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 翌日、昨晩の口論などなかったかのように臨也は振る舞った。これ以上静雄に自分の中の深いところを踏み荒らされるのはごめんだ。接客するときと同様の笑顔を貼りつけた臨也を見て静雄はなにか言いたげな顔をしたが、取りつく島もない様子を感じ取って諦めたようだった。
 四日目ともなれば静雄の仕事終わりに連絡が入る、静雄の作った夕飯を食する、適当に眠くなるまでゴロゴロしてベッドに入るというスタイルがすっかり出来上がりつつある。それでも今日あった出来事をぽつぽつと臨也に拙い日本語で話しかけるようになった以外には、静雄にこれといった変化は見られなかった。
 むしろ変化があったとするならそれは臨也のほうだ。三日目まで欠かさず持ち込んでいた折りたたみ式ナイフを持ち込むのをやめたのだ。静雄に気を許したわけでは毛頭ない。使わないものをわざわざもってくることが馬鹿馬鹿しくなっただけだ。
 昨日静雄が酒で理性がふらついているところをあれだけ挑発したにもかかわらず殴りかかってこなかった時点で、我慢くらべは見合わせることにした。静雄の短気が治ったというより、臨也の嫌味を受け流すスキルを身につけたようだ。
 なぜ今になって突然とも思ったが、街の様々なネットワークでは今日も平和島静雄が暴れていただのという書き込みが簡単に見つかるからつまりそういうことなのだろう。これでは臨也が静雄に耐久をつける七日間になってしまいそうだ。
 こんなつもりでなかったと、相変わらず思惑通りに動いてくれない静雄が憎らしい。このまま静雄が臨也に対して怒らなくなる日々がやってくるのを想像して、身の毛がよだった。
 昨日まではほとんど話すこともないからと持ち込んだ小説を読んだり携帯でネットサーフィンをして過ごしていたのだが、居心地が悪い空気と心の荒れ模様を隠すために、臨也はあえて積極的に静雄に話しかけた。
 いっそ静雄を面倒な顧客だと思うことにしてしまおうととびきりの笑顔をつくる。静雄が嫌う皮肉な笑顔でなく、老若男女問わずに人を惹きつける極上の笑顔だ。それなのに静雄は臨也の作ったその笑顔を見て複雑そうな表情を浮かべた。
 人から笑顔を向けられ慣れていないために戸惑っているのだろう。これはサービスなのだと、静雄が嫌う要因は徹底的に自分の中から排除した。
 出された食事もおいしいおいしいと必要以上に繰り返して楽しそうな雰囲気作りに精を出す。ここまでさせておいてなにが不満なのか、静雄から戸惑ったような表情を向けられているのには知らぬふりをした。
「じゃあ風呂入ってくるからよ」
「あれ、まだ入ってなかったんだ。いつもなら俺が来る前に済ませてあるのに」
「バタバタして帰りが遅くなっちまったから、とりあえず飯だけはと思ってよ」
 静雄に言われて本日の夕飯を思い出す。たしかに炒飯一品と静雄が作る夕飯にしては質素だった。本当はハンバーグを作りたかったんだけどと冷蔵庫に目をやるところを見ると、材料は準備してあったのだろう。
 ふうんと適当な相槌を打てば、静雄はバスルームへと消えていった。バスルームから水のはしゃぎ声が響いて、ようやく臨也は貼りつけた笑顔を外す。
 大抵の人間ならこれほど臨也に愛想よく接せられたら上機嫌になる。それなのに静雄はちらりとも喜ぶ素振りを見せやしない。静雄の感情のコードが人と異なる配線をしているのはわかっていたが、想像以上に混線しているようだった。
 意気込んでいた弱み探しもたいしたものが見つからないままであったし、それどころか情報を提供しているのは臨也のほうにすら思えてくる。共通の時間を過ごすのだから多少の情報を与えることになるのはわかっていた。
 静雄が入手できた臨也の情報といえばきっと道端の石ころの数くらいにどうでもいい内容のものばかりだろう。だがそれでもその中身の薄い情報量ですら二つを秤にかけると、やはり臨也の皿のほうが沈んだことが気に食わなかった。
 作りの悪いバスルームのドアがギイギイと鳴く声がリビングにまで響く。よく静雄の馬鹿力で今まで壊れなかったものだ。浴槽には浸からぬ手合いのようで、まだ二十分程度しか経っていないのに静雄はもう風呂から上がったようだった。
 ドアの向こうで静雄が身体を拭いている間にモチベーションを調節する。いつでも笑顔のお面をつけられるように準備した。リビングのドアが開いて、早かったね、と用意してい挨拶をかけようとしたものの、静雄の姿を見て投げかけるワードが変更される。
「……シズちゃん、いくら野生児とはいえその格好はいかがなものかと思うけど」
「あ?」
 唖然として言葉を失いかけた。なんだか頭が痛い。現れた静雄の格好は、俗に言うパンイチと呼ばれるものだった。白いタオルを首からぶら下げて、いかにも風呂上がりという風体だ。程よく筋肉のついた身体からはほわほわと湯気が立っている。
「別にいいじゃねえか、男同士なんだし」
「いや、そうだけどね? 一人のときならなんら構わないさ。でも仮にも客の前でそれはなしだろ」
 静雄はそれでもすぐに服を着る気がないようで、暑い暑いとその格好のまま臨也のすぐ隣に座るものだから隆起した筋肉が嫌でも目につく。
「とにかく上だけでも着てよ。見てるこっちが寒い」
 引き締まった胸板がちらちらと視界に映る。静雄がタオルで傷んだ髪をわしゃわしゃと拭くたびに二の腕の筋肉がしなやかに動かされて、誘われるままに手を伸ばす。臨也がなにをしたいのかわからず、静雄はタオルを頭に当てて腕を上げたままの状態で固まった。
「シズちゃんて鍛えてるの? 結構筋肉あるよね。それともなんもしなくても代謝的にこうなるわけ?」
 着痩せするタイプなのだろう、脱いだらすごいとはまさにこのことだ。服の上からはわからなかったが、なかなかにバランスの良い身体つきをしている。
 静雄も止めないので、どうなっているのだろうと好奇心に逆らわずにもう少し触れることを選択した。肌も手入れなどしていないくせにほとんど日に焼けていないし、触り心地は滑らかだ。
