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 アラームががらんどうとした部屋に響いて、目を覚ました静雄が臨也を揺すり起こす。実のところ眠ってなどいなかったのだが、相手に隙を作るのなら、まずはこちらが隙を見せてやるのが一番手っ取り早い。
 今日は休みだから一日一緒にいられるぞと微笑まれる。これっぽっちも嬉しくなどなかったが、臨也もこれ以上にないくらいの笑顔を作ってみせた。静雄とて必ずどこかに隙ができる。その気持ちの隙を突けばいい。相手の心の柔い所を突いて揺さぶりをかける。それは臨也の得意分野だ。
 臨也を見つめ何かを思い出したのか、そういえばと静雄は起きて早々忙しなさそうにベッドの下に置かれていた紙袋をゴソゴソと漁りだす。昨日の経験からいい予感はしなかった。そしてそれは見事に的中する。取り出されたのは黒いレザーで作られた、動物用にしてはやや大きめな首輪だった。臨也の頬の筋肉が笑顔のまま引き攣る。
「シズちゃん、それ……」
「おう、いいデザインだろ? 手前に似合うと思ってよ。手錠じゃ痛そうだったからな」
 臨也が訊きたかったのはそういうことではない。ただ、現実が受け入れられなかっただけだ。静雄は一度首輪を布団の上へ置き、臨也の両手首を包み込んで労わるようにさすった。
「ああ、まだ痕消えねえな。手前に痕なんかつけんのは俺だけで十分なのによ」
 この手錠の痕も、元はと言えば静雄が原因なのだと詰ることはできなかった。静雄の鶯色の瞳が不気味に揺らめいている。いつから静雄がこのような目をするようになったのか、臨也には思い出せない。ここ二ヶ月は色々と立て込んでいて、新宿に引きこもりっぱなしであった。少なくとも最後に臨也が静雄にちょっかいを出し、追いかけられた時はいつもの獣じみた顔つきだったはずだ。それが、どうしてこうなってしまった。
 静雄は臨也の感情など気にせずに首輪を臨也の目の高さまで摘み上げ、鎖は別にあり長さも変えられるのだと意気揚々と語る。話の内容のほとんどは臨也の頭に入っていなかった。首輪には犬のリードをつけるような金具が付いている。これではもう、ペットと同等でないか。
 だがこれも隙を作るためだと、臨也は屈辱に耐え黙って首輪をはめられた。この飾りをつけるだけで静雄の機嫌がとれるのなら安いものだと、幾度となく自分に言い聞かせる。
 臨也に首輪を取り付け終えると、静雄はベッドのポールと首輪の金具に鎖を繋いだ。随分と本格的なものばかりだ。静雄ならともかく、普通の人間にこの鎖を引きちぎることなどまずできないだろう。調節された鎖の長さは、この部屋を移動するのには困らないようなものだった。ずしりと悪い何かに取り憑かれたように、臨也の首に重力がかかる。比例して臨也の心も重く沈んでいく。静雄は愛おしそうに臨也の首と趣味の悪い飾りを撫でた。
「先に飯にするか」
 静雄は何を作ろうかと楽しげな声を上げて台所へと向かう。それが臨也に対する質問でなく、独り言なのは理解していた。そっと首に嵌められた首輪に触れる。これなら両手さえ自由であれば簡単に外せそうだ。
「外そうと思うなよ」
 臨也の考えを察知したように、静雄が冷たい声を投げた。あまりのタイミングの良さに肩が飛びあがる。わかってると返した声は明らかに裏返っていたが、静雄は笑って頷き朝食の用意を進める。テーブルに置かれたのはご飯と味噌汁だった。
「俺は朝からなんでも食えっけど、手前は寝起きじゃあんまり重いもん食えねえだろ?」
 随分とわかったような口を利くものだ。臨也のためにこのメニューにしたと言わんばかりの静雄に、どす黒い感情が芽生える。実際それが静雄の想像通りなのがまた腹立たしい。いつも朝食は飲み物だけで済ませてしまうから、このあっさりとした朝食の定番メニューですら完食できるか怪しかった。
