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 付き合っていることを口外しない、という条件のもとでの交際だったため、外で会えばこれまで通りの振る舞いを強いられた。臨也としても突然そこまで開き直ることはできなかったから、素直にその条件をのんだ。
 だからこそ少しでもふたりきりでいられる時間を増やしたくて、食生活が心配だというのを口実に静雄の家に転がり込むことも増えた。決して広いとは言えない空間にふたりきり。それでも臨也はその場にいない静雄の友人、知人たちを意識してしまうことがある。
 これはもう俺のものだ。誰にも渡してなどやらない。冗談めかして「俺が稼いでくるから君は家にいてくれればいい」などと口にしたこともある。当然、本気になどされなかったが。
 夕食だけでなく、朝食、昼の弁当も作ってやるのが当たり前になるのに時間はかからなかった。基本的に好き嫌いのないらしい静雄は、出された皿は全て空にして臨也に返す。弁当の中身が残っていたこともない。
 先日、偶然静雄が公園で昼食をとっている場面に遭遇したのだが、膝の上にはプラスチック製の弁当箱がちょこんと乗せられていた。隠しもせずに、堂々と弁当を口に運ぶ姿が嬉しかった。
 もともと寡黙なところのある静雄は、付き合ったからといって口数が増えるわけでもなかった。代わりに臨也の話にはよく相槌を打って、下手ながらにも聞いていることをアピールをしてくれる。それだけで十分だった。
 臨也は静雄を怒らせることに関しては人一倍秀でている自負がある。逆を言えば、どうすれば静雄が激昂しないのかについても熟知していた。地道な努力が功を奏して、静雄が臨也と時間をともにするようになってから怒りを爆発させたことはない。
 一方で、目に見えるわかりやすい変化もある。
 身体にしるしを残せないぶん部屋にマーキングをしてやろうと、徐々に静雄の部屋には臨也の持ち込んだものが増えていった。必要最低限のものしかない殺風景だった部屋に、クッションやらブランケットやら、静雄にとっては不必要であるはずのものが部屋を占拠していく。文句も言わずに臨也の持ってくるものを受け入れてくれるのが、わがままを許されているようで嬉しかった。
 楕円形のクッションを胸に押しつけて枕を背もたれに寄りかかり、静雄が風呂からあがってくるのをケータイでテレビを眺めながらのんびりと待つ。ニュース番組が終わりにさしかかり、キャスターがお辞儀をする。リモコンを手にしたところで、タイミングよくガラガラと戸を引く独特の音がリビングまで響いた。
「あー、さっぱりした」
「おかえ……え!? ちょっと、シズちゃん!」
 風呂から上がってきた静雄は下着一枚で、それ以外なにも身に纏っていなかった。適度に引き締まった筋肉がほくほくと湯気を立てているのは目の毒だ。
「あ? ほら、手前も入っちまえよ」
「えっ? ああ、うん。そうするよ」
 動揺を悟られないうちにさっさと部屋から退散する。臨也が風呂からあがってくるまでにはほてりが冷めて、服も着ているだろう。ひとの気も知らないで、と声に出さずひとりごちる。
「そういえばよ、今日はこの前、手前が持ってきたやつ入れてるから。お湯が真っ白だぞ」
 振り返りぎわ得意げに言う姿がかわいくて、こちらまでなんとなく照れてしまう。臨也は曖昧に笑って、着替えを脇にはさみ脱衣所へと向かう。
 ドアのさきは静雄の体臭とシャンプーの香りが混じった湯気が充満していた。浴室は一層それらが立ち込めていて、変な気持ちを抑えながらちゃぽんとお湯に浸かる。
 同じベッドで寝ているというのに、これまで静雄は一度もそういう意味で臨也に触れてきたことがない。付き合うことと、身体のはなしが別なのは理解している。ましてや同性だ、いろいろな意味でそう簡単では問題ではないだろう。湯に口をつけてぶくぶくと泡を立てる。まだまだ道のりは遠いいらしい。



