここ数週間のは臨也の嫌うジャンクフードやレトルト食品しか口にしていない。食事をつくるやつがいないからだ。
 当然、それに伴って食費も跳ね上がった。それもこれも臨也のせいだと、咥えていたタバコをぐにゃりと握りつぶす。まだだいぶ長さがあったのに、考えなしな行動のせいで火が消えてしまい舌を打つ。ああ、イライラする。
 金銭的な余裕がなければ、心にも余裕がなくなるというのは本当らしい。臨也がいないのなら嫌がらせと称して女を買う理由もないから余分な金はかけていないのだが、些細なことで苛立って公共物を破壊してしまう。すべてを社長に肩代わりしてもらうわけにもいかず、地道に貯めていた貯金を切り崩さなければならなくなり、ついには最後の真珠も売り払った。
 それからというもの、日ごとに積もり凝り固まった苛立ちは静雄から睡眠時間までも奪い取り、ぶくぶくと請求額が膨れあがるという悪循環に陥っていた。あまりの荒れっぷりにトムも目をつむれなくなったようで、「最近仕事がハードだよなあ。お前もだいぶ疲れてるみたいだしよ。静雄、明日はひさびさにゆっくり休んでいいから」とついには遠回しに仕事から外されてしまった。
 後輩のヴァローナは剣呑な表情で「静雄先輩、すぐに業務から離脱し休暇取得を推奨します」とトムよりだいぶストレートな物言いをした。トムもやんわりとヴァローナに賛同してうんうんと頷く。静雄は反論もできずに頭をさげて、ひとり定時前に帰路につくこととなる。
 公私混同し、職場のメンバーに気を遣わせてしまったことが情けなくて、何度目か知れないため息をついた。夕食はひさしぶりに自炊をしてみたが、どうも味気ない。臨也のつくる飯のせいで舌が肥えてしまったのだろうか。やはりロクでもないやつだ。
 どうにか今日で生活リズムを元に戻さなければと思えば思うほど、どんどん深みにはまって眠れなくなっていく。あっという間に空には赤が滲んで、朝の訪れを告げようとしている。
 小腹を満たせば睡魔もやってくるだろうかと、お菓子入れにしている椅子にぶら下げたコンビニの袋を漁るが、なかに入っていたのは飴玉ひとつだけだった。チッと舌打ち、仕方なく再びベッドに寝転んだ。
 差し込む朝日がまぶしくて寝返りを打って窓から背を向けようとするも、カーテンが肘に引っかかりびろんと捲れる。鬱陶しくなって払いのけようとしたが、窓台のすみがなにやらカラフルな光を放っていることに気がつく。ベッドに寝そべったままカーテンのなかに手を突っ込み、光源の正体を掴み寄せる。
「あ……? 金平糖、だよな」
 自分で買った記憶がないということは、臨也が持ち込んだまま処分し忘れたのだろう。だが丁度いい。甘いものが食べたい気分だった。
 静雄はなにも疑うことなく二、三粒手に取り出して、小さな星くずを口に運ぶ。ガリッ、と奥歯で星が砕けた。
 横になっていたにもかかわらず、瞬間、ぐらりと激しいめまいが静雄を襲う。目の奥で光が弾け、胸がキリキリと締めつけられるように痛み出す。
 ーー嵌められた。
 毒の可能性が脳裏をよぎる。そうだ、あの臨也がやられっぱなしで退散するわけがない。
 どうにかして吐き出そうとするも、痛みで身体の自由がきかない。口のなかは甘ったるいのに、頭も胸も抉られるようにズキズキと痛んで苦しい。耐えるようにうずくまっていると、甲高い耳鳴りの奥で「シズちゃん」と名前を呼ばれた気がした。
 ハッとして部屋を見渡すも、当然そこには静雄しかいない。まぶたの裏に浮かんだ顔は、ここ二、三ヶ月見ることのなかった、付き合いたての頃の臨也の笑顔だった。
 激しい頭痛がやっと通り過ぎ、安堵からふうーっと長い息を吐き出す。どうやら山場は乗り越えたらしい。
 顔まわりに張りついた髪を払おうとして、頬が濡れていることに気づく。そんな、まさか。
 静雄の胸を激しくかき乱し通り過ぎて行った痛みの正体を、静雄は唐突に理解した。あれは臨也の勘定だ。根拠などどこにもないが、静雄は確信した。
 何度も態度や言葉で示されたが、静雄が受け取ろうとしなかった柔らかで繊細な感情たち。それが今になって、こんな形で痛感させられるとは。
 あいつは本当に、俺のことが好きだったんだ。


