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 それから二時間は早く起きて、前日に作っておいた生地を片っ端から乾燥させ、焼成、その間に無心で翌日分の生地を作るという日々が始まった。
 臨也がこうしている間、静雄は臨也の貴重な睡眠時間を奪っているとはつゆ知らず、布団の中でぐーすかいびきをかいているのだろう。微笑ましいと思う反面、静雄の眠る枕にナイフを突き立ててやりたいという気持ちが胸でせめぎあっている。ボウルを感情のはけ口に、ただただ黙々と手を動かし続けた。
 換気扇を全開にしていれば波江の出勤前に匂いは消えるだろうと踏んでいたが、鼻の利く彼女はすぐに異変に気づいたらしい。揶揄する言葉でチクチクと刺してくるだろうと予想していたが、意外にも眉を顰め、猜疑の目を向けるだけに留まった。なんの言葉も発していないのに視線だけでここまで気圧されるのだから、恐ろしい秘書である。
 しかしこれが何日も続くとなると、波江も黙ってはいなかった。
「あなた、いつまでそれを続けるつもり。服にもその甘ったるい匂いが移るし、朝から不景気な顔を拝まなければいけないしで、いい迷惑だわ。そもそもわたしが誠二のために揃えたものを勝手に漁って使うなんて、自分がどれほどの罪を犯しているのか理解しているのかしら。本来なら有無を言わせず新薬の実験台にしたいところだけど、収入源がなくなって困るのはわたしだから勘弁してあげる。とにかく、使ったものはきちんと補充しておいて頂戴」
「いや、そもそもこれ経費で落としてるものだろ。私用で使うのに経費を出してあげてる俺の寛大さに目を向けて欲しいね。あ、ところで波江。マカロンって作れる?」
 減っていく材料の種類で大体の見当がついていたのだろう。急に話題が変わったにも関わらず、波江は眉ひとつ動かさずに「当然よ」と答えた。
「昔、誠二がまだ中学生だった頃によく作ってあげてたわ。あの子ったら、姉さんの作るマカロンが一番おいしいって言ってくれたのよ。だからもっと喜んでもらえるようにたくさんのガナッシュをーー」
「うん、君の誠二くんに対する愛の重さはよくわかった。で、肝心の当時のレシピは?」
 いつまで続くかわからない話を早急に切り止める。いい加減うんざりだと皮肉の一つや二つも織り交ぜたかったところだが、それで機嫌を悪くされてしまったら元も子もない。波江はこちらに向き直り、いつものごとく無表情で冷たく言い放った。
「そんなものはないわ」
「は?」
「わたし、料理は感覚で作っているから。もちろん基本的なレシピはネットで調べたけど、それだけよ。もう覚えてなんかいないわ」
 つい先ほどまでお菓子作りを失敗した人間がこのセリフを聞いて、イラっとしないやつは一体どれほどいるのだろうか。張り付けた笑顔は崩れることはなかったが、ひくひくと痙攣する目元の筋肉まではコントロールできなかった。
 確かに臨也も感覚で料理をすることもあったが、それはある程度場数を踏んでいたり、調味料で誤魔化せるものに対してだけだ。臨也の場合、菓子にそれは通用しない。目元を指で解しながら、視線を波江に戻す。
「なるほど、なら質問を変えよう。成功させるのに意識していたコツとか、そういうものは何かないかい?」
「ないわ。失敗したことないもの」
「ああ……そう」
 ここまで潔く言い切られては、それ以上追求する気には到底なれなかった。目元だけに留まらず、口元の筋肉までも反抗期を迎えてしまう。波江はそんな臨也を見上げるようにくいっと顎を引き上げて、鼻先で笑った。
「その様子だと失敗続きみたいね。間に合うのかしら?」
 あえて主語がないことが、何もかもお見通しです、というのを強調している。まるで自身のやり口をそっくり返されてるようで、複雑だ。
 隠しているわけでもなかったから構わないのだが、かといってこのような暴かれ方は気分のいいものでもない。とはいえ今更隠し通せるわけもないから、赤裸々に打ち明けた。