 静雄と半同棲のような生活が続いてはや二ヶ月が経過した。なにもかも順調というわけではないが、静雄がすぐ近くにいるという状況にもだんだんと慣れ、生活パターンが完全に把握できるくらいには静雄の家に入り浸っていた。
 いつもの時間に静雄を起こし、支度を急がせる。仕事に出かける直前になって、静雄は玄関で素っ頓狂な声をあげた。様子を見に行くと、困ったようにそわそわしていて落ち着きがない。臨也が来たのに気づくと、静雄はくしゃくしゃとセットした前髪をかきあげた。
「やべ、どうしよう。ゴミの日だったの忘れてた」
 ああ、と焦っている理由に納得する。玄関の脇に置いてあったパンパンのゴミ袋を見て思い出したのだろう。片足にだけ靴を履いた状態で、静雄がそろそろとこちらを振り返る。
「いいよ、やっておくから。早くしないと遅れるよ」
 このくらいなんでもないように笑ってやると、静雄は「悪いな」と片手をあげて急いで家を飛び出していく。どうせなら昨日のうちに溜まってしまったゴミも一緒に捨ててしまおうと、かろうじて余裕のあるゴミ袋の結び目を解いて家中のゴミを回収しにかかった。
 灰皿はとっくにこんもりと小山のようになっていて、ゴミ箱の中にも既に数本の吸い殻が埋もれている。不用心さにちいさな溜め息をついた。ひょいひょいと火事のもとを手でつまみ上げ水でさっと濡らし、ビニール袋にまとめてから指定のゴミ袋へ突っ込む。徐々にタバコの本数が増え始めていることに、臨也は気づかないふりをした。
 家用にと開けられているタバコを一本拝借して、ベランダの窓を開ける。コンビニで購入したと思われる安っぽいライターで火を灯し、肺の深いところまで煙がいくように息を吸い込んだ。

 昔から勘はいいほうだと自負している。そして大抵それは、よく当たる。
 嫌な予感は、いつもあったのだ。
 静雄の帰りがやたらと遅い日が続いていた。日によっては夜中の十二時をとっくにまわってから帰ってくることもある。仕事だからと自分に言い聞かすのには、そろそろ無理のある具合であった。
 夕食を作りながら静雄の帰りを待っている時が、一番よくない時間だ。今日もこいつらはゴミ箱行きか、だとかそんなことばかり考えてしまう。
 ゴミ箱行きとなったそれらに静雄は気づいているはずだ。匂いには敏感なタチだし、ゴミ出しをすればいやでもわかるだろう。気づいていて、静雄はなにも言わない。
 それでも希望は捨てられず静雄の帰りを待ちながら、夕飯の用意を欠かさなかった。「いらない日はメールしてくれると助かるよ」と話したことがあるが、実際にメールが来たのは最初の一、二回だけだった。
 切り刻んだ玉ねぎ、にんじん、その他諸々の野菜を火にかけていく。『今日はシズちゃんの好きなオムライスだからはやく帰っておいでよ』と、らしくもないメールを送信したばかりだ。すぐにピロリンと無機質な音がポケットで響く。随分と返信がはやい。
 メールは期待していた静雄からの返信ではなく、よく利用するうちのひとつの掲示板にスレッドが立てられた報告だった。それはそうだよな、と画面をスクロールしていく。あまりメジャーな掲示板ではないが、ここの情報は信憑性が高いから情報取集に利用することも多い。
 とりあえず目を通しておこうとメールに貼り付けられたURLから掲示板に飛んで、目を疑う。夕暮れどきとはいえ、やけにカラスの声がうるさい。スレッドのタイトルこそは平々凡々などこにでもあるものだったが、臨也の目を釘付けにしたのは貼られていた一枚の画像だった。
 静雄の腕に、知らない女性の腕が絡められている。背景に浮かんでいるのはあからさまなホテル街だった。思わず包丁を取り落として、その場に立ち竦んでしまう。臨也がなにも行動にうつさずとも、手の中の携帯に次々と浮気の証拠が集まっていった。ピロピロと携帯が奏でる軽快な音楽は鳴り止むことを知らない。
 ハッと我に返り、床に落とした包丁を拾いあげ、思いきり振りかぶって鶏肉に突き立てる。ぐにゅ、と脂身の切れる嫌な感触がした。