「ドタチンほどでもないけど、しっかり筋肉ついてるんだね。なんでだろ、見た目はこんなに細いのに」
「……門田のも触ったのかよ」
「うん? 俺、筋肉とか結構好きなんだよね。つい触りたくなっちゃう」
 若干静雄の声音が不機嫌な色を帯びた。触りすぎただろうかとぺたぺたと緩やかな力こぶに触れていた手を離すと、今度はと言わんばかりに静雄は服の上から臨也の二の腕を揉んだ。
「え、わ、なに!」
「あ? 手前が先に触ってきたんじゃねえか。ていうかやっぱり細っこいな。もっと食え」
 静雄の手のひらにすっぽりと収まった自身の二の腕を見て、同じ男なのにこうも違うのかとやるせなくなる。元来筋肉のつきにくい体質であるのがコンプレックスでもあった。
 静雄の手が自然な動きで臨也のふくらはぎへと移動していく。そして驚いたように一瞬手を離して、冷たいと声を上げた。
「寝るときもだけどよ、いつもこんなに冷えのか。ていうか足もほっせえ。よくこれで俺から逃げまわってたよな」
 静雄の手が痛みを感じない程度にぐいぐいと臨也のふくらはぎを揉みしだいていく。化け物のくせに手加減を覚えたのかと胸中は晴れやかでない。しかしこの気持ちよさを手放すのはあまりに惜しくて、浮かんだ蔑みの言葉を奥に沈める。ちょっと張ってるなと静雄は反対の足もマッサージしにかかった。
「ん、それ気持ちいい」
「だろ?」
 思わず本音が口をついて出てしまうほどには静雄はマッサージが上手だった。静雄が触れた箇所がじんわりと熱を帯びて氷のようだった筋肉が溶かされていく。おとなしくされるがままになっていると、だんだんとマッサージの範囲が太ももへと広がっていった。
 それを見てなぜ気持ちがいいという理由だけで、やすやすと静雄に接触を許しているのだろうと心の靄が大きくなる。これもサービスの一環だと何度も呪文のように心で唱えた。だがこれではまるで、臨也が静雄にサービスをされている側ではないかと煩雑な心境になるばかりだ。
「やっぱり結構張ってんぞ。ちゃんとマッサージしてんのか?」
「うんっん、時間がなくてね、あんまり。したほうがいいのはわかってるんだけど」
 太ももとふくらはぎを丹念に往復する静雄の骨ばった手を見ていると、どういうわけか心臓まで強く指圧されたように痛んだ。こんなもののために静雄の家にいるわけではない。静雄の生態を観察し弱みを握るためでなかったかと、本来の旗がぐらぐらと折れそうになるのを支え直す。サービスは終わりだ。
「シズちゃん、そのまま足折ろうとか思わないの。今なら折り放題だろ」
 挑発するように尋ねる声がやや硬くなる。このまま静雄が少しでも力を入れられたら、この足は簡単に二つに折れるだろう。
 上目遣いで臨也を見上げる静雄がいやにゆるりと口端をあげる。その表情が、喧嘩の際に時折見せる嗜虐的な静雄の顔と重なった。ぞわっと悪寒が背中を走り反射的に身体が強張る。
「離せ!」
「あっ、ばか、暴れんな!」
 冗談だ落ち着けと静雄の声が続くが、信用できずに構わずもがいた。臨也と宥めるように名前を呼ばれて苦々しい気持ちになる。いつものようにノミ蟲とセンスの欠片もないあだ名で呼べばいいのに、なぜいま名前で呼ぶのだろうか。
「折らねえよ。こんな無防備な手前をどうこうしたってなんにもならねえだろ」
「無防備、って」
「無防備だろ。こうやって素直に触られて。そういう手前には苛つかねえ」
 どうやら本当に暴力を奮う気はないようでそのまましばらくの間ぐにぐにとあちこちを揉みほぐされるも、肉食獣のような静雄の表情が瞼の裏から離れず身体の警戒が抜けない。これが普通なのだと、先ほどまでの自分はサービスといえども腑抜けていたのだと口元を固く引き締めた。
「っし、こんなもんだろ」
 満足気に立ち上がる静雄から表情を悟られぬように俯いたままでいると、それを都合よく勘違いした静雄が睡眠を勧める。
「手前も眠たいみてえだし、そろそろ寝るか」
 静雄も風呂の火照りが引いたようで、シャツとジャージに着替えていた。それなら臨也も寝る準備をしてしまおうと思ったが、どう見ても静雄の髪はまだ湿ったままだ。雫こそは垂れないものの、その状態で床につけるわけがない。
「え、ちょっと。その頭で寝るつもり?髪くらい乾かしなよ。ドライヤーあっただろ」
「なんだよ、別にこのままでもいいじゃねえか」
「枕が湿る。それに、俺だって濡れる」
 髪の水分が移るような距離にいるのだと改めて痛感させられ、苦虫を噛み潰したような顔になるのがわかった。一日でも早くこの日々が終わればいい。
 静雄が仕方なさそうにがさごそとウォークインクローゼットの中の引き出しを漁る。気だるげに取り出されたドライヤーはそれなりにいいものだったが、長いこと使われていそうになかった。
「貸して」
 きょとんとした静雄の手から強引にドライヤーを奪いコンセントを挿す。ベッドに腰掛け、ほら、とぽんぽんと軽く太ももをたたいて静雄を足の間へ招く。静雄に任せて半乾きのまま横に添われるのは勘弁ならない。クエッションマークを頭のまわりに浮かばせて、流されるまま静雄はベッドにもたれかかった。
 ドライヤーのスイッチを入れるとゴオッと人工的な風が吹き出す。焦げるような臭いもしないので大丈夫だろうと、そのまま静雄の髪へと手をかける。ごわごわとした髪は手入れされていないのが丸わかりだった。
 くしがあればよかったが、手元にあるわけでもなかったのですぐに諦める。静雄にそこまでする必要もないと手櫛で絡まる髪を梳かしていく。
「慣れてんのな」
「妹たちによくやってあげてたからね。舞流ははしゃいで逃げ回るからたまに本気で苛立ったけど」
「かまってもらう口実だったんだろ」
 振り向こうとした静雄の頭を無理やり前に固定する。いつものことだが、今は特に静雄の顔を見たくなかった。
「それくらいわかってる」
 しばらく無言で温風を当て続けると風呂から上がってしばらく経っていたせいか、あっという間に水分は蒸発した。心なしかドライヤーをかける前より髪の指通りがよくなった気がする。
「なんか、不思議だよな。手前とこうして普通に話してるなんてよ」