「正直、なかなか追い詰められていてね。レシピの通りに作っているっていうのに、必ずどこかしらミスが出る。さっぱりだ」
「あら、あなたにしては珍しく殊勝なのね。見せてみなさい」
 許可を取る気は元からないようで、波江は迷うことなく、キッチン棚の隅に押し込んでいたビニール袋のもとへと一直線に向かう。全く、いい性格をしている。
 波江は中に詰め込まれた失敗作をいくつか手に取り、まじまじと見つめる。それを潔く半分に割って中身を確かめ、口に運ぶ。咀嚼した直後、ほんの僅かに眉を寄せた。露骨な反応にこちらの眉も下がる。
「マカロンというよりクッキーね。焼き加減と乾燥条件の問題じゃないかしら」
「俺もそう思って色々試してみてはいるんだけどさ。ちょうどいい加減っていうのが難しくてね」
 波江は全てを食べきることなく、ちょっと口にしただけのそれを、ほいっとゴミ袋の中にマカロンもどきを戻した。つまりはそういうことなのだろう。
 後の始末はするからと、波江の手からゴミ袋を受け取る。悄然とした心境を悟られたくはない。
 気分転換に炭酸飲料を求めて冷蔵庫を開ければ、溜まってしまっていた黄身と対面した。そういえば、腹も減っている。台所に立ったついでだ、湯を沸かして引き出しからフィットチーネを取り出す。
「波江、お腹空いてたりするかい?」
「いいえ。食べるほどではないわね」
「そう。じゃあ先に失礼するよ」
 好きにスケジュールを変更できるのは、この仕事の利点だ。最近はこの甘すぎる匂いのせいで食欲がなかったから、朝は抜いていた。昼にはやや早いが、たまにくらいいいだろう。
 手元にある材料で作った、出来合いのカルボナーラに黄身を絡めていく。難しい料理でないから、この程度なら臨也もレシピを見ずに感覚でどうにかなる。
 食べないと言ったのに、出来上がったカルボナーラに一番初めに口づけたのは波江だった。臨也の手からフィットチーネが絡んだフォークをするりと奪い、無表情のまま歯を動かす。
「可もなく不可もなく、と言ったところかしら。あなたの料理って、リアクションに困るのよね。特別おいしくもなければまずくもない、つまらない一般的凡人の味よ」
「勝手に食べておいて辛辣だなあ。まずくないだけいいじゃない」
「あら、あなたってそういう面で妥協するタイプだったかしら? 人には完璧なものを要求するくせに、随分あまちゃんなのね」
 ムッとした感情を瞬時に殺して、ひらひらと手を振ってみせる。嫌味を言われても澄ました顔のままの臨也に、波江はあからさまに顔を顰めた。
 それくらい、わかっている。妥協できないから困っているんだ。

 臨也の都合など知らないバレンタインは当然、待ってなどくれない。ついに翌日に差し迫ったタイムリミットに、焦りと苛立ちばかりが募っていく。
 二週間という膨大な時間を費やしたというのに、納得のいく結果となったものはひとつもない。可能性は片っ端から試した。間に合わないのは火を見るよりも明らかであった。
 ーーどうすれば。
 順当に考えれば、今から作るものを変更するのが無難な妥協策だろう。これなら、まだ食べられるものが出来上がる可能性がある。
 しかしと、静雄の描いている臨也のイメージや、高すぎるプライドがブレーキとなる。なにより、静雄の落胆した顔を見たくない。いや、見た目だけマカロンであるほうが、口に入れたときにがっかりするのでは。カチカチと時計の秒針がうるさい。
 散々悩んで悩み抜いて、静雄の要求より、ちょっとでも見目のいいものをおいしく食べてもらうことを優先しようと決めた。難しい計算や取引先との駆け引きより、よっぽど頭を使った気分だ。
 自身にこれほどまでに優柔不断な面があることに驚かされる。静雄と時間を共にするようになってから、知らなかったことに気づかされることが多い。
 感傷に浸る間もなく、決定案を行動にうつす。今からでも間に合い、それでいて失敗のなさそうなものをネットと脳内のデータで検索をかけていく。
 まず浮かんだのは静雄の好物、プリンだった。難易度としても悪くはないが、それだけではあまりに安直するぎる。なにか捻りを加えようとアイデアを求め、画面をスクロールしてはクリックし、また新しい画面を開いては閉じていく。