 夕食を作る気になんて到底なれなかったが、もしあれがなにかの間違いで静雄が腹を空かせて帰ってきたら、と思うとどうしても作らないという選択肢は選べなかった。刻んだ野菜をフライパンに放り込んでチャーハンにする。これなら最悪、静雄がオムライスを求めても作り変えることができる。自分が馬鹿なことをしているのはよくわかっていた。
 ふたつの針が同時に同じ数字を示したとき、臨也は炒めたそれらをゴミ箱に捨てた。結局、静雄が帰ってきたのは空の濃さすら薄まる、四時を少し過ぎた頃であった。
「……っんだ、いたのか手前。びっくりするじゃねえか、明かりもつけねえで……」
「ーーシズちゃん」
 臨也はつぎに出す言葉に迷って口を閉ざす。臨也のすぐわきを通って冷蔵庫を目指した静雄の髪からは、普段とは異なる甘ったるいシャンプーの香りがした。目眩がする。散々ひとの修羅場を見てきたというのに、臨也の口からは陳腐な言葉しか出てこなかった。
「遅かったね」
「ああ、いろいろ長引いちまってよ」
「メール、気づかなかったんだ?」
「送ってたのか? 悪い、バタバタしててよ」
「……そっか」
 それきり黙った臨也をさすがにおかしいと感じたのか、静雄が心配そうな表情を浮かべる。
「おい、どっか具合でもーー」
「触るな!!」
 額へと伸ばされた手を反射的にはたき落す。自分でも驚くほど大きな声が出た。呼吸が荒い。静雄は突然のことに唖然とするも、すぐに苛立ちがやってきたようで眉間にしわが刻まれる。
「なんなんだよ、手前」
 払われた手をひらひらとさせ、臨也を睨みつける。それでなくとも朝まで仕事をしてきたので眠いから不機嫌です、といったふうな雰囲気を、静雄は上手に作り上げていた。
 なにか言わなければ、と口を開こうとするも言葉が出てこない。いつもの口八丁でごまかすこともできず、臨也はもっとも手っ取り早い方法をとった。
 無言のままケータイ画面を突きつける。静雄はそこに映し出されているものを認識しても動じることなく、静かに一度瞬きをした。
「……ああ」
 まるで肯定するかのような言動に、目を見開く。慌てて、否定してくれればよかった。予想を裏切る反応に、臨也の身体は縛られたように動かない。詰る言葉も、別れを告げる言葉も口にすることができなかった。
 真っ直ぐに臨也を見つめる目が怖い。どうして浮気がばれたというのに、そんな顔ができるのだろうか。その答えに気づきたくなくて、臨也はハンガーからコートをひったくる。この場から逃れたい一心だった。
 「帰るね」と早口につぶやいて静雄に背を向けるが、すぐさま腕を掴まれる。引き留めるためだろうかという、淡い期待は一瞬にして吹き飛んだ。ドンと乱暴に突き飛ばされ、身構えていなかった臨也は背中からベッドに倒れこんでしまう。
 状況を理解する間もなく、静雄が太ももの上にまたがる。ベルトに手をかけられて静雄がなにをしようとしているのか察し、臨也は絞り出すように叫んだ。
「……いやだ!!」
「なんだよ。手前もこうされたかったんだろ。知ってるんだぜ、手前が俺のベッドで抜いてんの」
 ぴたりと身体が静止する。心臓の音がうるさい。どうして。一体、いつから。
 臨也が固まったのをいいことに、静雄はすでにちぎれかけているベルトを外しにかかる。たしかに抱かれたかったのは事実だ。ずっとこうしたかった。だが女を抱いたその手で抱かれるなど、冗談ではない。
 抵抗の気配を感じ取ったのか、臨也がほんのすこし腕を動かしただけで静雄は本気で制圧しにかかってきた。起き上がろうとしただけで、頭を手で握られ勢いよくベッドに叩きつけられる。ぐにゃり、視界が歪んだ。頭が痺れ脱力しているうちに、静雄はびりびりと紙のように衣服を破いていく。
 目の焦点が定まるのに時間がかかった。生ゴミでも見るような視線とぶつかって、身体が怯む。カチカチと奥歯が鳴っているのは、屈辱か、悔しさか、恐怖か、それとも。臨也には見当もつかなかった。
「その顔が見たかったんだよ」