 足の間で微睡むライオンが忌々しい。たてがみを整えられたのが嬉しかったのか、その低い声は凪いでいる。静雄がこれだけ無防備でも、筋力では到底殺せないという事実が臨也をさらに陰鬱にさせた。
「もっと前に気づけてたらな」
 おもむろにつぶやかれたそれは、臨也にとって都合が悪いものだと直感した。深く詮索してはならないと、会話が続けられる前にドライヤーのコードを本体に巻きつけて静雄に渡す。
「はい。俺もう、寝たいんだけど」
 臨也の雰囲気が打って変わって張りつめたものになったのを嗅ぎ取ったのか、静雄はなにも言わずにドライヤーを受け取りしまってあった場所へと戻した。
 臨也も次いで立ち上がり、ベッドへ入る前に持ち込んだ加湿器の水が少なくなっていたのを思い出して水道水を勢いよくタンクに流し込む。電源を入れると濛々と霧が噴出されてあたりが薄っすらと白ばんだ。噴出孔に手をかざせばじんわりと手のひらが湿った。形が変われど、やはり水は水のままだ。
 この奇妙な関係も数週間もすれば、またすぐに顔を合わせると喧嘩三昧の殺伐としたものへ戻るだろう。静雄と人間同士のように言葉で会話したこの一週間のことなど、きっとあっという間に忘れる。静雄の体温も、臨也の中に残ることはない。あと二日の辛抱だと幾度となく自分に言い聞かせた。


 臨也が目を覚ますと静雄の姿はすでになかった。代わりにテーブルを覗くとおそらく臨也のために用意された朝食の皿の下に、八時には家にいろという置き手紙が挟まれてあった。
 眠りの浅い臨也が、静雄が仕事の準備をして出て行くのに気づかなかったことがなにを示しているのか正確に把握した自分の察しのよさがいまは憎い。憎悪の積木で重ね上げた関係がゆっくりと確実に壊れていく。バラバラと音を立てて瓦解していくそれを見たくなくて、臨也は背を向けた。


 仕事を済ませ波江の皮肉な挨拶に見送られ、置き手紙に従って八時数分前に静雄の家に着いたちょうどその時に臨也の携帯が鳴り渡る。

『悪い、遅くなる』

 あまりの理不尽さに人目を憚らず、はあ?と露骨な不満が口から飛び出る。人を呼びつけておいて遅れるとはいい度胸だ。
 覚えたてだと思われる漢字変換機能を使用して書かれたメールの本文はそれだけで、何時頃になるとも、待っていろとも記載されていない。どうしようか迷ったが、とりあえずはここまできたのだからと静雄の家にあがった。
 手探りで電気のスイッチを探すもなかなか見つからず、換気扇が回ってしまったりトイレの電気が点いたりしてしまった。ようやく照らされた部屋はがらんどうとしていて、このままこの場所にいても観察対象がいなければ徒らに時間を消費することとなってしまうのはわかりきっていた。
 苛立ちまじりにベッドへ勢いよく飛び込むと、その反動で腹が面白い音を立ててカロリーを要求する。静雄との生活に馴染んでしまった身体が、夕飯はまだかと空腹を訴えていた。いつもだったら静雄のごはんが用意されているからと、今日もそのつもりで夕飯を抜いてきたのだ。静雄を少しでも当てにしていたという事実に空腹がシナジーを起こして、なおさら臨也を滅入らせた。
 このままベッドに寝転がっていても外からの供給があるわけでもなく、腹は満たされない。なにかを口にすればこの鬱々とした気持ちもいくらかマシになるだろうと、冷蔵庫の中を覗いて思い出した。ひき肉、玉ねぎ、人参。昨日、静雄がハンバーグを作る予定だったと話していたはずだ。
 腹も空いたし、静雄が帰ってきてから夕飯を作っては出来上がるのに時間がかかってしまう。空腹には耐性があったが、臨也が耐えられぬのは非生産的で無益な時間だ。ほんの僅かでもこの時間を有意義にできるならと、臨也は自らキッチンへ立ち包丁を握った。
 なにもひねらずハンバーグを作ろうかと一瞬考えたが、静雄の穏やかな表情を思い浮かべてメニューから削除した。他になにか作れそうなものはと冷蔵庫を漁り、キャベツを見つける。深く悩まずにロールキャベツへとレシピを変更した。どうせ作るならと並行してコンソメスープ作りにも取りかかる。
 自宅とは異なる調味料などの配置に多少手間取ったが、それなりに台所は整理されてあったし一通りの道具は揃っていたのであれがない、これがないという事態に陥ることはなかった。
トントンと狭い台所に野菜を刻む音が規則的に響いていく。臨也はこの単純な作業が好きだった。サクサクと均一な大きさになっていく野菜たちを見ていると、混沌としていた心も整理される気がする。まな板と包丁が奏でる単調なリズムが臨也の雑念を追い払って無心にしてくれた。
 こうして料理をするのはいつ以来だろう。いつもは波江にこれも仕事の一貫だと、適当な言い訳をこじつけて食事の準備をさせていた。料理が不得意であったり、嫌いというわけではないが、自分一人のためにそこまでする気にはどうしてもなれなかった。
 それが今、時間を持て余していたからとはいえ静雄と自分のためにおたまでスープをかき回している。いつでも、こうしてかき回す側でいたかった。ぐつぐつと火力に翻弄される野菜はとても惨めだ。
 あとはもう余熱で煮つめるだけだと臨也が台所を離れて数十分後、料理が出来上がるのを狙っていたかのようにドアノブを回す音が響いた。ただいまと玄関から聞こえる声に、おかえりと応えてやるつもりはない。
「悪い、遅くなっちまった」
 特に言い訳をしないところが全くもって静雄らしい。言い訳をされてもされなくとも、臨也のこの鬱念とした気持ちが晴れるわけではないのでどちらでもよかったのだが。
「本当だよね。別に遅れたことをどうこう言うつもりもましてやなんで遅れたのかなんて微塵も興味ないけどさ、あのメールだけじゃどうすればいいかなにもわかんないんだけど」
 早口でまくし立てられた臨也の嫌味などなかったかのように、静雄はくんくんと鼻を動かして台所へ向かっていく。静雄が鍋蓋を開けるとふわっと出来立てのスープが香り、湯気が立ち込める。感嘆のため息をついたのが少し離れたリビングからでもわかった。
