×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -





▼  1


 ことの発端は臨也の原動力である好奇心だった。つい先ほど『折原臨也の添い寝チケット』なるものを某大手オークションに出品したのだ。
 キャプションには『いつでもどこでも一週間、あなたの元へ駆けつけます』と意味ありげな文句を記載してある。これを閲覧した人間の反応を楽しもうという、人には理解され難い人間観察という臨也の行き過ぎた趣味の延長だった。臨也個人の知名度も助長して、チケットは中高生がおいそれと手出しできないような金額へとたちまち跳ね上がっていく。期待以上の加熱ぶりに臨也の胸が躍る。
 純粋に添い寝を目的としている人間もいれば、あわよくばと良からぬことを考える下心のある人間もいるだろうということくらいは、臨也も念頭に置いてあった。それはそれで臨也にとって楽しみの一部となっていたから別段問題はない。多少鍛えてあったり、身のこなしに自身のある一般人にだってそうそう腕っ節で負かされるわけがないという自負もあった。伊達に池袋最強と謳われる男と張り合ってきたわけでもない。
 どちらかと言えば、危険なのは暗躍を主として活動する類の人間だ。具体的に言うならばヤのつく職業の人間。これだけはっきりと名前を明記しているのだから、これを機に新宿のオリハラを始末しようと近づく輩もいるだろうという懸念から、入札者の身辺調査は怠らなかった。少しでも煙たいと感じた者はさくっと弾き出して、容赦なくブラックリストへと放り込んだ。
 身の危険性を感じない限りは、落札者が誰であれ記載した通りのサービスを提供するつもりである。そうでなければこの人間観察の醍醐味が半減してしまう。スリルがあるからこそ、こういったものは刺激的なのだというのが臨也の持論だ。
 着々と数字が更新されていく画面を見つめて、悪戯を成功させた子どものようにほくそ笑む。普通に生きていれば交わらなかったであろう人間達が、実際には会わずとも確かにインターネットという場を通じて互いの存在を認識しているのだ。そして当人達にはその自覚はほとんどない。なんて愉快だろうとカーソルを滑らせていく。すでに入札者の人種は両手で数え切れないほど雑多なものになっていた。
 もう一つのノートパソコンを器用に片手で操作して、次々と増加する入札者の個人情報を調べ上げていく。OLの若いお姉さん、入籍したばかりの人妻、土方のお兄さん、オカマバーの店長と、取り上げたらきりがない。
 これだから人間観察はやめられないと上機嫌に天井を仰いだ。三日後が楽しみで仕方ない。知らずのうちに鼻歌を口ずさんでいるくらいには、臨也の気持ちは弾んでいた。


 三日後、予定通り日付が変わるのと同時にオークションを締切り落札者を確認する。落札者のハンドルネームはばけつプリン。なんとも頭が幸せそうなネーミングセンスだ。締切間際に申し込んだのか、今までの競りでは見かけなかったハンドルネームだった。
 どれどれと画面をスクロールして落札者の住所欄を確認した途端、高揚していた気持ちが急激に落下していく。緩んでいた頬が硬くなったのがわかる。三日間寝かせた楽しみが、よもやこのような形で台無しにされるとは考えてもいなかった。毎度のことながら臨也の予想の範疇を軽く飛び超えてみせる落札者に苛立ちが募る。とんだ興ざめだ。
 近くにあった書類をつかんで感情任せに宙に投げる。投げられた紙はハラハラと元の順番を無視して次々と机や床に舞い落ち、机の周りをみるみる白に染めていく。また波江に怒られるなと思ったが、今はそれすらどうでもよかった。
 祝いのために用意しておいた高めの酒をあけて、ビンに直接口づけ一気に煽る。まさか化け物のせいで祝い酒をやけ酒にすげ替えられる羽目になるとは。アルコールのせいでかあっと熱を帯びた喉が赤くなるほど強くつねった。
 そもそも落札者は必要以外の情報が目に飛び込んできた苛立ちから破壊してしまうことを憂慮して、パソコンを所持していないはずであった。携帯電話の認識でさえ、連絡を取るものとして以上の価値を見出していないはずだ。インターネット機能はついているだけで落札者にとって無用の長物なのだと考えていたし、実際落札者は機械関係に滅法弱いはずであった。一杯食わされたなと、もう一度勢いよく酒を胃に流し込む。
 しかしどうだろう。これ以上にない危険な相手だったが、考えようによってはこれを機に化け物の生態を観察できるのだとぐるりと見方を変えて心が揺れた。危険性と好奇心を天秤にかけたところ、知的欲求を満たすことが見事に優先される。つくづく享楽主義な自分に呆れたが、これだけはやめられない。やめるつもりもさらさらないのだが。
 そうともなればと準備しておいたワープロで打ち込こまれた説明書を、落札者の住所を印刷した封筒に同封する。説明書と聞けば仰々しく感じるが、実際はただのぺらぺらなA4判普通紙一枚だ。