 悪魔のような微笑みで、静雄は言ってのける。ひどい顔をしているのはわかっていた。
 ついに静雄の手が下着に手をかけたところで、本気の蹴りを繰り出す。よもやこの期に及んで反撃されると思っていなかったのか、臨也の膝は正確に静雄の顎に命中した。
「ーーッてえな!」
「ぐぁッ……!」
 せき込むように振られた拳が頬をかすめる。跳ね起きようとした身体を片腕で押さえ込まれ、あっという間にマウントを取られた。首元を強く押さえつけられ、一瞬、息が詰まる。どうにか起き上がろうともがく臨也の胴体に、なおも静雄は片膝を食い込ませる。両腕を使って退かそうとするが、ビクともしない。
 圧倒的な力量差。体格のいい男に押し倒されるのは、想像していたよりずっと恐怖を感じるものだった。恐怖に縛られて、臨也はついに身体の自由を忘れた。捕食する側とされる側が、これ以上になくはっきりしている。
 静雄は慄く臨也を嘲笑い、リボンタイとベストを放るだけという、最低限の脱衣を済ませる。スラックスのチャックが下されれば、下着の上からでも静雄のそれが主張しているのがわかった。硬くなったそれを膝に押し付けられ、身体が小刻みに震える。男の性を見せられているようで、ゾワゾワと鳥肌が立つ。
 ずっとこうしたかったはずなのに嫌悪感を感じるなど、おかしな話だ。一方、俺相手にでも勃つのかと、この状況でホッとしている自分がいた。
 静雄はなんの躊躇いもなく、乾ききっている尻穴に昂ったものをあてがう。自然に濡れる女のそことは違うということを、静雄はわかっていない。そのような扱いをされたら、確実に裂けてしまう。
 女相手になら、きっと優しくしているのだろうけど。馬鹿げた気持ちが一瞬、胸をよぎったが、尻に熱を感じて現実に叩き戻される。
 このまま静雄の好きにさせたら、大惨事になるのは間違いなかった。それでも静雄は構わないのだろうが、受け止める側としてはたまったものではない。逃げようとしたのはほとんど本能に近かった。
 両肘をついてベッドの上部へずりあがろうとするが、静雄は目ざとくもそれを見逃さない。些細な抵抗も許す気がないようで、がっしりと臨也の腰を掴んで引き戻してしまう。まるで逃げられない。恐怖で声が上ずる。
「ま、って。そんな、無理だって」
「黙れ。口ひらくなよ、うぜえから」
「そこ、そこの棚にローションがあるから、それつかって……お願い、だから」
 静雄は苛立ちを隠さずに舌打ちし、臨也に乗り上げた体勢のまま片手で棚を漁る。封の切られていないローションを見て、静雄はたちまち気を良くしたようににんまりと口角を上げた。
「手前、こんなもん用意してたのかよ。気持ち悪い」
 臨也はなにも答えない。浴びせられる侮蔑の視線から逃れようと、頬をシーツに押しつける。カッと熱くなる頬も静雄の嘲笑も、すべて知らないふりをした。
 この行為に、感情も言葉も必要ないのはとっくにわかっている。臨也が沈黙を決め込めば、静雄はもう一度舌を鳴らしてバリバリとローションの包装を引き裂く。
「ひッ……」
 静雄はローションを一度手に取り温める、などというまどろっこしいまねはしなかった。なんの前触れもなくローションを直接なかに注ぎ込まれ、情けない声があがる。異様な冷たさに腰が逃げを打つが、静雄はぬめりを帯びた液体が外に溢れるまで乱暴に注入を続けた。
 気持ちわるい。無意識に口に出てしまっていたようで、聞いた静雄は嗜虐的な笑みを浮かべる。
 臨也にダメージを与えられれば、実のところなんでもよかったのだろう。それがたとえ、セックスだろうが、そうでなかろうが。
 泣き言を漏らせば静雄を喜ばせるだけだとわかっていたから、唇の裏をきつく噛んで口を閉ざす。臨也がそれ以上の反応を示さないとわかれば、静雄はつまらなそうな表情をした。
 なにも見たくなくなってまぶたを閉じてしまったから、直後静雄が口角を持ち上げたことに気づけなかった。様子を見るように、というよりは脅しの意を込めて、くすぶった熱を尻の割れ目に数度擦りつけられる。雄の性を感じて、臨也の身体が凍りつく。