 臨也が見たかったのは、ハンバーグのために買ってきた材料なのにと自分の計画を壊されて憤る静雄だったが、そのようなことなど知らない静雄は子どものような無邪気さでロールキャベツ好きなんだよと綻んだ。無邪気というものはどこまでいっても残酷である。
「ちょっと、俺のご飯なんだけど。勝手にいじんないでくれる?」
「作っといてくれたのか、飯」
「だから違うって、それは俺が自分のために作ったの。もし余るようなことがあれば勝手に食べれば」
 明らかに二人分あるそれに静雄は嬉しがったが、臨也はそこまで真っ直ぐではない。二人分準備したのはここ数日の夕飯の礼で、静雄にこれ以上貸しを作りたくなかっただけだが、それでも素直に静雄の分も用意したなどとは口が裂けても言いたくなかった。
「どう見ても余るだろ。手前いつもあんま食わねえし」
 静雄は棚から皿とスープカップを取り出し、鍋からロールキャベツをすくいあげて一つずつ皿へ移していく。最初に運ばれてきたスープは均等に分けられていたが、ロールキャベツはちゃっかりと大きなほうを静雄がいつも座る側のテーブルに置いた。
「なに自分の分取ってんの。あげないって言ってるだろ」
 静雄はしつこく言い募る臨也を右から左へと聞き流しして、とぷとぷとグラスにお茶を注いでいく。どうやら夕飯の準備がされていたことに余程浮かれているらしい。自らネコ科にまたたびを与えてしまったようで後悔する。自分相手に浮かれる化け物など、見たくはなかった。
「食わねえで待ってたのかよ」
「え?」
 静雄の指摘に、温かな夕飯に落としていた視線を上げる。いつの間にかそれが当たり前になっていて、待つという選択肢以外が臨也の中に存在しなかった。
 この生活に感化されていたことを思い知らされてぎりっと歯ぎしりする。やっぱりそうなんじゃねえかと静雄が笑顔を溢すたびに、臨也の内側が黒にも似た青に染まっていく。
「ありがとな。遅れちまったのによ、飯作っといてくれて」
「やめろ気持ち悪い。本当になんなのありえない。こっち見るなよ食べるなら残したら承知しないから」
 礼を一蹴すると、手前はどうしてと静雄が頭を掻いた。どうしてもなにも、おかしいのは臨也ではない。静雄が間違っているのだと、早く気づけばいい。
「食べるの」
「あ?」
 フォークでロールキャベツをつついて口に持って行こうとした静雄が、口内まであとほんの数センチということろで動きを止めた。
「毒が入ってるかもとか、考えないんだ」
 にやっと意味ありげに笑った臨也を一瞥して、なんだそんなことかとロールキャベツを口に運んだ。どうして食べるのを躊躇しないのかと心がささくれ立つ。
「うまい」
 パクパクと静雄の胃袋に夕飯が消えていく度に臨也の心は重くなった。静雄がおいしいと口にすればするほど胸が痛む。内側から青に塗りつぶされて溺れてしまいそうだ。こんなものは、知らない。
「俺、人の作ったもん食うの久しぶりだ」
「……そう」
 自分も人のために作ったのは久しぶりだ、という言葉が空気を震わせることはなかった。それなりにおいしいロールキャベツがひどく味気なく感じるのはなぜだろう。
 うまいうまいと静雄が箸を進めて皿の上の料理が減るほどに、臨也の中の静雄に対するなにかも減っていく。きっと、なくしてはならないなにかが。いつの間にか臨也の皿にあるロールキャベツは、しっかりと留めたはずの葉が緩んで中身が露わになっていた。
 ありがとうとか、おいしいとか、そういったポジティブな言葉を口にする静雄をひどく鬱陶しく感じる。静雄を無意識に待っていたという先の指摘が臨也の心でぐるぐると渦を巻いて吐き気を催した。絆されている?そんな、馬鹿な。
「ごちそうさま」
 このまま食べ続けても砂利を噛んでいるようなものだと、結局作ったうちの半分以上を残して箸を置いた。あれだけ腹が減っていたはずなのに、空腹感はすっかりどこかへ消えてしまっている。
「おい、残すのかよ」
 早々に席を離れようと立ち上がった臨也を静雄が咎めた。
「そうだけど? ああ、食べたいなら食べればいいよ。もういらない」
「まだこんなに余ってんじゃねえか。もう少し食え」
「君にそこまで指図される筋合いはない。食べないなら捨てるけど」
 そう言うと静雄は眉を寄せて、臨也の食べかけの皿を自分のもとへと寄せた。これだ、臨也が見たかったのはこの顔だ。やはり静雄はこうでなければ。静雄が食べるならさげる必要もないと、食べたものもそのままにベッドへ腰掛ける。
「手前、昨日から変だぞ」
 静雄は食べるのを中断して、ベッドに深く腰掛けた臨也を訝しむように見上げた。
「一昨日はちょっと揉めちまったけどよ、それでもなんつーか、おかしくはなかっただろ」
「なに言ってんの、シズちゃん。これが、俺たちの普通だろ? 仲良しごっこに飽きただけだ」
 静雄の嫌う笑顔で吐き捨てると、これまでにないほどに底冷えした怒りを向けられてぞくぞくした。最近の池袋のチェイスでもなかなか味わえなかった感情だ。そのような怒りかたをどこで身につけたのだろうか。興奮で気持ちが昂ぶる。
「臨也、こっちこい。席につけ」
「なに、説教でもするつもり?」
 静雄のすぐ隣にどっかと座る。挑発するように静雄の顔を睨め回すと、いきなりぐいっと腕を掴まれて警戒値が跳ね上がった。
「痛いな、なにすんだよ。離せ……んぐっ」
 話途中に口の中にフォークでなにかを突っ込まれて目を白黒させる。驚きで余裕なしに嚥下したものが変なものでなく、臨也が残したまだ温かいロールキャベツだとわかり密かに安堵した。
「手前ちょっと黙れ。そんでこれ全部食え」
「シズ、う!」
 抗議のために口を開けば、さらに肉の塊を喉奥に押し込まれる。吐き出すわけにもいかず、大雑把に咀嚼して胃に落とした。
 静雄が作ったわけでもないのにおいしいだろ、と自慢げな台詞に腹が立つ。この状況で味などわかるはずがない。人の口を塞ぐためにここまでするかと目をいからすも、静雄はどこ吹く風だ。
「なんかよ、あれみてえ。親鳥が雛に餌やるみてえな」
 とにかく静雄は臨也を苛立たせるのが上手い。鳥などと一緒にされて、挙句餌付けだと言われて嬉しい人間がいるはずがない。離れようにも腕を掴まれていて臨也の力では振りほどくことは難しい。