 静雄はいてもたってもいられず、毎日欠かすことのなかった朝食もとらずに、電車に揺られ新宿までやってきた。普段はなんともない駅から目的地までの距離が、随分と長く感じられるのは気が急いているからだろうか。
 マンションのドアをぶち壊すわけにもいかず、インターホンに臨也の部屋の番号を打ち込む。静雄がどのような説明しようか迷っているうちに、すんなりとロックが解除された。
 どういった気まぐれか知らないが、臨也の気が変わらぬうちにエスカレーターに乗り込んで、やたらとおおきな数のボタンを押す。高いところが好きだと、以前うれしそうに語っていたのを思い出した。
 一応のマナーとしてチャイムを鳴らすが、案の定返事はなかったので、無断でドアを開ける。念のために、鍵はかけてからなかへと入った。
「やあ。久しぶりだね、シズちゃん」
 友好的な挨拶に迎えられ、ホッとしたは束の間だった。しばらく見ることのなかった、静雄の嫌いな胡散臭い顔つきがこちらに向けられている。不思議な金平糖がまぶたの裏越しに見せた、あの笑顔とはかけ離れた笑い方だ。
 臨也はパソコン前の椅子に腰掛けながら、いつの間に取り出したのか、ひさしぶりに姿を見せたナイフをこれ見よがしにくるくると弄んでいる。これ以上になくわかりやすい、敵意の表現だ。
 なにか言わなければと思ったが、いざ臨也を前にすると言葉が出てこず口ごもってしまう。そんな静雄を察してか、臨也はくすりと息だけで笑ってさきに口を開いた。
「今日はどうしたの? シズちゃんから訪ねてくるなんて槍でも降ってくるんじゃない? まあ、それくらいじゃ君は死なないだろうけど」
 たえずナイフをペンのように回しては、にまにまとタチの悪い笑みを口元に湛えている。「どうしてここに来たか、当ててあげようか」と、唇が弧を描くように吊り上がった。
「生活に困って、また俺に真珠を産ませにきた、だろ。ふふ、顔色が変わったね。当たりかい? 残念だけど、もうあれはでないよ。嘘じゃない。なんなら前みたいに、めちゃくちゃに痛めつけてみればいい。ああ、それとも金のガチョウみたいに手っ取り早く腹を掻っ捌いてみる? ーーほら」
 違う、と否定する間も与えられない。言葉自体は荒いが、淡々とした底冷えする喋り方だった。感情の抜け落ちたようなそれに、寒気が背中を這う。
 ゆっくりと臨也が近づいてきて、静雄の手にナイフを押しつける。握らされたナイフに呆然と目をやる静雄を見て、臨也はもう一本、袖口からナイフを取り出した。
「つまらないなあ。もうちょっといい反応を期待してたのに。いいよ、君がやらないなら俺がやる。ちゃあんとその目、かっぴらいて見てるんだね」
 薄く笑った次の瞬間、なんの躊躇いもなく切っ先が薄い腹を目がけて振り下ろされた。刃が明かりを反射してきらめく。目の前が白に染まり、血が凍った。
 気づけばナイフは乾いた音とともに床にたたき落されていて、静雄は原型を留めなくなるまで足で粉々に砕く。
 こいつは、いま、なにを。
 息が荒い。対して、臨也の目は冷ややかだ。
「なんでとめたの。死んでほしいんだろ」
 鉄琴のような冷たい声が響く。静雄はなにも答えられず、煙草の火を消すようにナイフを徹底的にすり潰した。
「……もう、殺すって言わないんだ。そんな価値すらなくなっちゃった?」
 恐ろしいほど感情の抜け落ちた声だった。自分が今どのような顔をしているのかわからないまま、臨也を見つめる。臨也は変わらず、無表情のままだ。
「……ああ、そう」
 答えない静雄をどう解釈したのか、臨也はなにかを納得したようにひとり頷く。スタスタと静雄の横を通り過ぎていく臨也の腕をとっさに捕らえた。しかし掴んだ腕が以前より細くなっていることに気づいてしまい、驚いて力を緩める。
「なに」
「あ、いや……どこ行くんだよ」
「おかしなことを訊くんだね」
 臨也は質問に答えない。掴んでいる手を振りほどこうと上下にかるく揺すられるが、離してやろうとは思えなかった。
 膠着状態に疲れたようで、臨也はふうと息を吐き出して顔の筋肉を緩める。
「ベッドだよ。徹夜明けなんだ。殺す気がないなら、俺はもう寝る」
「じゃあ、俺も寝る」
 思わず口をついた言葉に固まったのは、静雄だけではなかった。臨也の口元が、なにか言いたげにぴくりと動く。一度唇を引き締めてから吐き出されたその言葉はきっと、本当に言いたかったものではない。