 静雄はあえて臨也の身体が強張った瞬間を見計らったようだった。突き刺すような挿入に遠慮、配慮は当然ない。
「ーーッ、ハッ……!」
「っく……」
 想像を絶する痛みに呼吸もままならない。はじめての臨也にとって、潤滑油などなんの助けにもなってくれなかった。
 血の気が引いて体温が下がり、冷や汗が噴き出す。すこしでも気を緩めたら意識が飛んでしまいそうだ。臨也の真上で、静雄も息を詰めたのが気配でわかった。
 皮膚を引き裂き内臓を無理やり押し広げながら、徐々に奥へと入ってくるのが見なくともはっきりわかる。全然、気持ちよくなんかない。
 吐き気が喉元まで込み上げて、何度もえずく。吐き出してしまえれば少しは楽になるのだろうけど、そのようなわけにもいかず、まぶたをきつく閉じてただ耐える。喉の奥が酸で焼けてしまいそうだ。
「ーー手前、なんだよそれ」
 意識が浮きかけて、静雄がなんと発したのか聞き取れなかった。臨也が答えられずにぐったりとしていると、答えを促すように軽く頬を叩かれ、薄っすらと目を開ける。力なく静雄の視線をたどると、真珠の粒がシーツに転がっていた。
「手前も化け物じゃねえか」
 ギュッと心臓を握りつぶされた心地だった。ポロリ、またひとつ目尻から真珠がうまれる。腰を揺するたびに溢れる白い玉を面白がって、静雄は容赦なく奥をついた。
 自分の舌や唇の裏を噛むことで、どうにか声を堪える。これ以上、惨めになりたくなかった。痛い、気持ちわるい、早く終わってほしい。その三つだけがぐるぐると臨也の頭を掻き回し、かろうじて正気を保っていた。
 静雄はしきりに「声を出せ」と命じたが、ついに臨也は意識を失う最後まで、声という声をあげなかった。
 わかりきっていたことだが、目を覚ました時、隣に静雄はいなかった。


 その日から静雄は、頻繁に臨也を抱くようになった。恋人同士でも強姦が適用されるのだから、抱く、というよりは犯す、のほうが正しい表現かもしれない。恋人という前提が破綻していることには目を背けた。
 愛情も気遣いもない、ただ静雄が欲を吐き出すための行為。臨也を気持ちよくさせてやろうという気はさらさらないらしく、晴らせなかった欲求を消化するために自身を自らの手で慰めるのは、もはやお決まりになってしまっている。ひとりきりの部屋で静雄の体温の残るシーツにすがり処理をするのは、惨めでやるせなかった。
 嫌がらせのつもりか、臨也を犯すときは静雄の身体に女の香りが残っていることがほとんどだ。臨也は気づいていないふりをして、きつく目を閉じ、声を殺して食い尽くされた。
 激しく揺さぶられれば、痛みだけのせいではない涙で視界がぼやける。静雄が乱暴なまでに無茶な抱き方をするのは、臨也を傷つけたいという理由だけでないことはとっくに気づいていた。目を覚ますと決まって綺麗になっているベッドが何よりの証拠だ。
 臨也が気を失うまで抱いては、静雄は一面に散らばった真珠を残らず回収していく。ここ最近になって静雄が質屋へ頻繁に顔を出しているという目撃情報が、複数の掲示板で浮かび上がっていた。真珠を売った金で女を誘っているのだと思うと、自分の目玉をナイフでくり抜いてやりたくなって、鏡にナイフを突き立てた。
 それでも静雄から離れることなどできなかったのは、やはり惚れた弱みというやつなのだろうか。もらった合鍵を使って家に入れば、また手前かと不法侵入者に浴びせるような視線を受けたが、臨也は笑って受け流し、以前と同じように食事を用意し、弁当も作る。あくまで何事もなかったかのように振舞おうとする臨也に、静雄は気味の悪そうな目を向けた。
 愛想の一切を捨てた静雄だが、それでもまれに雰囲気が和らぐことがある。おやつや食後のデザートとして甘いものを用意してやったときだけは、あの凶暴さもなりを潜めるのだ。とりわけフレンチトーストを気に入ったようで、静雄はぶすっと顔を顰めながらも、パクパクと口に運ぶ。それだけでよかった。