 だんだんと与えられるペースが早くなり、怒りより焦りが上回った。このまま窒息死させらるのではと、抵抗を諦めて静雄の手からフォークを奪う。無言で淡々と残りを食べる臨也に満足したのか、静雄は自分の食事を再開した。
「ごちそうさま」
 静雄が席を立った途端、どっと疲れが押し寄せて文句を言う気力も起きなかった。なにがしたいのだと問い詰めても臨也には理解できないだろうし、単にうるさい口を塞ぎたかったのだろうと解釈する。それだけのためにあのような手段に出るとは随分と獣じみているが。
 それにしても雛鳥とはよく言ったものだ。ぴーぴーうるさいという意味も込められていると深読みして、こめかみがひくひく痙攣する。現に静雄は自ら述べた通り、動物に餌やりをしたあとの子どものように上機嫌だった。いまなら飼育小屋の動物の気持ちが痛いくらいによくわかる。作った料理は時間がかかったがなんとか完食した。


 今日はこちらを向いて寝ろと、なんの気まぐれか向かい合わせの体勢で添い寝をすることとなる。先日話したパーソナルスペースの問題はどうやら完全に脳内から消え去っているらしい。
 二人とも就寝時は完全消灯派だったのがせめてもの救いだ。静雄なら夜目も一般人より利きそうだが、この暗さなら十分表情を隠してくれるだろう。今ならここ数日の訊けなかったことも訊けそうだ。
「シズちゃんさ、俺といて苛々しなくなったの? なんでいつもみたいにキレないんだよ」
 臨也にとってこのことは、最も重要なことだった。静雄の返答によっては、今後の二人の関係に大きな影響を及ぼすだろう。それも臨也が望んでいない形で、だ。
「しないかって言われたらそういうわけでもねえんだけど、なんつーか、コツがわかったんだよ」
「なにそれ、意味わかんないんだけど。もっとわかりやすく説明してよ」
 責めるような声で追及するも、なにがおかしいのか静雄はくくっと喉で臨也を笑った。軽んじられたとナイフで静雄の胸に突き立てたくなるが、そのナイフも今は事務所で留守番をしている。
「教えてやらねえよ」
 荒んだ感情が伝わったようで、臨也が再び口を開く前に静雄の胸板へ顔を軽く押し付けられる。丁度いい位置だったのか、臨也の頭に静雄が顎を乗っけられた。
 苦しいと強く胸板を叩いてこもる声で抗議をするも、どうやら解放するつもりはないらしい。それどころか静雄は、臨也の頭の後ろに手を回してさらさらとした黒髪を梳きはじめる。数日前の朝に頭を撫でられたことを思い出した。こんなふうに静雄に優しく触れて欲しくなどない。
「俺以外の誰かに落札されてたらどうするつもりだったんだよ」
 どこか拗ねたような声遣いだった。静雄がどのような顔をしているのかこの目で確かめたかったが、静雄の腕がそれを許さない。
「どうって、君が身を以て体験している通りだけど」
 静雄の言わんとすることがさっぱり理解できずに、もしそうだったらと想像してありのままを述べた。ここ数日の間一緒にいて独占欲でも湧いたのだろうかと考察する。それとも愛情や人肌に飢えているから安易に他人に触れられるこの関係に味をしめたのだろうか。静雄はその他人が、臨也でもいいというのだろうか。
「危ないだろ、知らない奴と寝るなんて」
 全くの予想外の返答に思わず鼻が鳴った。あまりのおかしさに臍で茶を沸かしそうだ。つくづくなめられたものだと、どす黒いものが臨也の腹で生成される。
「なに、心配してんの? シズちゃんが? 俺を? 俺からしてみれば君のほうがよっぽど危険度高いんだけど」
 興奮して早まる臨也の心臓とは反対に、静雄の鼓動はとてもゆったりとしている。余裕の差が表れているようで力任せに静雄の心臓を叩いたが、当の本人はくすぐったいと身をよじっただけだった。
「でも危なくなかっただろ?」
「……まだわからないよ」
 認めようとしない臨也の背中を、静雄はぽんぽんと幼子をあやすように軽く叩いた。このように静雄の手が臨也に優しく触れるなど、あってはならないことだ。いつになったら静雄はこの生ぬるい生活から覚めるのだろうか。水槽の温度は増していく一方だ。


 遅い。時計を睨みつけてみるも秒針は動じることなく正確に時間を刻んでいく。いつもならとっくに静雄の家にいる時間だった。いい加減に連絡があってもいい頃だと、五分と経たないうちに何度も携帯のメール欄をチェックする。
 今朝の静雄を注意深く思い出しても特に変わった様子は見られなかったし、仕事が遅くなるといったことも言われた覚えはない。
 ようやく静雄から連絡が来たのは十時をまわった頃だった。

『今日は大丈夫』

 どうして、なにが大丈夫なのか述語が一切記載されていない相変わらずの一文だ。臨也はしめたとメール画面を閉じた。これで実質一日分、静雄は振り込んだ金を無駄にしたのだと悦に入る。
 しかし手放しに喜んだのも短い間のことで、なぜ必要がないならわざわざ連絡をしてきたのだという不条理な怒りへと変わっていった。必要な時に連絡しろというものなのだから、不必要なときにまで連絡することなどない。
 いつ呼ばれてもいいようにと着替えてあったファーコートを脱いでハンガーにかける。そのままクローゼットの引き出しにしまわれてある柔軟剤たっぷりに洗濯された部屋着を取り出して着替えるも、なんだか妙に落ち着かない。サイズは静雄が臨也に貸しつけていたものよりしっくりときているのに、なにかが決定的に違う。
 どれほど考えてもその漠然とした違和感を見つけられなくて歯がゆかったが、静雄絡みのことをいつまでも考えていても仕方がないかと思考を放棄する。頭で考えて答えが見つからないものは好きではない。理解できないこと尽くしのこの数日間で、臨也のストレス値はかなり跳ね上がっていることだろう。
 今は数日ぶりの自分のベッドで身を休めることができる幸せを噛み締めようと静雄を頭の中から追い出す。ふかふかのベッドに身を沈めて、やはり寝具にはこだわらなければと一人頷く。人間は人生の三分の一を寝て過ごすというのだから、快適な人生と睡眠のためには出費を惜しんではならないというのが臨也の信条だった。