『ーー説明書ーー
※必ず一読ください
チケットが届きました時点で、同封されている電話番号かメールアドレスに受取完了のご連絡をください。こちらがメールを受信し、それを確認した時点で契約は成立されます。
暴力行為、性行為の強要は違約とみなし、その可能性があると判断した時点で契約は解除され、振り込まれた残りの日数分の金額は返金をお断りさせていただきます。
契約が解除された場合もそうでない場合も、期限の延長は受け付けません。
この説明書に納得していただけないようでしたら、お手数ですが同封のメールアドレスにその旨を件名としましてご不満点を本文に記載してください。理由が正当だと判断した場合のみ、振り込まれた全額を返金いたします。 折原臨也』

 随分と手前勝手な説明書だが、どちらにせよなんらかのリアクションはあるだろう。仮にこの説明書に正当な不満をあの落札者が抱いたとしても、それを言葉にできる文章力がないのは周知だ。つまらなければ早々に落札者の怒りの導火線に火をつけて、金だけぼったくろうという魂胆だった。無駄に嗅覚のいい落札者ならこの時点で臨也の思惑を察知していることだろうが。
落札者である静雄の名前と住所を打ち込んだ封筒に、エクセルで作られた小学校催しの招待状のようなチケットとその他必要な一式を封入して糊でとめる。波江に明日にでも出しに行ってもらおうと、ポスト用のボックスに紛れ込ませた。
 静雄がこのチケットを落札したのは、大方臨也がまた良からぬことを考えていると思い、それを阻止しようとしたからだろう。なんて余計なお節介だと苛立ちが足先に表れる。これはある意味で静雄から臨也へ送られた挑戦状なのだ。先にその生活に耐え切れなくなったほうが負けという、実にシンプルな判定基準の我慢比べだ。この手のジャンルで短気な静雄に負ける気は微塵もしない。自分からあえて不利な舞台で戦おうとする静雄から、逃げるという無様な真似はしたくなかった。
臨也の楽しみを粉々にしておいて、穏やかな七日間が送れると思うなとゆるりと口角をあげる。


 静雄からの連絡があったのは、それから二日経ってからのことだった。名前も件名も一切記載されておらず、本文も一言だけというまさに静雄らしいメールだ。臨也が静雄のアドレスを知っている前提で送られてきたのを汲み取って、なんとも言い難い気持ちになる。実際その通りなのだが。

『とどいた』

 漢字変換の機能も満足に使われていないメールを見て憐れに思う。静雄がでなく、携帯が、だ。メール機能を使いこなせていないのが丸わかりだった。本当に機械音痴の典型である静雄が自らオークションに参加して落札したのかと疑わしくなる。それにしてもと、再度本文を見直して開いた口がふさがらない。メール作法のさの字も知らないのはわかりきっていたが、ここまでだと呆れを通りこしていっそ清々しさすら感じる。それとも相手が臨也だから構わないと思ったのだろうか。恐らくはその両方だろう。
 ふんだんに静雄の怒りの地雷を散りばめて作成したメールを返信する。思惑通り激昂してくれたら僥倖だ。そうすれば連絡手段がなくなったことを言い訳に静雄のもとへ行く必要がなくなり、こちらには金が入ってくる。まさに一石二鳥だ。