 焼きプリンだったり、ピンク色をしたプリンだったり、色々と候補は上がるがこれというものが見つからない。いっそのこと、バケツプリンでもありだろうか。美しさには欠けるが、インパクトは何にも劣らない。だがやはり思いきれず、カチカチとマウスを鳴らしてはページをめくっていく。
 新しいページを開こうとしたところで、一瞬画面が乱れて別のサイトを開いてしまった。料理をメインにした一般人のブログのようだ。希望を持って記事の一覧をさがっていく。あるタイトルに目が留まり、マウスを弾いた。
 プリン・ティラミス。
 メインに使われている材料は、プリンとビスケットのふたつだけ。見た目もなかなか洒落ているし、難易度もそう高くはない。これなら十分間に合わすことができる。
 読み進めていくと、どうやらこのレシピでは市販のプリンとビスケットを使用していることが判明した。さすがにただ市販の食材を重ねただけのものを、手作りと称して静雄に差し出すことはできない。
 幸いにもプリンもビスケットも、昔妹達にせがまれて作ってやったことがある。大きな失敗をした記憶はないから、今からでもとりあえずの形にはなるはずだ。
 バタバタと忙しなく冷蔵庫を開けて、肝心の生クリームがないことに気づく。品質の良い材料を仕入れたかったが、急遽のレシピ変更だ、やむを得ない。市販のものでも用は足りる。コートを羽織り、掻っ攫うように財布ひとつをポケットに詰め込んで、暖かな部屋をあとにした。

 マンションの自動ドアを抜ければ、先を急ぐように北風が吹き抜けていく。一瞬にして体温を奪われ、寒さにぶるりと身を縮めた。近くだからという理由で防寒を怠った自身を恨めしく思う。やはりホッカイロはつけてくるべきだった。だからと言って今更戻るほうが面倒なので、フードをかぶりスーパーを目指す。とにかく早く暖かい場所へ逃げ込みたい。
 フードを片手で押さえ、うつむき加減に風をきってスタスタと足を動かす。早足に角を曲がろうとしたところで、思わず顔を上げる。聞き覚えのある声が耳に飛び込んできたからだ。
 当日まで会えないと言ったのに、会いに来たのか。それならそうと連絡を寄越せばいいのに。
 小走りで声のするほうへ近づき、似つかわしくないあだ名がでかかった寸前で、身体がぴたりと停止する。心臓がひやりと冷えた。半反射的に手前の路地に身を滑り込ませる。静雄の影から、風になびく金髪が見えた。
 ーーなぜ、あの娘がここに。
 仕事中だろうか。だが、静雄達の上司である田中トムの姿が見えない。普段は決まって、三人で行動していたはずだ。
「さっきのアレで最後か?」
「肯定です。わたしの記憶が正しければ、先程の滞納者の取り立てで本日の業務は最終、終了です」
 この位置からではぼそぼそとしか聞こえなかったが、不穏な会話ではなさそうだ。こちらに気づかれぬよう、気配を消してギリギリまで距離を詰める。
「意外と早く片付いたな。池袋じゃねえからもう少しかかると思ってたけどよ」
「半分肯定、半分否定です。慣れていない場所での業務、当然時間がかかります。しかし静雄先輩の卓越した膂力と知名度で即刻解決、問題ありません。予定通りの就業時刻です」
「それって褒めてんのか……?」
 臨也が同じような内容を口にすれば確実に怒りに触れていそうな評価を、ヴァローナは恐れもせずにやすやすと口にする。彼女の場合、悪意が感じられないから静雄としては気にならないのだろう。
 少なくとも、会話の内容から業務中であることは理解した。ふっと肩の力が抜ける。しかしこのタイミングで出ていくこともできなくて、不自然に見えないようにケータイをいじるふりをしつつ聞き耳をたてる。
「にしてもここの担当者だけじゃなく、トムさんまで風邪っていうのは心配だよな……っと、仕事も終わったし、ダラダラしてないでとっとと帰るか。お前まで風邪引いちまったら大変だしよ。回収した金は俺が会社に届けておくから」
「待ってください!」