「シズちゃんさ、そんなことのためにここに来たの? 違うだろ。言いたいことあるならはやく言いなよ。それで、さっさと帰って」
 言いたいことがあるのはそっちだろう。そうは言えずに、静雄は必死に頭を回した。どうにかして臨也を留めなければならない。だがもともと弁が立つわけでもないから、このようなときにどのような話をすればいいのかなど静雄には見当もつかなかった。
 臨也の真っ直ぐな目に居心地が悪くなり、手すさびにポケットのなかに指をつっこむ。指先がコツンと固い感触につき当たった。
 そうだ、これがあった。
 逸る気持ちのせいかなかで引っかかり、なかなか出てこようとしないそれを無理に引っ張り出して、臨也の胸元に突きつける。
「これ」
「君の家の鍵だね」
 一瞥し、なんでもないふうに視線を静雄の顔に戻す。鍵のはいった拳をぐいと薄い胸に押し付けるが、拒むようにやや後ろにのけぞっただけで、臨也は一向に受け取ろうとしない。
「どうやら、渡す人間を間違えてるようだ。それは俺が受け取るものじゃない」
「間違ってねえ」
「わからないな。今更これを俺に押しつけて、なんの意味がある?」
「なんで、置いてったんだよ。手前のものも全部なくなってた」
 なんでもなにも、わかりきっていることだった。だが、静雄は臨也のしようとしていることを認めてなどいない。
「言いたいことがよくわからないな。話が噛み合わない」
 取りつく島もないとは、まさにこのことだった。元来、饒舌なほうでもない静雄はすぐに言葉を失くした。
「シズちゃん、俺に復讐したかったんでしょう」
 知らず知らず息をのむ。静雄の反応を見て、臨也は確認が取れたと頷いた。
「ちょっと考えればすぐにわかることだ。なのにそんな簡単なことにも気づかないで浮かれてさ。馬鹿みたいな俺を見てどう思った? ざまあみろって? さぞいい気味だっただろうね」
 臨也は不気味な薄笑いを浮かべたまま滔々と話し続ける。相変わらず臨也の声は淡々としていて、自嘲の色すら感じ取れない。
「復讐、おめでとう」
「おい、いざ……」
「寝るんだろ? 寝室に行こう。君、酷いクマだ」
 柔らかい微笑みに静雄は返事を忘れた。ぞくりと、底知れない恐ろしさを感じる。
 ふっと再び表情を消し、すたすたと二階へあがっていく臨也のあとを慌てて追う。寝室に入ってからの臨也は、とてもおとなしかった。
 静雄のことなど意にも介さず、さっさとベッドに潜り込んでは拒絶を表すように背を向けられる。許可など取らずに隣で横になったが、臨也はなにひとつ反応を示さない。後ろから腕を伸ばし包み込んでも、驚いたのは一瞬で、別段言及することはなかった。
 同じひとの身体だというのに、自分よりずっと冷たい身体を抱き寄せる。女のようなふにゃふにゃとした柔らかさなどない、硬い身体。それなのにどこか頼りなさを感じるのは、やはりこの細さのせいだろうか。
 強張りをほぐしてやろうととして髪に触れれば、臨也はますます身体を硬くさせて息を詰める。明らかな怯えだった。胸を突かれた気分になってあとから弁解を添えるも、許しを請うような響きが宿る。
「怖がんなよ。なにもしねえから」
 臨也は反駁しようと口を開きかけて、空気とともに出すはずだった言葉を飲み込んだ。背中でこちらの様子を窺っているのがわかる。
 それでも離さず抱きしめつづけていると、不規則だった呼吸がすこしずつ落ち着いてきた。臨也の肺が膨らんだり縮んだりするのを感じていると、ここ数週間まったくやってこなかった睡魔が唐突に訪れる。ここにきて、どうして眠れなかったのか静雄はようやく理解した。
「臨也、俺……」
「さっきも言ったんだけど、俺、徹夜明けなんだ。もう寝るよ」
 臨也は言葉を遮って会話を終わらせる。静雄の続けようとした言葉が、謝罪であると読み当てたのかもしれない。
 言い終えてすぐ、臨也はすうすうとらしくもなく嘘くさい寝息を立てはじめる。そのような態度を取られてしまえば、静雄に打つ手はなかった。
 話すことを諦めて、以前恋人を演じていたときのように臨也の肩口へ頭を埋める。臨也がどのような顔をしていたか、背中越しの静雄にはわからなかった。

 それからというもの、静雄は休みの度に臨也の家を訪れるようになった。これまでとはまるで正反対だ。