『平和島静雄様、改めましてこの度はチケットの落札ありがとうございます。先ほどのごく短いメールだけでは説明書に了承していただけたのか判断しかねますが、説明書にもあった通り自動的に契約はこれで成立されました。
これから七日間、添い寝が必要となりましたら同封されていた電話番号、もしくはこちらのメールアドレスに必要となる時間と場所を指定してください。直前のご連絡ですとご指定の時間に間に合わない可能性が生じてしまいますので、できるならば必要となる二時間前までにご連絡いただけるとほとんど確実にご期待に沿えるだろうと思われます。
お互いのスマートな生活のためにご理解とご協力のほどよろしくお願いします。 折原臨也』

 首なしとは異なって携帯などろくに見ない化け物のことだ。一時間以内に返信があればかなりいい方だろうと予測するも、それはいい意味で外れて意外にも返信はすぐに来た。

『いますぐ、おれんち』

 思わず携帯を壁に投げつけそうになったがなんとか堪える。これではまるで静雄だ。感情と肉体が直結しているなど冗談ではない。こんなことでは七日間ももたないと自身にしつこく言い聞かせる。
 果たして静雄は慇懃丁寧な臨也のメールを読んだのだろうか。一読してこれなら尚更質がわるい。それとも日本語が返ってきただけでまだマシだと思うべきなのだろうか。そういうことにしてしまおうとこれ以上考えることをやめた。これから嫌というほどその顔を拝まなければならなくなるのに、その前からわざわざ静雄を思い浮かべる必要もないだろう。
 それにしても時刻はまだ昼の一時を回ったところである。非常識なその膂力とは裏腹に思考は割と真面目な静雄のことだから、勤務中に私用で携帯電話に手を伸ばすことはまずないはずだ。おそらく今日は休みなのだろうと推測する。静雄は職種上休みが不規則であり、池袋を訪れる都合から出勤日チェックは常に怠らなかった。しかしここ三日間は入札者の身辺調査に精を出していたので、優先順位から外れていたのだ。盲点だったと舌を打つ。
 何が起こるかわからない以上臨也としても明るい時間帯のほうが様々な危険性が下がるので好都合だったが、あまりの急な呼び出しに心の準備ができていない。のこのこ静雄の家に行ってまぬけを演じるのは勘弁だ。密室に呼び出しておいて臨也をなぶり殺そうと考えていないとも百パーセント断言はできない。卑怯な手段を嫌厭する静雄だが、臨也に関しては常識や正当性を大きく欠いている。つまり、臨也にならなにをしても許されると考えている部分があるのだ。
 しかしここでいつまでもまごついているわけにもいかない。たどり着くまでに時間をかけて怖気づいたなどと思われるのは不本意だ。お気に入りの黒いファーコートは内と外を切り替える一つのスイッチであったが、その馴染みの上質なコートも今日はやけに重く感じられた。これから静雄の私生活を狂わすことができるのだからと、強引に思考をポジティブなものにシフトする。
こうして奇妙な七日間が幕を開けたのである。