 枕で眠れるとはなんて素晴らしいのだと、充足感に心が満たされていく。静雄は臨也を自分の好きなポジションで抱きしめて眠るために、この数日は直接硬いベッドに頭をつけて寝ていたのだ。静雄のベッドはキシキシと時折耳障りな悲鳴をあげていたが、臨也のベッドはそのような安物とは桁が違う。
 全身を受け止めてくれるように適度に弾力のあるそれは、臨也の特注だった。寝返りを打ってもギシギシと軋むことなどないし、仮に成人男性二人が横になって両手を広げても余るくらいに十分なスペースがある。間違いなく快適な睡眠が送れるだろう。ふかふかの羽毛布団ももちろん上質で、ごわごわとした静雄の家のものとは比べのにならない。
 ここまで考えて、判断基準が静雄になっていることに気がついて眉間にしわが寄る。なぜ無意識に静雄のことを考えてしまうのか。忘れようと思えば思うほど意識してしまって、思考が定まらず苦しくてたまらない。心にメスを入れて感情を切り離せたら楽になれるだろうか。
 そのようなことなど当然できるわけもなく、寝てしまえば一時的にでもこの息苦しさから逃れられるだろうと瞳を閉じる。だが、快適な空間で寝つけることを喜んだのは束の間だった。静雄といるとあれほどすぐに襲ってくる睡魔が一向にやってこない。それどころか、寒さで震えて寝れやしない。静雄と寝るのに慣れ過ぎてしまった思わぬ副作用だった。
 人間湯たんぽどころか人間電気毛布と寝ていたようなものなのだから、それを急に取り除いてしまったら寒いのは自然のことだ。指先を動かしてみたり足をマッサージしたりと色々試したが、静雄がしたように血流が良くなる気配はちっともない。このままだと恒常性が働いて身体が火照り却って眠れなくなってしまう。
 仕方なしにもうそろそろ暖かくなるからとしまった湯たんぽを引っ張り出す。部分的には温かくなったが、それでも全体を温めるのには全く足りない。一人になってみてあの大きな手が恋しくなるなんて、冗談ではない。
 薄明かりの中でも白いとわかる足を揉みほぐしていた手が、あることに気づいてハッと止まる。静雄と一週間近く過ごしたというのに、当初の想定とは異なり臨也の身体に傷や痣ができることはなかった。寝相の悪さにかこつけてどのような暴力を振るわれるかと最初の二、三日は内心やひやしていたが、それも取り越し苦労に終わってしまう。
 静雄と出会ってからというもの、顔を合わせれば喧嘩ばかりで互いにくだらない理由をこじつけて傷つけ合う毎日だった。臨也もパルクールを駆使して静雄の攻撃をかわしてきたが、それでも全てを避けきれないときもある。そのため臨也の身体には傷が絶えなかった。
 それがどうだ、半同棲のようなことをしてなぜ自分の肌がこんなにきれいなままなのだろう。それ以前に静雄につけられた傷も、ほとんど消えかかっている。もう子どものように喧嘩ばかりしていられないということなのだろうか。これからのことを考えると、心臓がツキツキと痛んだ。
 ふと静雄になにを怖がっているのだと言われたことを思い出す。自分は静雄との関係が変わることが怖かったのだろうか。
 もともと砂糖細工のようにちょっとでも外から刺激が加われば壊れてしまいそうな関係であったし、これまではどうにか壊してしまおうと躍起になっていた。それは臨也も測り知れぬ心の深い部分が、この関係が変わることを恐れていた故の行動だったのかもしれないと知って苦い気持ちになる。変わるくらいなら、壊してしまえという浅はかな深層心理だったのだろうか。
 実際この数日で、もう後戻りができないところまで来てしまった。臨也に怒らなくなった静雄は、昔のように臨也を追いかけることなどなくなるだろう。変化を受け入れるか、壊してはじめからなかったことにするか。そこにあるのはこんなにも単純な二択だったのだ。それでも臨也の答えはまだ決まらずにいた。


 最終日、連絡が入ったのは日付が変わろうとしていた頃だった。このまま連絡がこないままで終わってほしかったと消極的な思考を、携帯一緒にポケットに押し込む。
 タクシーを飛ばしてなんとか日付が変わる前に静雄の家にたどり着いたはいいが、時計の針は今にも今日と明日の境界線を跨ごうとしている。
「時間の延長は受付てないけど?」
 わざとらしく腕時計をちらつかせ、不機嫌さを隠さずに臨也より高い位置にある瞳を冷ややかに見つめる。静雄は少し困ったような顔をしてみせたが、僅かに微笑みを浮かべて臨也の肩に手を置いた。
「わかってる。だから手前の意思でここにいろよ、臨也」
 臨也が意識して見ないようにしていたためこうして近くで面と向かって静雄の穏やかな表情を確認するのは、一週間共に過ごしていたというのに初めてだった。
 このような表情が臨也に向けられることは一生ないだろうと、心のどこかで勝手に決め付けていたのだ。静雄の柔らかな顔を見て決心がついた。これでなにもかもが最後だと臨也も覚悟を決める。
「……いいよ、乗ってやる。これが最後だからね」
 差し出したスウェットに着替えた臨也を見て、静雄は鷹揚に頷く。最終日だというのに臨也のために新調したと思われる黒のスウェットは、静雄のものより一回り小さかった。
「やっぱ手前はこっちのほうが落ち着くな」
 こっち、とは色のことであろう。外出するときは基本的に黒い服に身を包んでいたので、数日くらいではそのイメージが静雄の中から抜けなかったようだ。臨也も静雄がバーテン服以外を着ていたのを見たときは衝撃を受けたなと、わずか一週間前のことを懐かしく思う。
 着替えたならもう寝るぞと布団へ潜り込んだ静雄に続く。いつもとなにも変わらない。これが日常になってしまっていた。昨日はあんなにも眠るのに苦労したというのに、すぐに静雄の体温が臨也の眠気を誘っていく。静雄はやはり癖づいたように、臨也の背中を自分の胸にぴたりと押しつけている。
 臨也がうとうとと夢と現実を行ったり来たりしだしたときだった。臨也のうなじをなにかぬるりとしたものが這って、予想だにしていなかった刺激に思わず声を上げる。静雄が臨也のうなじを舐め上げたとわかったのは数秒してからだった。
