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 一月二十八日。まともな意味でのお付き合いを始めてから、一回目の静雄の誕生日だった。
 言うまでもなく、臨也は張り切って下準備に取り組んだ。気合いを入れているのがバレないように自然に振舞いながら、それとなく探りを入れる。念入りなリサーチのもと、考えられる上でのとびきりの演出、プレゼントを用意した。抜かりはなかった。
 回りくどくなってしまうし、思い出してやるせなくなってしまうから、スパッと結果から述べよう。
 初めての静雄の誕生日は、大失敗に終わった。

 異変に気づいたのは当日のまだ夜も明けきらない、薄暗い時間帯だ。
 異様な寒気と息苦しさにうなされ、目を覚ました。寝相は悪くないし、毛布を肩までかぶった記憶もある。視線を下にやったが案の定、布団はベッドに入った時と変わらずの状態であった。
 しばらく待っても震えは止まらず、暖房をつけようと身体を起こす。それだけで視界がぐらりと揺れた。自身の身体に起こっている状況をようやく理解し、ショックを受けた。それはもう、言葉にならないほどの。
 どうして、よりにもよって今日なんだ。
 一度覚醒してしまえば、再び熟睡するのは困難を極めた。加湿器の音と、クーラーの音、そして荒い吐息。何度も意味もなく同じような夢の浅瀬を彷徨った。嫌な夢だった。それは、数時間後に正夢となる。

 生真面目な静雄は、時間ぴったりに臨也の家にやって来た。その頃には枕元にある体温計は三十九度を指していて、目を閉じていても目が回る有様だ。玄関まで出迎えるのも壁伝いでなければ立てないほどで、平然と振る舞うのには無理のある体温であった。どうにか玄関を開けることはできたものの、臨也の意識はそこで途絶えた。
 再び目を開けばベッドに逆戻りしていて、これも夢だったのかと期待を持ちかけた。が、すぐ横で心配そうにこちらを見つめる静雄が夢でないことを証明している。
 自明のことだが、臨也はとうとう丸一日ベッドから起き上がることもできなかった。そうして誕生日を迎えた静雄に世話をさせるという、あんまりな形で一日を潰したのだ。
 すっかり機嫌を損ねてしまったと思ったが、予想に反して静雄は穏やかであった。もっと言えば、数日間、嫌な顔ひとつせず泊まり込みで看病をしてくれた。その熱心で健気な姿勢に思わず涙ぐまずにはいられなかったほどだ。
 もともと世話焼きなのは知っていたが、まさかそれが臨也に対して発揮される日が来るようになるとは。とても嬉しいし、手放しで喜びたいが、そうもいかない。
 静雄はわざわざこの日のために、有給もとっていたというのに。それをこんな形で潰してしまうなんて。自己管理もろくにできないのかと、ほとほと情けなくなる。
 ぼんやりとだが、熱に浮かされた頭で何度も何度も謝罪の言葉を口にしたのは覚えている。静雄はその度に「気にすんな」といつになく優しい口調で返してくれた。臨也が素直ならば、静雄は大抵穏やかだ。
 熱すぎる静雄の身体がその時だけは冷たく感じて、なんだか新鮮だった。溜まった熱を逃がすように冷えた身体にくっつけば、静雄も積極的に腕や足を絡ませてくる。臨也の「きもちいい」と静雄の「あつい」がちょうど重なって、空気で溶けた。
 ストッパーが外れてしまったように、普段なら到底できないような子どもじみた甘え方をした。熱が出たら、こうまで素直になれるのか。ならたまには悪くないと思ってしまうほど、幸せだった。
 しかしそれは熱に思考を奪われていたからで、平熱に落ち着いてからは罪悪感と羞恥心の嵐が待ち受けていた。可能であれば、数日前の自分を刺し殺してしまいたい。熱があったとはいえ、よくもまあ大の男があんな風にできたものだ。どうにか羞恥心のほうは、夢だと思うことにして割り切ったが、罪悪感のほうはそうはいかなかった。