 目当てのアパートの部屋の前に着いたが、どうにもチャイムを押すのが躊躇われた。このチャイムを押してしまったら見たくもない顔が出てくるのだと思うと、生ゴミを食べさせられたような心持ちになる。まだ始まってもいないのにこんなところで時間をくっても仕方ないと思い切ってチャイムを鳴らし、すぐさまドアから距離を取る。ドアを開けられた瞬間殴られでもしたら笑えない。そのようなドジを踏んだら一生の汚点になる。
 静雄の住んでいるアパートにカメラ付きインターホンなどという高価な防犯セキュリティはないので、誰が来訪したかチャイムだけではわからないはずだ。が、本人曰くノミ蟲センサーというはた迷惑な機能を自身のどこだかに搭載しているらしいので、ほぼ間違いなくドアの向こうに立っているのが臨也だとわかるだろう。そもそもこのような場所を好んで訪れるような人間も他にいまい。
 部屋の中がバタバタと騒々しくなり、家主がこちらに駆けているのがドア越しでもわかる。どのような攻撃が繰り出されるかと身構えたが、杞憂に終わった。
「おう、来たか」
 出迎えた静雄は見慣れたバーテン服ではなく、Tシャツにある肉食動物を象った某ブランドのジャージのズボンという大変ラフな格好だった。髪もいつものようにワックスで盛り上げていないため、ボリュームに欠けている。静雄を外で見かける時は弟から大量にプレゼントされたというバーテン服しか見たことがなかったので、ありふれた格好が却って新鮮だ。
 静雄でもこのような服装をするのかと、普段とのギャップのせいか思った以上の不快感が湧き起こることはなかった。どうやら臨也の脳は静雄とあのバーテン服を結びつけて捉えていたらしい。確かに四六時中あの格好でいるわけもないかと今更ながら静雄の認識を改めさせられる。常にバーテン服を着ていたらそれはもうブラコンどころでない、ただの変態だ。どうでもいい情報が手に入ってしまったと内唇を噛む。
「平和島静雄様ですね。この度はチケットの落札ありがとうございます。あなた様の給料からして安い買い物ではなかったでしょうに、一体どのような風の吹き回しですか?」
目一杯静雄を煽るようにいつもの笑顔で一息に皮肉を並べ立てる。殴れ。さあ殴れ。そして振り込んだ金をおじゃんにすればいい。
「くだらねえこと言ってねえでさっさと入れ」
 いつもならすでに周辺の物が飛んできてもおかしくはない挑発だったが、静雄はこめかみに筋を立てるだけに留まった。静雄が半身を引いて臨也を家へ招く。ここで始末をつけて、とっくに帰路についている予定であったが致しかたない。これは持久戦になるかもしれないと心ならずとも腹をくくった。偉そうにドアを腕で支える静雄の横をすり抜けて靴を脱ぐ。
 他人の家というのは匂いが気になるものだ。住み慣れた家では染み付いた匂いを自覚することは難しいが、初めて来訪する家の匂いはありありとそこに住む人間の生活習慣を伝えてくる。想像に違わず煙草臭い。
 わざとらしくすんすんと鼻を鳴らしている意図に気づいたのだろう、静雄の視線に苛立ちが宿る。そうだ、そうやって激昂するのが本分だろうと静雄の感情を知った上で、不躾な目で部屋の物色を続行した。静雄はそわそわと落ち着かないようで、無理に臨也の行動を気にしないようにしていることがバレバレだ。
 あちこちを舐めるように観察していると、不意に静雄が臨也に向かって片腕をぐいっと突き出す。物を強請るようなそのポーズに臨也は首を傾げた。なにか与えるものなどあっただろうかと、訝しげに静雄を見つめる。一向に意図を汲まない臨也に静雄は端的に述べた。
「コート、邪魔だろ。預かる」
 静雄の常識的な発言に目を眇める。確かに上着は室内では脱ぐものだ。だが臨也の羽織っているコートには、静雄対策のサバイバルナイフがいくつも仕込んである。このまま引き渡してしまったら、臨也は丸裸も同然だ。
 しかしこの状況の打開策も見つけられず、引かない静雄にとうとう臨也が折れてコートを差し出した。コートを手に持った途端、静雄が眉を顰める。重さでナイフの存在に気がついたのだろう。
「手前よお」
「仕方ないだろ。俺たちは安心して同じ空間でくつろげるような仲じゃない」