「ひ! なにす、あっ」
 慌てて静雄から離れようとするも、その両腕の拘束は固い。そして静雄の悪戯はエスカレートしていき、無駄に温かな手が真新しいスウェットの上から臨也の性器を刺激する。刺激は快感へと変換されて臨也を苛んだ。
 目まぐるしく変わる状況にどうするのが正解なのかわからずに、臨也は必死に快感に耐えた。身体を丸めて少しでも与えられる快感を逃がそうとすれば、静雄ができた隙間を埋めるように追いかける。臨也の尻に、静雄の硬くなったものが当たった。どうしてと、そればかりが浮かんでは消えていく。
「説明書!」
「もう無効だろ」
「ふざけんな! や、めろ!」
 ばたばたと暴れても片腕で簡単に抑え込まれてしまう自分が情けなかった。自由な足で静雄の脛に踵を叩きつけるが、すぐに静雄の足に絡め取られてしまう。臨也の抵抗など構わずに、静雄はやわやわと股間をまさぐり続ける。
「なあ、なんで手前、逃げねえの」
 耳元で喋られ、ぞくぞくと身体が震える。静雄がなにを言っているのかさっぱり理解できなかった。逃がさないのはそっちだろう。
「や、うそ! この、離せっ」
 静雄は先ほど臨也に渡したスウェットを尻まで下ろして、下着の中に直接手を入れた。どうにか静雄の手をはがそうとするも、直接的な刺激に臨也の身体は思い通りにならない。男のいいところは男が一番よくわかっている。
 敏感なところばかりを責められて、臨也の性器は簡単に張りつめていった。静雄の手でイかされるなど、臨也のプライドが許さない。どうにか耐え忍ぼうと目の前にあった静雄の腕に強く爪を立てる。最後の最後に油断した自分を恨んだ。
「あ、くっーー!」
 奮闘もむなしく、激しさを増した動きに臨也は呆気なく達してしまった。ぐっしょりと下着が湿って気持ち悪い。静雄は力の抜けた臨也の身体を反転させて、向かい合わせの状態にさせる。
 射精後の怠さでゆるく閉じた瞼を静雄の舌がべろりと舐めあげた。ひっ、と小さな悲鳴をあげた臨也を無視して静雄の唇は鼻、頬、唇へと触れるだけのキスを落としていく。
「なに、すん……! 話が違う! 離せ、帰る!」
「帰すかよ。なんのために七日間手前の嫌味に耐えたと思ってんだ」
 耳元でぼそぼそと普段より数段低い声で囁かれて身体が揺れる。どうにか距離を取ろうと両腕をつっぱって静雄の胸を押すが、たいして効果はなかった。
「知るか! こんなことするためだったっていうのかよ……! まさか君がここまで忍耐強いとはね、まんまと騙されたよ」
 のこのこと呼び出された通りに静雄を訪ねたことを深く後悔した。きっと静雄は臨也のまぬけぶりを腹で笑っていたのだろう。さぞかし滑稽だったに違いない。
 静雄に対して信用という言葉を使うのもおかしな話だが、このような形で日頃の積もったものをぶつけてくるとは思ってもいなかった。こういうことをするやつではないと、心のどこかで信じていたのだ。静雄のこととなるとあちこちに矛盾が生じてしまう。ちぐはぐな心が痛い。
「無防備に抱かれて眠るしよ、ぺたぺた簡単に身体触らせるしよ。手前言ったよな、俺以外がチケット買ってたら同じことしてたって」
 おりてきた静雄の唇が臨也の喉を啄む。ごくりと上下した喉仏を甘噛みされてひゅっと息を詰めた。このまま噛みちぎられるのではという恐怖に身体が硬くなる。
「なあ、俺以外にもこんなことさせんのかよ」
「なに、それ……」
 それではまるで、静雄が臨也のせいで見えぬ誰かに嫉妬しているようではないか。なにも言い返せずに困惑した表情で静雄を見上げる。この無体な行為に反し臨也と呼ぶ声が優しくて、余計に心が荒れ狂った。
「手前が本気で嫌なら無理にはしねえ。でも、いいっていうなら、優しくすっから」
 縋るように震える声でもう一度名前を呼ばれて、臨也は断る術を失った。なぜ静雄がこのような目をしているのだろう。その顔は、これから犯されようという臨也がするものだ。怯えているのは静雄のほうではないか。
「そんな、優しくするとか、そういう仲じゃないだろ」
 震える身体を叱咤する。この男の前だけでは、情けない姿を見られたくはない。そうだなと安心したように笑い、せっかく着替えた服を脱がしいく静雄におとなしく従う。
 正気に返ったら暴れてしまいそうで、無理やり感情をねじ伏せた。暴れてもどうせ力では静雄に敵わない。惨めな思いを感じするくらいならと黙って身を任せた。
 臨也を裸にした静雄も、落ち着いた様子で服を脱いでいく。ゆったりとした動きがこれからされることを強調しているようで、臨也を不安にさせた。静雄が服を脱ぎ終えて、これまたゆっくりと臨也に覆い被さる。
 決して静雄のいいようにこの折原臨也が組み敷かれたわけではないと、自分から静雄の口にかぶりついた。どうせまともなキスなどしたことないだろう。静雄は驚いたように大きな瞳を丸くした。ざまあみろと思ったのも一瞬で、すぐに静雄の舌が絡みついてくる。
「んぅ……!」
 慌てたのは臨也のほうだった。静雄はキスに慣れているようで、あっという間に濃厚なものへと早変わりする。口内の弱いところばかりをつつかれ舐られ、どうにか舌で応戦するも甘い声が鼻を抜けていく。
 つうっと伸びた銀の糸を静雄がぺろりと舐めとって、臨也の羞恥心を揺さぶった。知ってるかと尋ねる静雄の声がどこか遠くに聞こえる。
「唾液ってな、興奮すると伸びるんだってよ」
「な……!」
 興奮してるのかと悪そう笑われて、耳が燃えるように熱くなる。興奮などしていないという否定と、興奮して当然だという肯定が混じって臨也は静雄から顔を逸らすように俯いた。
「ほんっと、しねよ……!」
「いま死んだら困るのは手前だろ」
 つい先ほどまでは捨てられた子猫ような顔をしていたというのに、楽しくてたまらないといったふうに臨也のあちこちに手を這わしていく。
 性に淡白な臨也は、自分で処理をするときも淡々と抜くためだけにそこを弄る。それ以上の刺激を望んだことのない臨也にとって、それはある意味で苦痛だった。
「や、くそっ、さわんっな……!」