 どうせ、離れることなどできないのだから、このままでいい。静雄への好意に気づく前から、それはわかっていたことだ。
 静雄を物理的にどうにかできないと諦めの気配が胸に漂ってからは、あらゆる手段を用いて静雄から離れようとしたこともある。結果、臨也は池袋から新宿へと身を移し、物理的に距離を置くことが最善策であると結論づけた。
 だがそれによって池袋との縁が完全に切れたわけでもなかったから、臨也は仕事を受ければ池袋に赴くこともあったし、静雄は理不尽な出来事があればたとえ原因が臨也でなくとも事務所に乗り込んでくる。離れる、という意味では不完全であった。
 そうしてずるずると腐れ縁を引きずるうちに、どういうわけか煮詰められた執着はいつしか好意にすげ替えられてしまった。それが全てである。
 真珠とセックスーーいまでは前者がほとんどの目当てだろうがーーで静雄を繋ぎ止めておけるなら、安い代償だ。手の中で光るエメラルドを何度も指の腹で撫でる。以前よりその深緑が曇って見えるのは、臨也の心が晴れないからだろうか。
 大丈夫、なんの問題もない。言い聞かせて、巾着袋にしまったそれを慎重にポケットへ押し込んだ。

 臨也を犯してからの静雄の態度はまるでこれまでとは別人のようだった。箍が外れたのだと思う。自分の感情を偽って臨也に優しく接することもなくなったし、金遣いも女遊びも荒くなった。その資金源はもちろん、臨也の瞳から溢れた真珠である。
 静雄はほとんど毎日のように臨也を無理やり犯しては、ありったけの真珠を回収した。わずかでも抵抗する素振りをみせたり、「今日は体調がよくないから嫌だ」などと理由をつけて断れば、静雄は口答えするなと言わんばかりに一層手酷く扱った。
 苦痛しか感じられない行為に、急速に疲労が溜まっていく。いよいよ日常生活や仕事にも支障が出てしまって、直接会わずに済む取引以外はすべて断らざるをえなくなった。こんな仕事だ、なにがあるかわからない。身を守ることを最優先で考えた結果だった。
 だがそれもいつまでも長引かせるわけにはいかないことも、臨也はよくわかっている。静雄はそのような事情など微塵も気にせず、今日もまたいつものごとく「真珠を出せ」と臨也を殴りつけるように押し倒す。
 静雄の言う「真珠を出せ」はそのまま、犯すの同義である。臨也のことを金としてしか見ていないのがよくわかる。いや、金ならまだいい。ほしいと言われればそのまま与えていただろう。
 静雄はまるで臨也のことを人間として扱っていない。あの日言われた「化け物」という言葉は、臨也の中で根を張り巣食っていた。
「シズちゃんさ、俺、べつに真珠の使い道についてどうこう言うつもりはないけどさ。その誘い方はちょっとデリカシーがないんじゃないかなあ」
「ああ?」
 ズボンを脱がしにかかっていた手が止まり、ピクリと眉が引き攣る。顔が引きつったのは静雄だけでなかった。つい、口をついて出た一言に血の気が引いていく。
「いや、するのが嫌だとかそういうわけじゃなくて。ただ『しよう』の一言だけでいいだろって」
「なんだあ臨也くんよぉ、気に食わなければとっとと出てけよ。俺は構わないんだぜ? おら!」
「ちょっと待ってよ、だから……うわっ」
 慌てて弁解するも遅かった。胸倉を掴まれ、投げるようにベッドから落とされる。その弾みで、ポケットから小さな巾着袋が落ちた。恐ろしい事態を想像して、ヒヤリとする。
 まずい。割れてしまったかもしれない。
 急いで拾いあげようとするも、静雄のほうが早かった。臨也の慌てぶりを見て、ただの巾着袋でないと嗅ぎ取ったのだろう。
 袋から丁寧にしまわれたエメラルドを取り出し、蛍光灯にかざして覗き込む。中身が石だとわかれば途端に興味が薄れたようで、キラキラと光を反射させるそれを手のひらでぞんざいに転がす。乱暴な扱いに心が冷えた。
「なんだ、これ。宝石か?」
「返せ!! それは……!」