 もっともな返しをすると、静雄もそれ以上の追求はしてこなかった。臨也のコートは丁寧にハンガーに掛けられ、ウォークインクローゼットに収納される。
「それも脱げよ」
 これ以上何を脱げというのだろうか。少なくとも普通の他人の自宅訪問ではありえない。そしてこれ以上脱いだ自分を想像して寒気が身をよぎった。
「それって契約違反に」
「しわになるだろ」
 最後まで言わせずに、呆れたとでもいうような表情の静雄になんだかこちらが恥ずかしくなってくる。一瞬でも静雄がそういった意味で臨也を辱めようとしているのではと勘ぐった自分の正気を疑った。静雄に限ってそれはありえないと反吐が出そうな妄想を否定する。
 臨也とて寝る時はいつもの黒のVネックに細身のパンツを履いているわけではない。一見シンプルな黒ずくめの外出着だが物にはこだわっているので、静雄との殺し合いで服がだめになる度に腹が立つのは静雄だけではなかった。無闇に服を無駄にする必要もないと、差し出されたグレーのスウェットにおとなしく着替える。
 ここにきて本当に一緒に寝るつもりなのだと、今更ながら鳥肌が立った。なにが悲しくて男二人で同衾しなければならないのだろうか。畳んだ衣類を他に置くところもなかったので、無造作に敷かれている座布団に乗せる。そして肝心のベッドに目をやってあることに気づいた。
「ねえ、これってまさかシングル?」
 やや嫌味をこめた質問に、静雄は純粋な疑問をもって返してくる。
「あ?なんか問題でもあんのか」
「いやいやいや問題ありまくりだろ。どう考えても平均身長上回ってる成人男性二人がここに収まり切るとは思えないんだけど」
「手前、そんなにでかかったけか」
 静雄は僅かに目を大きくして驚いたというふうな表情を浮かべる。なるほど時には純真な態度の方が頭にくることもあるらしい。
「シズちゃんが無駄にでかいんだよ!俺だって一般的に見たら高いほうなの」
 突っ込むべきところはそこではないとわかっていながらも、突っかかるのをやめられなかった。我ながら子どもっぽい反論になってしまったが、化け物相手に大人も子どももないだろうと自己完結する。
「落ちなきゃいいんだろ」
 キャンキャン騒ぐ臨也に疲れたのか、一人先に静雄はベッドに入り込む。静雄がキープしたのは壁際だった。これなら静雄は落ちる心配はないだろう。
「そう思うならせめて壁際譲って欲しいんだけど」
 静雄の寝相がいいとは到底思えない。これから起きる事態を想像してどうしてここへ来てしまったのだろうと、好奇心旺盛な自分に嫌気がさした。起きたら臨也の身体はきっと痣だらけだ。静雄はこれを狙っていたのだろうか。無意識下の暴力を狙うとは小賢しくなったものだ。ほら、と呼ばれて渋々布団へ潜り込む。
「手前、どっち下にして寝るんだ」
「……左」
「じゃあこっちだな」
 腰を掴まれぐるりと身を反転させられる。一瞬の出来事に思わず目を白黒させた。見かけ以上に細い腕に抱き寄せられ、じたばたともがくが逃がしてくれそうにない。それどころか静雄は臨也の肩に顔を埋めて先ほどの仕返しだろうか、すんすんと鼻を鳴らす。くすぐったいのと生理的な嫌悪感から一層激しく抵抗するが静雄はまるで意に介さずに、いつものノミ蟲臭えというセリフを吐き出した。
「っ……だったら離れればいいだろ!」
 添い寝をするのが目的なわけで、ここまでひっつく必要もない。頭にきて静雄の腹を肘で打つも、ダメージがあったのは臨也のほうだった。
「君が殴る蹴る投げる以外の手段に出るとはね。どういう気まぐれかな?さすがの俺でも驚いたよ」
 臨也の嫌味に答える気はないようで、静雄から返事が返ってくることはなかった。しばらくすると耳元から静雄の寝息が聞こえてくる。今の時点では本当に添い寝をすることが目的なようだ。全くこの男のすることばかりは読めないと目をつむる。慌てて寝る体勢に入った自分に鞭を打つ。
 あまりに静雄から敵意を感じないためにこちらの毒気まで抜かれてしまったようだ。この体勢なら静雄が軽く腕を引けば臨也の内臓をずたずたにすることも簡単だろう。油断させておいて、という作戦かもしれないのだから寝るわけにはいかなかった。
 それにしても、静雄の体温は控えめに言っても高い。こうして亀の甲羅みたいにくっつかれると、静雄の体温が移ってこちらまで眠くなってしまいそうだ。