 静雄はベッドからテーブルのほうへ降りてくるようにと臨也に指示を出す。じゃらりと重たい鎖を引きずり、言われた通りにテーブルに着く。今回は両手が使えるのだから、昨日のように静雄に食べさせられるわけでないと安心する。二人分の朝食をテーブルに並べた静雄は、やたらと臨也の近くに座った。用意された箸を取ると、静雄にパシリと手を叩かれた。反動で箸がカラカラとテーブルに落ちる。予想外の静雄の行動に微かに目を見開いた。
「な、なに……?」
 恐々と静雄に尋ねる。怒らせるようなことはしていないはずだ。
「手前は黙って口開けばいいんだよ」
「……っ」
 せり上がってきた複雑な感情を、拳を握り内に留める。一体なんのために静雄が手錠から首輪へ変えたのかわからなかった。本当にただ痕を気にしただけだとでもいうのだろうか。
「で、でもシズちゃんもご飯あるし、こっちのほうが効率いいと思うけど。それにほら、ご飯冷めちゃうだろ」
「なんだ、そんなこと気にしてたのか。いいんだよ、俺のは別に。今日は時間もたっぷりあるしな」
 くそっと腹で毒づく。これでは両手が自由になったというのに、手錠をされているのと何ら変わりない。それどころか拘束はされていないのに自分の意思で動けないということが、却って臨也の自尊心を傷つけた。これならば昨日のはっきりとした物理的な拘束のほうがいくらかマシに思える。
 静雄はご飯を一口分箸で摘み上げ、臨也の口へと運んでいく。ここで抵抗してもいいことがないのは学習済みだ。ともかく静雄が油断するまで、ひたすら従順にするべきである。これはここから脱出するための手順の一つであって、決して静雄に屈服したわけでないと自らを諭して口を開けた。
 周りが無音なぶん、咀嚼音がやたらと気にかかる。音を立てないように噛んでいるが、それでも多少の音は仕方がない。唾液と白米が絡み合ってくちゅくちゅと口内で響く。固形食だとその音が昨晩の粥より大きい。
 せめて静雄も何か口にしたらここまで目立つことはないのだろうが、静雄は餌付けのようなこの行為に夢中だ。臨也が目で静雄も食べろと促し続けると、臨也のご飯が半分以上減ってから静雄も自らの口へと飯を放り込み始めた。
 ご飯を嚥下すると今度はれんげで味噌汁を飲まされる。味噌汁にれんげなど不釣り合いであるが、飲ませやすさを重視した結果だろう。静雄は黙々とご飯と味噌汁を交互に食べさせていく。人に食べさせられているという緊張からか、自分のペースで食べれない不自由さからか、理由はいくつかありそうだが、それらのせいですぐに満腹感がやってきた。しかしそれを告げてどうなるとも思えず、臨也は無理をして差し出された食べ物を胃に落としていく。
 どうにか全てを食べ終えると、上機嫌に静雄は使った食器を洗うために台所へ立った。今なら携帯のありかも聞き出せるのではないだろうか。回りくどいことが嫌いな静雄だ。訊くのならなるべく直球のほうがいいだろう。できるだけ穏やかな調子で静雄に話しかける。
「ねえシズちゃん」
 静雄は台所からぐいと顔を出してこちらを見遣る。なかなか間抜けな恰好だ。
「おう、どうした?」
 機嫌を窺うような自らの声も、それに優しく応える静雄の声も気持ちが悪い。ざわっと鳥肌が立ったのを笑顔の裏に押し隠し、臨也は穏やかな声音で続ける。
「携帯とか財布とかさ、ズボンのポッケに入ってただろ。あれ、どこにやったの?」
「ああ、これな」
 洗い物を中断した静雄は仕事用の鞄を漁る。鞄の中からは臨也の探していた持ち物が出てきた。やはり静雄が持っていたか。見た目には問題ない。充電が切れているかもしれないが、壊れてはなさそうだ。
「うん、それ。そろそろ返してほしいなって。連絡取れないと困るし」
「困るって、どう困るんだよ」
「……ほら俺、職業柄携帯が命ってところがあるからさ。顧客にしろ知り合いにしろ、急に連絡がつかなくなったらさすがに不自然に思うだろ?」
「ああ……まあそうだな」
 静雄は納得したように頷いて、臨也の前の床に携帯を置く。しめた。これでこの状況を打破できる。携帯を手に取ったところで思い切り静雄の足に手の甲と携帯を上から踏みつけられ、臨也は悲鳴をあげた。