 声が荒ぶる。我ながらひどい声だった。喧嘩していた頃でさえ出したことのない声に静雄も驚いたのだろう、動きをとめて瞠目している。静雄の手に飛びかかって取り返そうとするが、ひょいと腕を上げられてしまい、勢いあまってベッドへ倒れこんだ。
「へえ……これ、そんなに大事なモンなのか」
 静雄の嬉しそうな声に、身体が硬直する。嫌な予感がした。
 静雄は自身の顔の横にまで石を持って行き、見せつけるように人差し指と親指で挟む。なにをしようとしているかなど、容易に想像がついた。
「ーーやめて!!」
 それは、静雄と結ばれた夜にうまれたエメラルド。それだけがいまでは臨也の支えなのだ。
 必死の懇願も甲斐なく、ただでさえ脆いその緑の宝石は静雄の指で簡単に砕かれ、散った。粉々になった欠片がパラパラと指の隙間からこぼれていく。すう、とよくない冷気が臨也の心に入り込んでくる。
「手前、もう来んな」
 ハッ、と臨也の反応を鼻で笑い、テーブルに置かれたタバコを手に取りさっさとベランダへ消えていく。静雄の背中を見つめることもできず、ただただ床に散ったエメラルドを眺めていた。


 存在感を消す、というのは臨也にとってはなんの造作もないことである。それが物理的な意味でなら尚のことだ。
 静雄が仕事へ出ている時間を見計らい、こっそりと部屋を訪れる。ここへ来るのは一週間ぶりのことだ。これまで一日と空けずに訪問していたからか、たいした日数も経っていないのになんだか懐かしさすら覚える。
 アパートのすぐ脇にある使われていない駐車場にレンタカーを停めた。ひとをつかうこともできたが、いくら昼間でもそれは目立ちすぎてしまう。
 トランクを開け、かさ張らないようにたたんで詰め込んだ段ボールを担ぐ。急な造りの階段には骨が折れたが、おおきなトラブルなく静雄の部屋へ持ち込むことに成功した。
 ひさしぶりに嗅ぐタバコの香りが、いやでも鼻腔に入り込んでくる。感傷に浸る柄ではないと暗示をかけて、事務的に淡々と作業をこなしていくことに専念した。
 ふわふわと抱き心地のよい羽毛クッション。歯ブラシ、シャンプーなどの日用品から、買いそろえたシンプルな食器。凝った料理を食べさせたくて足した調味料。臨也が持ち込んだ物を片っ端から箱のなかへと詰めていく。
 捨てることが前提だから、順番など気にせず割れ物も乱雑に段ボールへ押し込んだ。静雄のために増えていった料理本。ページの端を折られた旅行雑誌。
 たくさん物が増えたと思っていたが、改めて見直すとそうでもなかったらしい。実際に使用した段ボールは、用意した半分にも満たなかった。
 すべてを箱に詰め終えて、最後に静雄から受け取った合鍵をテーブルに置いた。こうして臨也の痕跡の残るものを箱に閉じ込めてしまえば、はじめからなにもなかったように思えるから不思議である。
 いつだって物事は作り上げるより、壊すことのほうがずっと簡単だ。そんな言葉をいつだったか、臨也を盲信的に慕っていた女の子に語った記憶がある。まったくその通りだと、声をあげて笑いたくなった。
 黙々とガムテープで玄関に集めたダンボール蓋をする。部屋をあとにする前にもう一度だけなかへ戻り、ポケットから取り出した小瓶をカーテンの裏に隠す。
 どうしても捨てられなかった、色とりどりの想いの結晶。これだけは静雄の手で処分してもらおう。窓台の隅など普段から気にするやつではないから、いつになるかなどまったくわからないが。
「さよなら」
 誰ともなしにつぶやいて、ドアを閉める。もう二度とここをまたぐこともないだろう。鍵を閉めていかなかったことを、静雄は怒るだろうか。
 停めてある車のトランクに、膨らんだダンボールを手早く運び込む。最後までひとに見られることのなかった自身の運のよさに舌を巻く。
 慣れない手つきでキーを回してエンジンをかけ、シフトレバーをドライブへいれる。できるだけ遠く、思い出を燃やせる場所を求めて車を走らせた。



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