 遠くでカチャカチャと食器が触れ合うような音がする。波江が料理を作っているのだろう、なにかが焼けるようないい香りが鼻をくすぐった。ゆっくりと上体を起こしたものの、瞼は再び閉じられていく。
「やっと起きたか」
 聞き慣れた低い声が臨也の鼓膜を叩く。なぜ静雄の声がするのだろろう、まだ夢の中だろうかと覚醒しきらないまま伸びをした。何度か瞬きをして眠気を追い払う。ここはどこだろう。臨也の事務所とは違う見慣れない狭い部屋に、ようやくしまったと思った。
 どうして静雄がこんなに近くに。様々な思考が入り乱れて臨也を混乱させる。近づいてきた静雄は紛れもない現実だ。警戒して寝起きで動きの鈍い身体をなんとか後ろに跳び退かせる。
「なんだよ、寝ぼけてんのか」
 不思議そうな目でこちらを見つめる静雄にだんだんと今の状況が見えてきた。どうやらあのまま眠ってしまったらしい。そして静雄が起きても臨也はぐっすりと眠ったままで、静雄も起こそうとしなかったのだろう。なんという失態だ。それなのに、傷一つ増えていない自身の身体に臨也は我慢がならなかった。
「寝首をかけただろう。絶好のチャンスだったはずだ。どういうつもりだ」
 寝起きで声が掠れている。空気清浄機が完備してある臨也の事務所やマンションではほとんどこのようなことにならなかったが、静雄の部屋は湿度計などなくともわかるほどに空気が乾燥している。空気中の水分が不足して、喉が張り付き痛みを訴えていた。
 静雄の前で無防備な寝姿を晒していたことにどす黒い感情が湧き上がる。さぞかし静雄からしてみれば間抜けだっただろう。それとも臨也にとっては警戒対象の静雄も、こういった意味では臨也を歯牙にもかけないのだろうか。
 サバンナで幅を利かせているライオンがのうのうと眠れるのは、他に敵がいないと本能的に理解しているからだ。捕食される側の立場からしてみたら非常に憎たらしいことこの上ないが。やり合うつもりはないという意思表示だろうか、今にもつかみかかっていきそうな臨也を静雄は片手をあげて制止した。ここで事を構えても決して臨也の有利な状況にはならないだろうと、冷静さを取り戻し少しずつ体の力を抜いていく。
「飯食うか」
 先ほどより落ち着きを得た臨也を確認した静雄が夕飯を勧める。テーブルを見下ろすと、オムライスと味噌汁というなんとも統一感のない夕食が並べられていて一気に気が抜けた。静雄の味覚がおかしいのかそれとも料理のレパートリーが少ないのか、おそらく後者であろうと判断する。
「なんで俺が君とご飯を食べなきゃいけないわけ。帰る」
 スウェットに手をかけ着替えようとしたが、静雄の手が伸びてきて中断させられた。
「ああ?なに言ってんだ」
「なにってさっき寝たばかりだろ?それともシズちゃん、昼寝しても寝れるタイプなわけ。犬っぽいと思ってたけど実はライオンでしたってところかな。ネコ科ってやたらと一日中のんきに寝てるからね」
 辛辣な臨也の言葉にいつ静雄が怒り出しても対処ができるようにと重心をやや下げる。玄関側のドアは確保した。
「寝れる。だからいろ」
 それだけ口にすると、静雄は用意した夕飯を黙って食べはじめた。どうして怒らないのだという苛立ちが臨也ばかりに蓄積されていく。
 結局その日は数時間後に再度静雄の腕へ収まることとなるが、不本意な睡眠を昼間に確保できていたので臨也が眠りにつくことはなかった。