「ぐあ……!」
「残念だったな。手前の口八丁には乗らねえんだよ」
 小馬鹿にした口調に怒りが燃えて、ギリっと睨みつけるように静雄を見上げる。静雄は一層強く、グリグリと足で煙草の火を消すように臨也の手を踏みつけた。静雄がわずかに足を離した瞬間を見計らって足の下から携帯を引き抜こうとしたが、手に力が入らずに取り損ねてしまう。静雄はそれを見逃さず、以前臨也がある女子高生にそうしたように携帯を粉々に踏み潰した。
「くそ……!」
 悪態を吐く臨也を鼻で笑い、静雄は原型も留めていない携帯をゴミ箱に投げ入れる。臨也が昨日身につけていたのはその携帯一つのみであった。
「……シズちゃん知ってる? 人間の世界ではね、燃えるゴミと燃えないゴミを分別しなきゃいけないんだよ」
 血が滲んでいる手の甲をさすりながら、臨也はやれやれと肩を竦めた。静雄は静雄でそれが臨也の精一杯の反抗だとわかっていたからか、臨也を見下ろすように一瞥し再び台所で皿を洗い始める。
 洗い物を終えると静雄は何事もなかったかのようにベッドへ腰掛け、鞄から取り出した雑誌を捲る。ちらりと覗き込んだそれは、ボクシングやら格闘技やらの雑誌だった。静雄はそうして時間を潰せるからいいかもしれないが、ここは臨也に何も与えない。やけになり歌でも歌ってやろうかとも思ったが、そのような自分を想像し馬鹿馬鹿しくなってやめた。
 臨也は頭の中にオセロのゲームボードを用意して一人で黙々と対戦する。一人将棋ならぬ一人オセロだ。そのうちそれだけでは足りなくなってチェスの駒やトランプ、サイコロも登場させる。臨也以外の人間には誰にもわからないルールでゲームは進められていった。いよいよ局面だというところになって静雄に名前を呼ばれ、ゲーム盤が吸い込まれるように消えていく。化け物は空気も読めないのかと臨也はため息をついた。
 静雄は振り向いた臨也の首輪をいじり、繋いでいた鎖を外す。それだけでなく、臨也が身に纏っている服までも脱がそうとするので暴れたら二、三発腹や胸に強烈なパンチをもらった。臨也の力が抜けたところで黒のVネックシャツを脱がされ、浴室まで担ぎ込まれる。どうやら静雄は臨也を風呂に入れようとしているらしい。
「手前、これなんだよ」
 静雄は申し訳程度の脱衣スペースで臨也のズボンと下着を一遍に剥ぎ取り、露わになった太腿にある抉れた傷を指さした。相変わらず嫌なことばかり訊いてくれると目を細める。
「君には関係ないね」
 痛みに耐えてどうにか声を絞り出す。臨也の態度が気に食わなかったのか、静雄は傷を目がけて拳を振りあげる。
「がっ……!」
 まだ完治したとは言い難い傷を、静雄の馬鹿力で殴られて痛くないわけがない。一瞬チカチカと視界が点滅して、臨也は力なく倒れこんだ。
「傷口が……開いたら、どうしてくれんだよ」
「ああ? 俺には関係ねえんだろ?」
 床にうずくまり息絶え絶えに恨み言を口にするも、静雄はしれっとしている。なんて奴だと拳を握りしめた。
 静雄はくなくなとしている臨也の両脇に腕を突っ込み抱え上げる。動かされる度に痛みがひどくなり、堪えきれぬ呻き声が漏れた。
 浴室の鏡に静雄に支えられた臨也の身体が映る。本来は白い肌に紫や黄色、緑や赤に変色した痣がいくつも浮かび上がっていた。昨日と今日の二日間だけでよくもここまでひどくなるものだと、臨也はむしろ感心する。
「手前、色白いからよく映えるよな」
 静雄はそれを恍惚と眺めて自らつけた惨い跡を撫で、つと強く押す。その度に上がりかける悲鳴を、臨也は唇を噛み締めて耐え抜く。しばらくすると飽きたのか静雄も服を脱ぎ捨て、湯の張ってある浴槽に静雄の腹に臨也の背をもたれかけさせるようにして入れた。
「やっぱ風呂はいいよなあ。シャワーだけのほうが手っ取り早いし水道代も浮くけどよ。でもなんつーか、ほっとするもんがあるよな」