 翌日、目を覚ましたのはとっくに日が昇りきった頃で、一緒に眠ったはずの静雄の姿は隣になかった。代わりに「お粥と味噌汁を作ったから温めて食べろ。無理そうなら冷蔵庫にゼリーが入ってる。薬を忘れずに飲め。仕事が終わったらすぐに帰るからおとなしく寝てろ」といった内容の置き手紙が寝室のドアに貼られていた。ここなら確実に目にすると思ったのだろう。静雄らしい発想に笑みがこぼれる。
 かといって起き抜けに固形物を胃に入れる気にはなれず、切れてしまったスポーツドリンクを求めてリビングまで這い出る。やっとの思いで扉を開けて、臨也は不覚にもその場に立ち尽くした。ソファの上に、静雄宛のプレゼントが数個、大切そうに置かれている。
 この量では、診察に来た新羅だけからとは考えにくい。おそらく臨也の食べられそうなものを買い出しに行った時にでも、友人や弟などから受け取ったのだろう。臨也の知らぬ間に。
 当然、そこに臨也からのプレゼントは並んでいない。まだ渡せていないプレゼントは、寝室のクローゼットにしまわれたままだ。無性にやるせなくなって、キッチンでうがいだけ済ませ、ふらつく足で寝室に戻る。
 その日、臨也がプレゼントを渡せたのは、静雄が仕事から帰ってきた夕方になってしまった。それも冷えピタを貼ったままベッドの中から手渡すという、ムードの欠片もない最悪な渡し方だ。
 きっとあそこに並べられていたプレゼント達のほとんどは、当日中に届けられたものだったのだろう。当然、それなりのサプライズもあったはずだ。
 本来なら自分が一番に祝って、喜ばせるはずだったのに。どうしようもない嫉妬と後悔が胸で渦巻く。

 数日すれば喉の痛みや咳は残るものの、ほとんど体調は回復した。しかし時間が治してくれるのは風邪だけのようで、罪悪感までは拭ってくれなかった。静雄の顔を見るたびに情けなくなって「もういい」と言われたのにも関わらず、つい謝罪の言葉が口をついてしまう。
「ごめん。本当に」
「手前もしつけえな。気にしてねえって言ってるだろ」
「でも、」
 あー、と唸り声をあげてくしゃくしゃと自身の髪をかき乱す。謝ったところでやり直せるわけではないが、謝罪せずにはいられなかった。結果、それで静雄が困ったとしてもだ。なかなかに大きく育って、一度居座ってしまった罪悪感はそう簡単に引っこ抜かれてはくれない。
「ああー……じゃあよ」
 バッと顔をあげる。この言葉を待っていたのだ。静雄が考え得る望みを叶えるくらいの準備はできている。
「なに? なんでも言って。前から行きたがってた日本各地の温泉巡りだってすぐに手配するし、アフリカで象に乗りたいとか、南極でペンギンと戯れたいだとか、高級プリンをここからここまで全部買い占めたいでも、なんだって構わない」
 ソファから身を乗り出して早口に捲し立てれば、静雄は臨也の気迫にぐぐっと上半身を反らす。狼狽えながらも「さすがにアフリカとか南極はねえだろ」という冷静なツッコミをいれられるが、「本気だよ」と返せば黙ってしまった。
「本当になんでもいいのか?」
「もちろん」
 即座に言い切れば「そうか」とひとり言のようにつぶやいて、視線を上に持ち上げる。色々と思い描いては打ち消しているようで、悩んでいますというのが声に出ている。それからしばらくうんうん唸って思案していたが、いよいよまとまったようで静かに顔を上げた。
 さあ、と意気込んで上半身をぐんと近づける。が、答えを聞く前ににゅっと伸びてきた両腕に軽々と身体を持ち上げられて、静雄の股の間に運ばれた。突然のことに少なからず驚いたが、求められるがままずるずると静雄の胸にもたれかかって、腹の前に回された無骨な手に指を絡めつける。
 この体勢がただの甘えたでないことを、臨也は経験上よく理解していた。静雄がこういう手段に出るときは、臨也にノーと突っぱねられるであろう要求を通しにくるときだ。前に一度折れてしまったことで味を占めたようで、それ以来臨也にとって都合の悪い話をするときは決まってこの体勢である。事実、耳の後ろで強請る甘え声に臨也は弱い。
 だが今の臨也は静雄の望むことがどんな無謀なものでも受け入れるつもりであったし、叶えるだけの能力を保持している気でいた。