 静雄が活動を始めるであろう数十分前には起きて身支度を整えていたかったが、この理不尽な膂力は当人の睡眠時にも適用されるらしく、静雄の腕から自力で脱出することはとうとう叶わなかった。アラームが静雄を起こしたことでようやく臨也の行動制限も解除される。
 静雄がご飯に卵をかけるという粗末な朝餉をかきこんでいる間に、少しでも早くと家から出る準備をした。静雄が家にいないのにここに留まる理由もないし、面白そうなネタが転がってないのは昨日の時点で調査済みだ。
「手前も食え。そんなひょろっちいと寝るときに折っちまいそうだ」
「はあ?君が言うほど細くもないんだけど。それとそんな犬が食べるようなご飯、俺食べないから。コーヒーもらうよ」
「本っ当にいちいちうぜえよな手前は……おい、勝手に冷蔵庫漁んな」
 うざいと思われるような言動を選んでいるのだから当然だ。それなのにどうして、あの静雄が怒らずにいられるのか臨也にはわからない。
 冷蔵庫の中は意外にも一通りの食料が取り揃えられていた。けれど子ども舌な静雄の家にコーヒーは用意されていなかったので、代わりに牛乳で喉と腹を一時的に満足させる。
 顔を洗い歯磨きを済まし歯ブラシを元の場所へ立てかけて、昨日より一本増えたそれに朝から苛立たされる羽目となった。このような些細なことに苛立つなんて、まるで、と自己嫌悪に走る。リビングから臨也と名前を呼ばれて顔だけそちらに向けた。
「七時には仕事が片付く予定だから、九時には家にいろよ」
 なにを考えているのかわからない顔で、静雄は今日の予定を臨也に伝える。企画したのは自分なのだからこうなることはわかっていたのに、なぜ静雄の予定を聞かされなければならないのだと返事はしなかった。静雄の指示通りに動かなければならない残り数日を思って胃が痛む。もとより従わされるのは性に合わない。それが静雄ならなおさらだ。
 準備を終えた静雄が家を出るのと同時に臨也も家を去り、駅でタクシーを拾って行き先を新宿と告げる。ひとまずは静雄から解放されることを心から喜んだ。
 昨日と同じような失態を繰り返さぬように事前に事務所で仮眠を取ろうと思っていたが、丸一日ふざけたことに使っていた分の溜まった仕事も処理しなければならない。顔合わせくらいの軽い気持ちで静雄の家を訪ねたことを後悔した。
 こういう日に限って早く片付けなければならない仕事は溜まっているもので、最低でも三時間は寝ようと予定していたが結局のところ一睡もできずに静雄の家へと再び出向くこととなってしまう。
 波江に仕事の後処理を押しつけると案の定、あなたの悪ふざけにこちらまで巻き込まないでちょうだいだの、いいご身分ねだのと散々小言を言われた。そして極め付けは平和島静雄と仲良くねと、いってらっしゃい代わりの挨拶をされたときはそれはもう波江相手に拳が震えた。殴れないことを知っていてそう言うのだから波江も人が悪い。
 指定された時間より少し早めに着いてしまったが、静雄は家にいた。部屋の明かりが灯されて中から生活音が漏れている。昨日のことを思い出して引き返してしまいたくなったが、ここまできてうじうじしているわけにもいかず律儀にチャイムを鳴らして家主が出てくるのを待つ。
 ギィっとドアが軋む音を立てて開かれた。解錠独特の音がしなかったところをみると、施錠はしていなかったのだろう。それが臨也のためになのか、普段からの癖なのかはわからない。どちらにせよこのご時世にずいぶんな不用心さだ。わざわざライオンがいるときに巣を荒らされる心配はないのだろう。さすがは百獣の王だと侮蔑を込めて笑う。