 ひらひらと手を振って歩き出した静雄の背中を、高い声が引き留めた。静雄のほうへと駆け出そうとした身体がピシリと固まる。投げられた声は若干、上ずっているように聞こえた。どうやら、完全に出て行くタイミングを逃してしまったらしい。この時点で、臨也はこれから起こることをなんとなく予測していた。
 静雄は不思議そうに立ち止まり振り返って、首を傾げる。ヴァローナは小走りで距離を詰めて、ごそごそと厚手のコートを漁る。焦っているのか、なかなか目当てのものを取り出せないようで、ぶつぶつと小言をこぼして苦戦している。やっとのことでコートの中から現れたのは、淡いピンクと水色で彩られたかわいらしい紙包みだ。
 ーーああ、やっぱり。
 ヴァローナは戸惑っている静雄の胸に、突きつけるようにして差し出す。それが何であるかは、一目瞭然であった。
「一日早いですが、謝礼の献上です。日本ではバレンタインに、女性から男性にチョコレートなどの菓子を贈呈し、日頃の感謝を伝える風習があるという情報を取得した次第です。受理してください」
 息を詰めて、半反射的にぴたっと壁に体を貼り付けた。先のタイミングで堂々と出て行かなかったことを後悔する。だって、気づいてしまった。ヴァローナの頬は赤らんでいる。
 以前から薄々そうでないかと勘ぐってはいたが、疑念は確信に変わった。日頃の感謝以外の感情が、あのプレゼントに込められている。あのラッピングからするに、手作りであるのは間違いない。
 キュッと口元を引き締めた。こういう時に限って、静雄はこちらに気づかない。
「あ……? なんか違うような気もするけどよ……」
 静雄はがりがりと襟足を掻いて、お茶を濁す。困ったときの癖だ。静雄はすぐに感情が表にでる。鈍い静雄はヴァローナの気持ちに気づいていないようだし、あの反応ではただの社交辞令だとでも認識しているのだろう。
 静雄にとってヴァローナは初めてできた後輩だ。その後輩が、先輩を慕ってバレンタインに菓子を用意していてくれた。嬉しくないわけがないだろうし、後輩の気持ちを無碍にすることなど、静雄にはきっとできない。
 そして律儀な静雄は一ヶ月後、彼女にお返しを用意する。一連の流れが容易に想像できて、ギリっと歯噛みする。
 静雄はお菓子を受け取る。そして恐らくヴァローナが手渡すその中身は、臨也がこれから作ろうとしているものよりおいしくできているはずだ。
 ーーもらえばいいだろ。君の好きな甘いお菓子だ。それも、後輩手作りの。
 心の中で吐き棄てる。握りしめた拳が冷たい。
「……悪い。せっかく用意してもらったんだけどよ、もらえねえ」
 ハッと顔を上げ、目を見開く。聞こえた声に小さく、「なんで」と声が漏れた。身を乗り出したい気持ちを必死で抑えつける。
 疑問を抱いたのはヴァローナも同じだったようだ。顔をより赤く染めて、掴みかからんばかりの勢いで静雄に切り返す。
「な、なぜですか! 説明を要求します!」
 怒ったような、それでいて悲しんでいるような、情に訴えかける声だった。ああいう声はずるい。演技ならともかく、素であの声を出すなど、臨也には到底真似できない。
「いや、よ。すげえありがてえし、本当に嬉しいんだ。後輩からこういうものもらうの、初めてだから。でも、これを貰ったら、拗ねちまうやつがいるんだ。だから、ごめんな」
 拗ねちまう、って。他でもない、臨也のことだろう。静雄の表現の仕方に、もっと他にあっただろうと頬が焼ける。
 ヴァローナは納得いかないと反駁のために口を開きかけたが、くしゃくしゃっと大きな手に髪を掻き回すように頭を撫でられ、口を閉ざす。渋々ながらも頷いたヴァローナに、静雄は先輩ぶった顔つきで「ありがとうな」と微笑んだ。
 普段ならこれらすら快く思えないが、今日くらいは許してやろうと思う。
 臨也はくるりと向きを変え、緩んだ口元に気づかぬまま、当初の目的とは反対側のスーパーを目指した。



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