 このような手順を取らなくてもいいのに。すっかり癖づいてしまっている静雄がかわいいから、敢えて指摘はしない。
 静雄の唇が耳朶に吸いついて、指先がぴくっと震えたのを隠す。やたらと吐息の存在感が強い喋り方で、静雄はお願い事を口にした。
「じゃあよ、手前の手作りのお菓子が食いてえ」
「ん……えっ?」
 即座にイエスと返すつもりであったが、意外すぎる望みに驚嘆が漏れた。静雄は尻尾を振って媚びる犬のごとく、臨也の首筋に筋の通った鼻を擦り付けて言い開く。
「いやほら、去年のバレンタインは買ったやつだっただろ。あれもすげえうまかったけどよ、でも今年は臨也が作ったやつ、食べてえなって」
「それは……でも……」
 歯切れ悪く口をもごつかせる。口達者な折原臨也としてはありえないことだ。
 去年の二月の初めというややこしい時期に、詳細は割愛するが、告白という名の事故が起きた。だから静雄の誕生日は今年が初めてであったが、バレンタインは二度目である。
 去年は静雄が述べた通り、いわゆる買いチョコをプレゼントした。正直なところ付き合って間もなかったから何も用意する気はなかったのだが、静雄のそわそわとした期待のこもった態度に根負けしたのだ。
 一度決めたらとことん拘り抜く性格の結果、静雄がどう頑張っても一生食べることがなかったであろう、某高級チョコメーカーに特注で依頼し、唯一となるチョコを仕入れることに成功した。静雄もおいしいおいしいと幸せそうに食べていたし、手応えは良好であった。だから今年も当たり前のようにそのつもりで準備を進めていたのだ。
 困惑している臨也に気づいて、静雄は耳裏で囁くように付け加えた。臨也がふたつ返事で了承しないことをなんとなく察していたから、この体勢をとったのだろう。とんだ天然策士だ。
「そういえば、手前の料理って食ったことなかったなって。こういうのって、その、あれだ……男のロマンだろ? だから、そうだな……ああ、あれ食べたい。いろんな色があって、丸くて……」
「マカロン?」
「そう、それ。手前の作ったもんならなんでもいいけどよ」
 顔のすぐ横で無邪気に微笑まれ、重すぎる期待の眼差しに変な声が出そうになる。なにが男のロマンだ。俺だって男だと、声を荒げたくなるのをどうにか飲み込む。眉を八の字にして曖昧に微笑み返せば、静雄はそれを了承したと解釈したようで表情を輝かせる。
 正直なところ、料理はどちらかというと不得手であった。それも、菓子類は特に。
 調理中の、あの甘ったるい匂いも心地いいとは思えない。吐き気を催したことも珍しくなく、それを理由に作りかけていた料理を中断、放棄したこともある。料理はやはり包丁を持ってこそだ、という自論もそこから生まれた。
 目分量で料理する臨也にとって、グラム数がものを言う繊細な菓子料理はストレスを感じざるを得ない。
 よりにもよって、静雄は無邪気にも焼き菓子の中でも難易度が高いとされているマカロンを例に出した。今ならまだ取り返しがつく。どうにか手作り菓子以外に興味がいくように、それとなく誘導する。
「シズちゃん、そんなのでいいの? その気になればちょっとした連休だって作れるから、さっき例に出したような海外旅行もできるんだよ? 日本じゃ食べられないおいしいスイーツだってあるし。あ、ほら、前に本場のピザを食べてみたいって言ってたじゃない。こんな機会、滅多にないよ」
「いいんだよ。手前にばっか金の負担がかかるのは最初からナシだ。そういうのはよ、ふたりでコツコツ貯金して行くのがいいんだろ」
 不覚にも、少し、ときめいた。時々、しれっとそのようなことを言うから、タチが悪い。
 自分から言い出した結果だ。腹をくくろう。
「まあ、シズちゃんがそこまで言うなら……でも去年みたいなお菓子が食べれるなんて思わないでよ? あくまで素人が作るんだからさ」
「ああ、わかってる」
 先回りして、紙切れより頼りない保険をかけておくことは忘れない。静雄はあっさり頷いたが、この分では本当の意味で理解していないのだろう。これは当日まで静雄に会えそうにないなと、内心ため息をついた。