 臨也は何も答えない。先ほど殴られた腹や足がズキズキと痛んで答える気力などなかった。その上無理やり湯に浸けられたことで、こみ上げる吐き気を凌ぐことに精一杯だったのだ。臨也はただただ黙って静雄の話を聞き、溜まっていく怒りをエネルギーに変換していた。
「それにしても手前、薄っぺらいよな。ちゃんと食ってんのか?」
 腰のあたりを強く揉まれ湯が跳ねた。静雄から離れるように前へと腕で湯を掻いたが、離れることなど許さないとよりきつく腕の中に閉じ込められる。男二人でこのような狭い浴槽で密着して湯に浸かり、何が楽しいのか臨也には全く理解ができなかった。
 そろそろ逆上せてしまうのではと心配した頃になって、静雄は痛みと熱さでくたっとした臨也を湯船から引き上げて鏡の前の椅子に座らせる。静雄も臨也の後ろにあったもう一つの椅子に腰掛けた。さっさと洗ってしまおうと身体に鞭を打ちシャンプーに手を伸ばすも、静雄から鋭い声があがる。
「手前は何もすんな」
 またかと臨也は逆らわずにシャンプーから手を引いた。なぜ静雄はここまで徹底して臨也の行動を制限するのだろうか。これではペットどころでなく人形だと、自嘲気味に口角を上げる。
「目、閉じとけよ。水とか泡が入っちまうかもしれねえからな」
 静雄は温度を調節したシャワーを臨也の頭に当てて、髪を濡らしていく。静雄の言葉に従ったというよりは、自衛のために瞼を下ろした。
 目を閉じて相手に身を任すというのは少なからず怖いものである。それが仇敵なら尚のことだった。静雄ならほんの少し力を入れただけで、臨也の頭蓋骨など簡単に砕くことができるだろう。静雄は臨也がその手を怖がっていることなど気づかずに、しゅこしゅことポンプを押し指の腹で臨也の頭皮を擦り泡立てていく。
「うお、髪柔らけえ。俺の使ってるシャンプーじゃ傷んじまうか。今度買い直しておくな」
 嬉しそうな声を上げて、静雄は指を揉みこんでいく。その言葉がどこまで本気なのか計り知れないが、おそらく本気なのだろう。静雄は臨也をこのまま飼い殺そうとしているのだ。これからこの部屋に、臨也のためと押しつけられた生活用品が増えていくことを想像してゾッとした。
 一通り洗い終わったのか、静雄の手が不意に頭から離れる。
「シャワーするからな、そのまま目閉じとけよ」
 ざあっと勢いよくシャワーで泡を流し、手元にあったタオルで顔を拭かれた。開けていいぞと声がかかり、ゆっくりと瞼を押し上げる。臨也の髪はすっかり水を吸って、ぺたんと肌に張り付いていた。
 続いて静雄は身体を洗うためにボティソープに手を伸ばし、泡立てネットを使い洗面器に泡を立てていく。そして十分にもこもことかさを増した泡を素手で掬い、臨也の身体に近づける。
「ま、待ってシズちゃん。シズちゃんも洗わなきゃだろ?身体くらい自分で洗えるから」
「俺は後でいいんだよ」
 朝食時と同じようなやり取りは結果も同様だった。静雄は抗議の意見など気にせずに、臨也の腹に手を乗せ円を描くように泡を伸ばしていく。無遠慮に身体に手を這わされ臨也はぞぞっと鳥肌を立てた。静雄は壊れ物を扱うように優しく手を滑らせていく。泡のせいで抵抗がなく滑りがいい。足の指の間から臍の穴、そして耳の後ろまで丹念に静雄の指にさすりあげられ、くすぐったさに身をよじる。
 何気なく視線を前にやると、自分の身体を好き勝手にされている姿がくまなく鏡に写し出されていた。暑さではない理由で頬が染まる。このような姿など見ていたくなくて臨也はキツく目を閉じた。見えないぶん静雄の手をまざまざと感じてしまい、痛みとは異なる刺激に臨也の呼吸が浅くなっていく。そして静雄は、最後にと取っておいた臨也の性器に触れた。
「あっ、そ、そこは……!」
「なんだよ、最後まで好きに洗わせろ」
 されるがままにしていたが、それはさすがにと静雄の腕を掴む。静雄は臨也の手を振り払うこともなく、尻の穴の縁や性器に泡を塗りたくる。普段人の目に晒されることのない場所を暴かれた上に無神経に弄られて臨也は激しく抵抗したが、静雄は構わずにこちょこちょとくすぐるように泡を塗り続けた。