「触んなきゃできねえだろうが」
 臨也が出したものを広げるように腹に塗りたくる。それだけで一度達した臨也の身体は、敏感に快感を拾った。身体の変化についていけない不安に眉が下がっていく。
 静雄に見せられない表情をしているのが自分でもわかる。少しでも声と表情を隠さなければと、両腕を最大限に使って顔と口を覆った。静雄が不満そうな声をあげたが、これだけは譲れない。
「あ……ふ、う……!」
 そんな臨也を咎めるように、静雄は胸の突起を口に含んだ。驚いて顔から腕を離してぐいぐいと静雄の頭を押し退けようとしたが、それもだんだんと弱いものになっていく。
「へえ、男でも感じんだな」
 しみじみとつぶやかれて、熱を持っていた臨也の頬がさらに真っ赤に染まった。瞳に溜まった涙を何度か瞬きをして掃いて、静雄を睨みつける。
 臨也の初々しい反応を気に入ったのか、静雄は乳首を責め続けた。左の乳首を舌で吸うように舐り、右は指で弾きこねくり回されて唇の合わせがゆるむ。こんなところで感じているなど、信じたくなかった。
「臨也」
「あっ、なに」
「身体、あったかくなってる」
 嬉しそうに告げた静雄を当たり前だろうと胸の中で罵る。当たり前だとわかっているのに、指摘された身体はぼっと火をつけられたように加熱した。恥ずかしさに涙で視界がぼやける。
「も、しゃべんなばか……!」
 乳首から離れた静雄の手が、勃ち上がったそれをゆるく擦って袋をやわやわと刺激した。強い快感をどうにか逃がそうと、足を開いては閉じてという動作を繰り返す。次々と押し寄せる快感の波にすっかり参ってしまって、目を閉じてはふはふと酸素を取り込むことで精一杯だ。
 前の刺激に気を取られ、静雄がなにかがさごそとしているのに気づけなかった。突然ぬるっとしたものを尻に塗りつけられ、予想していなかった場所に触れられた驚きで途端激しく抵抗する。
「ちょ、や、なにしたっ」
「ワセリン。そのままじゃつれえだろ」
 まさか自分の持ってきたものがこのような用途に使われるとは。静雄のぬるぬるとした指が、頑なに閉じたままの蕾を根気よく揉みほぐしていく。しばらく入り口を弄り続けていた指が、ゆるりと中へと押し込まれた。
「あ、そんな、はい、はいっちゃ……」
「痛くはねえ、か?」
 静雄の問いかけに必死でこくこくと首を縦に振る。意地を張っている余裕などなかった。
 萎みかける性器と同時に刺激を与えられてながら、静雄は丁寧に中を慣らしていく。はじめは抜き差しするだけだった指も、中が多少緩んで動かせるようになったのか、くい、くいとあちこちに指を沈めるようになった。
「ああっ!? あ、なにっや、あっ」
 ある箇所を押しつぶされた瞬間、これまでとは比べ物にならない快感がつま先から頭まで駆け抜けてがくんと力が抜けた。静雄がなにかをつぶやいて、臨也が反応を示したところばかりをぐりぐりと押し潰す。
 その拍子に二本目と三本目の指も挿入されたが、臨也の後ろはすんなりと受け入れた。まとめた指でそこを細かく突かれて、臨也は快楽にのたうちまわる。
「ひ、あ! やめっまって! これ、や、ああっ」
 強すぎる快感がとにかくつらい。少しでも静雄から逃れようともがくも、しっかりと体重をかけられて抑え込まれる。バラバラに指を動かし中を拡げられるのが苦しくて、唇からひっきりなしに漏れる声を止められない。
「やだっシズちゃ、あう! とまっ、て!」
 臨也の必死な訴えを静雄が聞き入れたのは、あらゆる関節がへにゃへにゃと溶けて役立たずになってからだった。
「臨也、いいか」
 切羽詰まったような静雄の顔になぜだか安心して、糸が切れたようにかくんと一度頷いた。それを認めた静雄が、ゆっくりと尻を割って入ってくる。
「あ、うっ! は、あ……んっ、まっても、ゆっくり……!」
 異物感が苦しくて静雄にしがみつこうとして、どうしてもできなかった。それをしてしまったらなんだかそれは、まるで愛の行為のような気がして。静雄に届かなかった臨也の手は、代わりにシーツを強く握りしめた。
「こういうときくらい、素直になれ、よ……!」
 静雄の大きな手が、シーツをきつく握る臨也の手を捕らえて絡みつく。弱いところだけをしつこく突かれて、精神が焼き切れそうだった。快楽に飲み込まれるのが怖くてたまらなくて、訳もわからぬまま静雄の手を握り返す。
「あっだめ! だ、めっし、ちゃ、もうっ」
「は、くそ……!」
「あ、ひう! あ、あっや、ああ!」
 突然つながれていない反対の手で、静雄が臨也の性器を刺激する。前を同時に弄られて、きゅうっと後ろが締まったのが嫌でもわかった。静雄の形をありありと感じてしまって、いたたまれなくなる。
「ふあっやめ、やめ! あっあ、や、だあ! ……ああぁっ」
 じわじわと快楽に追い詰められて、臨也は二度目の射精を迎えた。臨也に続くように静雄も掠れた声をあげる。中に挿れられたものがドクドクと脈を打ち、中に熱い液体が注ぎ込まれた。
 終わったという安堵と体力的な要因で遠ざかる意識を、なんとか手放さぬように静雄の掌を力の入らぬ手で握りしめる。静雄も応えるように握り返して、臨也の中から慎重に出て行く。それにすら大きな快感を見出してしまい、ぶるりと身震いした。
「臨也、大丈夫か?」
「うん……」
 いつものように軽口をたたく気力などどこにも残されておらず、臨也は最小限に返事をした。絡められていた指が解かれて、臨也の背中に腕をまわされる。臨也も本能に逆らわず、引き寄せるように静雄の腰に手を当てた。
「俺の、勝ちだね」
「あ?」
「我慢、比べだったんでしょ?この七日間」
 静雄に抱きしめられたまま、回らぬ舌で勝利宣言をする。静雄はなんのことだかわからないといったようなとぼけた顔をしていた。
「最後の最後でシズちゃんの負けだ」
 してやったとへにゃりと笑うと、静雄は痛いくらいにぎゅうぎゅうと臨也を抱きしめる。苦しいと呻いても、静雄は構わずにしばらく臨也を腕の中に閉じ込め続けた。




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