 静雄が帰ったら間を挟まずに猛特訓を始める予定であったが、あの後はなし崩しにセックスに流れ込んでしまい、結局静雄が臨也の家を出て行ったのは電車が動き出してからだ。「仕事がバタバタしそうだから当日まで会えない」と伝えれば、「それなら二週間分ヤり倒す」と宣言された通り、暴風雨のような激しいセックスだった。
 腰が痛んでしかたなかったが、あくまでいつもと変わらぬ態度を保って静雄を見送る。玄関では頬にキスもしてやった。静雄は終始にまにましていたから、臨也が無理をしていたことなど気づいていたのだろうが。
 静かにドアが閉まり、足音が遠くに消えていくのを聞いて、臨也はようやく行動を開始した。
 とにかく時間がない。一刻も早く準備を整えなければ。今日が波江の公休日であったことが、不幸中の幸いだ。
 プロでさえ失敗することも少なくないという、マカロン。素人が二週間足らずでマスターできるはずもないが、不恰好ながらも形にすることはできるはずだ。
 ネットを開いて膨大なレシピの中からいくつかを選別し、必要な材料、手順を確認する。思っていたより、材料自体はシンプルだ。この分なら波江が弟にたまにお菓子を作るからと、堂々と買い溜めているもので事足りるかもしれない。
 半ば波江の私物化している棚を開ければ、ぎっしりと調味料が敷き詰められていた。あまりの多さに呆然とする。料理のさしすせそから、臨也では何の用途に使うのかわからないような専門的なものまで揃えられている。まったく、いつの間にここまで収集したのだろう。
 キッチンに関してはほとんど波江任せであったから勝手がわからず、ひとつひとつ手にとって確認していく。そのうち几帳面に整理された法則を理解して、目当てのものは比較的はやく見つけることができた。
 臨也の予想通り、必要な材料は何もせずとも全て手元に揃えられていた。波江の強かさに感謝して、早速レシピに書かれている材料を台に並べていく。
 卵、グラニュー糖、純粉砂糖、純アーモンドプードル、着色料。見ればひとつひとついいところから仕入れられているものばかりだ。臨也には弟の予行練習程度の味見分しかあげないというのに、これを全て経費で落としていた波江にいっそ脱帽する。
 レシピを要約するに、卵白をメインに生地を生成して空気を潰す。完成した生地を絞って乾燥させ、オーブンで焼く、という流れらしい。一見簡単そうに思えるが、細心の注意をあちらこちらに払わなければならないのは嫌というほど了知している。
 失敗しないための注意点も同時にネットで検索したが、どれも長文ばかりで精神はすり減る一方だ。だが滅入ってばかりでは当然上達はしないし、試してみなければ始まらない。
 クローゼットの奥底に眠っていたエプロンを引っ張り出して、腰で紐を結ぶ。どこにでも売っていそうな黒の無地でできたエプロンは、長らく使われていなかったせいで薄っすらと皺が刻まれている。誰に見せるわけでもないから、役割を果たしてくれさえすれば問題はない。
 人気の集中している素人にも易しいレシピを基準にして、それぞれ必要な分量を計りで正確に取り分けていく。甘ったるい独特の匂いが立ち込めてしまっては遅いから、換気扇は予め回しておいた。
 卵を片手で二つに割り、殻の中で黄身を行ったり来たりさせて卵白だけを取り出しボウルにあける。放っておいてもいいようだが、なんとなく鬱陶しいからという理由でカラザはつまみ出した。後で波江に何か作らせようと、黄身は捨てずに取っておく。
 レシピを読む限り、分離させた卵白をそのまま使うことはできないそうだ。面倒なことに、ぷるんとしたこの弾力、コシを切らなければならないらしい。二、三日放置した卵白がベストだそうだが、そのようなものが都合よく手元にあるはずもない。やたらと泡立ててもいけないそうだから、不本意ながらもホイッパーで時間をかけてサラサラの状態までもっていく。