「ん、ふぅ……」
「気持ちいか?」
 表面を撫でるように触れていた静雄の手が、洗う目的というよりは性感を煽るような触れ方に変わり臨也の身体が強張っていく。
「見ろよ臨也」
 そう言われゆるゆると重たい瞳を押し上げる。鏡には自分の意思とは関係なく勃起させられた性器と、すっかり感じ入った自らの顔が映し出されていた。
「や、やだ!」
 臨也はとにかくこの場から逃れようと立ち上がったが、静雄が上から臨也の肩を押さえつける。静雄は座り直した臨也が椅子から落ちないよう、腰に腕を回してしっかりと固定した。
「や、めろ! 離せ!」
「ったく、暴れんなって。それよりちゃんと前見てろ」
 腰に回していた手で無理矢理顎を固定され、鏡を見せつけられる。目を閉じれば罰だとでもいうように先端に爪を立てられ、臨也は自らの痴態を目視することを余儀なくされた。頬が上気し眉はみっともなく垂れ下がり、赤い唇は閉じきれずに震えている。このような気持ちの悪い表情など知りたくなかった。鏡越しに静雄と視線が絡み合うと、ますます情けなく顔が歪んだ。静雄の手の動きは激しさを増して、確実に臨也を追い詰めていく。
「くう、んン! ーーッ!」
「っと……結構濃いな。溜まってたのか?」
 静雄の問いは臨也の耳に入っていなかった。乱れた呼吸を必死に整える。イかされてしまった。男の手で。それも静雄の手で。生理的なのか感情的なのかわからぬ涙が、臨也の頬を伝った。ここが風呂場であることに感謝する。泣いていることなど気づかないだろう。
 臨也が余韻に浸っている間に静雄は身支度を整え終え、順に臨也の泡をシャワーで流していく。
 ねっとりとした熱気が絡みつく風呂場から静雄に支えられるようにして外へ出るも、タオルで自らの身体を拭くことは許されなかった。静雄は洗濯かごをひっくり返して臨也を座らせ、思いの外柔らかいバスタオルで丁寧に身体を拭いていく。臨也の身体の火照りが引いたところで、下着も服も静雄の用意したものに着替えさせられる。下着こそは違ったが、着せられたのは真っ白な生地の薄いワイシャツとハーフパンツだった。普段着ているものが黒ばかりなだけあって落ち着かない。
「なんつーか……ぶかぶかだな」
 静雄のサイズに合わせて購入したと思われるハーフパンツは腰周りがだいぶ余ってしまったし、シャツも手が半分以上隠れてしまう長さだった。静雄はくるくると余分な袖口をたくし上げて長さを調節し、また買い直さなければと独りごち臨也を所謂お姫様抱っこでベッドまで運んだ。
 静雄は臨也を降ろしてすぐに湿った首輪に鎖を繋ぐ。おとなしくしてろというように一度臨也の肩に手を置いて、静雄はベッドから離れたところにある棚からドライヤーを持ってきて臨也の髪を乾かしていく。髪を乾かし終えると、静雄は冷蔵庫からミネラルウォーターを二本取り出してサイドテーブルに置いた。
 風呂上がりということもあり喉が渇いてから丁度いいと、深く考えずにペットボトルに手を伸ばす。すると静雄は子どもの悪戯のように、臨也より先回りしてペットボトルを取り上げた。しかしそれをどうする素振りもない。
「……水、飲みたいんだけど」
「だから?」
「え?」
「どうして欲しいんだ?」
 静雄が言わんとしていることはこの数日の経験でわかった。しかしそれを臨也が口にすることはない。
「ちょうだいよ。君が飲まないなら貸して」
 静雄の手の中にあるペットボトルへ手を伸ばすも、あと一歩のところでひょいと遠くへ持っていかれる。
「違うだろ? ちょうだいでも、貸してでもねえ。手前は無駄に頭いいんだからわかってんだろ」
 プライドの高い臨也には静雄の求めているセリフなど言えるわけがなかった。喉は渇いているがそれでも我慢できないほどでもない。答えようとしない臨也に静雄はため息をついた。
「特別だ。好きなだけ飲ませてやる」