 リビングのドアを開けるたびに突き刺さる臨也の目の冷たさに、毎回ひやりとさせられる。そして興味なさげにふいと、まるでなにも見えていないかのようにパソコンの画面へ視線を戻すのだ。
 その目からは以前のような感情の動き、好意も殺意も感じられない。これが芝居でなく臨也の本心であるのは、静雄もわかっていた。臨也は、静雄への興味関心をまるごと捨ててしまったらしい。
 唯一救いなのは、静雄がここに出向いても拒むことなく、開錠してくれることくらいだろうか。単にマンションを破壊されたくないだけかもしれないが。
 臨也は口がなくなってしまったかのように、ほとんど言葉を発さなくなった。沈黙に耐えきれなくなった静雄がたどたどしく今日の出来事を話すのだが、以前のように熱心に耳を傾けることなどなく、パソコンを見つめながら「へえ」、「そう」などとどうでもよさげに返すだけだ。
 たまにマンションの入り口ですれ違うここの女秘書に聞けば、最近は事務所にこもりっぱなしで、ふざけた人間愛を語ることもなくなったという。静雄への興味だけでなく、あれだけ執着していた愛そのものを、どこかに落としてきてしまったらしい。
「シズちゃんさあ、いつまでうちに入り浸るつもりなの?」
 ソファから臨也の仕事姿をぼんやりと眺めていたから、いきなりすぎる質問にすぐには頭がまわらなかった。臨也の真意を図りかねて、眉頭を下げる。
「俺たちもう別れたんだから、会う理由なんてないだろ」
 投げやりに畳み掛けられ、今度こそ絶句した。
「……別れてねえ」
「はあ?」
 眉間を揉みほぐす動作をやめて上げた、素っ頓狂な声に嬉しくなる。ひさしぶりに聞く、感情のこもった声だった。
「俺も手前もそんな話はしてねえし、認めた覚えもねえ」
 臨也は呆れたようにぐっと眉をよせて、大胆に前髪を掻き上げた。指先で髪をくるくると弄びながら、椅子ごと静雄に向き直る。すこし、苛立っているようだった。
「シズちゃん。君は俺に出ていけばいいと言った。俺は実際、言われた通りに君の部屋に持ち込んだ私物を処分して、鍵もシズちゃんの家に置いていった。これはね、世間では別れと呼ぶんだよ」
「世間とかそんなの、関係ねえ。俺は認めない」
 梃子でも動きそうにない静雄に、臨也はこれでもかとおおきなため息をつく。面倒くさそうに姿勢を正し、おざなりに切り出した。
「ああ、そう……まあいいけど。じゃあ仕切りなおすとしよう。シズちゃん、俺と正式に別れてよ」
「断る」
「なんで」
 さも煩わしげに言い放たれて、ほんのすこしひやっとさせられた。投げやりだが、脅迫的な威圧感が込められている。
「言っとくが、別れるつもりも逃がすつもりも更々ねえ。もし手前がそれでも俺から離れるっていうなら……」
「いうなら?」
「手前を縛って、どこにも行けねえようにする」
 途端、臨也はキョトンとした顔をする。なにを言われたのか理解するのに、珍しく時間を要したらしい。数秒固まり、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
 臨也の一挙一動を見逃すまいと、睨みつけるように観察する。突然ぽかんと気の緩んだ顔が大袈裟に崩れ、臨也は盛大に吹き出した。ほんの一瞬だが、邪気や憂いの消えた表情にドキッとさせられる。
「アハハ! 最っ高だよシズちゃん!」
「なに……なんなんだよ、手前。あいにく、冗談のつもりじゃねえぞ」
 ひとしきり笑って満足したのか、臨也ははー、と息を吐き出し呼吸を落ち着けた。なにがそれほどツボにはまったのか知らないが、馬鹿にされたように感じて静雄のこめかみには青筋が浮きかけている。
 普段なら一発ぶん殴っていたが、必死に堪えた。そのようなことをしてしまったら余計に分が悪くなってしまう。臨也は笑いすぎたせいで目元に滲んだ涙を拭ってから、やっと居ずまいを正した。
「わかった。シズちゃんがその妄執的な錯覚からさめるまで、そばに居てあげてもいいよ」
「その言葉、忘れんじゃねえぞ」
 いつぶりかに聞く臨也らしい言い回しに、内心ホッと胸を撫で下ろす。臨也は口元の筋肉をかすかに動かして微笑んだだけで、なにも答えなかった。



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