 慣れない作業をしたせいで、しばらくすると筋細胞が悲鳴を上げだした。何度か作業する腕を変えて休まずホイッパーを切り続けたが、見本通りになるのには二十分もかかってしまった。このような作業はもうごめんだと、次回のために卵白を取り分けてラップをかけておく。
 さらさらとすっかり頼りなくなった卵白を電動ビーターで泡立てながらグラニュー糖を足していき、角が立つようになった頃合いに残りの粉をドバッと放り込む。ここからはまたヘラを使い、手作業で生地を整えていく。マカロナージュといって、気泡を抜くのが目的らしい。気の遠くなる作業だ。なにが嬉しくて、このような代わり映えのない作業をしなければならないのか。砂糖の匂いに嫌気がさしてきたところでようやく、生地はとろとろと落ちていくリボン状に仕上がった。精神的にも体力的にもやけに疲れたが、ひとまず生地は完成だ。
 続いてしぼり袋に出来上がった生地を詰めて、適当な大きさをシートに絞り出す。器用を自覚しているだけあって、均等の大きさにするのは難しくなかった。さて次は、とレシピを見直して愕然とする。
 なんと、記事を乾燥させるために、この後三十分以上放置しなければならないらしい。だから菓子作りは嫌いなんだ。作業は基本的に休憩を挟まずやり切ってしまいたい臨也にとっては、ストレッサーの他ならない。
 だがこれを怠ったせいで失敗するのは余計に悪い。台所から離脱して、ケータイのタイマーを起動させる。今は一瞬でもあの匂いから逃げられるのを喜ぼうと、ソファにもたれかかった。

 ピピ、ピピ、と規則正しいアラーム音がうとうとと微睡んでいた臨也を起こす。いつの間にか眠りかけていたらしい。このまま眠ってしまいたかったが、乾燥のし過ぎも失敗の原因のひとつと書かれていたから、重い腰を上げて再び台所に立つ。
 たいした変化は期待していなかったが、どことなく乾燥前に比べて光沢も出ている気がするし、触れても生地が指につくこともない。レシピに示されている手本通りの状態だ。これはもしや一回目から成功、なんてこともあり得るのでないかと、臨也はこの日初めて喜んだ。
 オーブンの予熱が終了したことを賑やかな音楽が報せる。温度、時間を共に設定してオーブンの前に座り込み、薄暗い部屋の中を覗く。菓子作りの中で、唯一好きな工程だ。餅が膨らむのを観察しているわくわく感と似ている。
 膨張の程度も悪くないし、経過は順調に思えた。アラームが鳴るのと同時にオーブンを開ければ、むわっとした香りが真正面から顔に塗りたくられる。手を扇のようにしてぶ厚い匂いを拡散させ、手袋をはめた両手で焼けた板を掴み出す。
「……えっ」
 オーブンから取り出したものを見て、ちいさく叫ぶ。喜色の叫びではない、憂色の叫びだ。初めから成功できると確信していたわけではないが、少なからず期待していたところがあったから、ショックは大きかった。
 トップがへこんで皺がよっているもの、生焼けのもの、完全に膨らみきれていないもの。唯一まともそうな見た目のものをひっくり返してみるも、ピエがない。
「……うそだろ」
 何がいけなかったのか、すぐに原因を調べる気にはなれなかった。これだけ時間をかけたのに、まさか一つも成功がないなんて。
 見た目はともかく味はどうだろうかと、比較的まともなものを齧ってみて、顔を顰める。生焼けの生地が口内に張り付いて気持ち悪い。臨也の知っているマカロンとはかけ離れた食感だ。他のものは試食しようとすら思えず、シートごとビニール袋にまとめる。残ったのは使いっぱなしのボウルや、べたついたホイッパーだけだ。
 後片付けは翌日波江に任せればいいかとも考えたが、ただでさえ苛立っているのに、そこで例の嫌味を聞きたくはない。翌朝、自分で洗うために水に漬けておく。とてもじゃないが、今は片付ける気になれなかった。知らずに深いため息がこぼれて、ソファに背中から飛び込む。
 どうにも、幸先の悪いスタートとなってしまった。



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