 言うなり静雄は臨也の顎を無理やり押し上げて喉を開いた。そして静雄の半分飲みかけの水を一気に注ぎこまれる。苦しいのに喉が閉じることができないから、次々と水が流れ込んでいく。臨也は必死に喉を動かしてそれを胃に流すしかなかった。ペットボトルに入っていた全ての水を流し込んだ静雄は、ようやく臨也を解放した。支えを失った臨也は静雄の胸に崩れ込む。
「かはっ……こほ、げほっ」
「大丈夫か?」
 静雄はごほごほとむせる臨也の背中を軽くはたく。自分でしておいて何をと静雄を睨みつけるも、静雄は顔色ひとつ変えなかった。こうして携帯を取り上げて囲ってしまえば、悪巧みもできないから脅威にすらならないということなのだろう。悔しさで胸がえぐれそうだ。静雄は臨也に水を飲ませたことで世話を完了したような満足げな表情を浮かべ、背中をさすり続けた。
 この部屋は何もかもが異様だ。恐らく外は明るいのに、この部屋を照らしているのは日光でなく人工的な光だ。この部屋には何もない。どのようなニュースが社会を騒がせているのか知ることができない。外の景色を見ることもかなわない。時間の流れも止まっている。外界から一切を遮断されているこのような場所にいては、精神が壊されてしまう。
「……シズちゃんさあ、こんなことしてる余裕あるなら少しでも借金返済に充てたら? 電気代だってバカにならないんじゃない? 君の財布事情なんて知らないけど、無駄な家賃払うなら好きなものだって買えるだろ」
 どうにかして静雄を唆してここから逃げなければ。静雄の興味が他の何かに向いてくれればいい。そうすれば自ずと臨也への興味は薄れるはずだ。
 静雄の臨也に対する執着がどれほど深く歪んでいるのか知って尚、これは一種の静雄の気まぐれによるもので、ここから脱出さえできれば元の犬猿の仲と呼ばれる関係に戻れると信じていた。そう信じ込まなければ自らの精神が簡単に折られてしまうことに、臨也の心の深いところはしっかり気がついていたのだ。これまで積み上げてきたものを壊されぬように、臨也の心は無意識のうち精神を自衛していた。
「手前をここに閉じ込めとくことが一番の借金返済の近道じゃねえか」
 静雄から正論が返ってくるとは思っていなかかったため、臨也は一瞬言葉に詰まる。話術を生業にしている臨也が静雄に一瞬でも言葉を奪われるなど、情報屋の折原臨也ではありえないことだった。少しずつこの空間に毒されていることに気づいて、臨也は早口にまくし立てる。
「なんでもかんでも人のせいにするのはよくないねえ。そもそもそれは、君が感情と力をコントロールできていないせいだろ。シズちゃんが深呼吸を覚えれば済む話だ。それにここ最近は君と違って忙しくてね、池袋に来る暇なんてなかった。完全に君のこじつけだよ」
「手前はいてもいなくても苛つくから、んなのどっちでもいいんだよ」
「そういう感覚的な話をしてるんじゃないんだけど。なら質問を変えよう。シズちゃんは俺をどうしたいわけ」
「俺なしじゃ生きてけねえように」
 当然のように即答され、臨也の背中にぞくりと悪寒が走った。静雄は、本気だ。これ以上は訊いてはいけないと直感して口を閉ざす。静雄も訊かれた以上のことを答えるつもりはないようで、鞄から先ほどとはまた別の雑誌を取り出し眺め始めた。ここですることがないのはわかっているから、自ら用意して持ち込んだのだろう。
 静雄に時間が潰すものがあるというのに、臨也には何もない。基本的に臨也は無益な時間が嫌いである。たったの二日間だったが、ここでの生活は臨也に多大なストレスを与えた。
 自分の好きなことを好きな時間にできないというのはもちろん、もっと根本的な人間の三大欲求を制限されているのだからそれも当然だ。静雄は本当に一生このような茶番を続けるつもりなのだろうかと、大きな背中を睨み続けた。




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