 ドアを開けチャイムを鳴らしたのが臨也だとわかると、静雄はわずかに口元を緩めた。確かに、臨也に向かって微笑んだのだ。見てはいけないものを見てしまったように、ただただゾッとして鳥肌が立った。
 このようなもののためにわざわざ新宿からここまで通っているわけではないと静雄を睨みつける。なぜ臨也を自ら自宅に招き入れていることに疑問を持たないのだろうか。突っ立ったままの臨也に浴びせられた言葉は、臨也を硬直させた。
「おう、おかえり」
 まるでバケツの水を頭から被せられた気分にさせられる。おかえりという言葉は本来帰ってくるべき場所での挨拶であり、臨也はここに住み着いたつもりは全くないし、今後住み着く予定もない。せいぜいこの家を訪れるのも残り数日だ。
「お邪魔します」
 精一杯の皮肉を込めたが静雄は別段気にすることはなく、臨也が持っていた一泊するだけにしては大きめな荷物に興味を示した。
「なんだ、それ」
「加湿器。シズちゃんの家乾燥しすぎ。喉もやられるし肌も乾燥するんだよね。なんたらは風邪ひかないっていうから君には関係ないんだろうけど、俺がいる間は置かせてもらうから」
 事務所へ戻ってすぐ忘れぬうちに、空気清浄機を購入する前に使っていた加湿器があったはずと物置の奥から引っ張り出してきたのだ。おかげでトレードマークの黒い服が灰色になって波江に鼻で笑われた。
 静雄の家の空間を快適にするためではなく、あくまでも自分のためだ。本当なら匂いも気になるから空気清浄機を設置したいところだったが、そのような高価なものを静雄の家に置いても破壊されかねないのであと数日の我慢だと諦めた。
「あー手前、やたらそういうこと気にしそうだもんな」
 女々しいと言われたようでムッとするも、静雄の表情に変わりはない。物珍しげに臨也が給水口に水道水を流し込んでいく様子を、おとなしく隣で眺めていた。タンクに水が溜まるにつれて臨也のネガティブな感情も溜まっていく。しばらく使っていなかったのできちんと作動するか心配であったが、加湿器は役目を果たした。
「ついでにこれも置かせて。乾燥して唇突っ張るの嫌なんだよね」
 言うや否やリップクリーム兼ハンドクリームにもなる優秀な高純度ワセリンを窓台に置く。ここならば手を伸ばせばベッドの端からでも届くだろう。取りあえずはこんなところかとそのままベッドに腰掛ける。
「飯は?」
「お気遣いなく。とっくに済ませてあるから」
「なに食ったんだ?」
 そこで終わるはずだった会話の継ぎ穂を珍しく静雄が摘んだ。少々面食らったが、はぐらかす必要もないだろうと正直に答えた。
「え?ああ、ゼリーっていうの?あのコンビニとかによく置いておる飲むタイプの」
 今までどのような嫌味を連ねても変わらなかった静雄の表情が一変し、不機嫌なものになる。なにか癇にさわるようなことを言っただろうかと考えたがそれらしい答えは見つからない。静雄の感情のスイッチは臨也には理解できないことがほとんどであったし、とにかく静雄を苛立たせることに成功したならそれはそれで結果オーライだと片づけた。
「食え」
「はあ? だから食べてきたって」
 臨也の言葉も聞かずにやや乱暴に目の前のテーブルに丼が置かれる。ほくほくと湯気を立てているのは鮮やかな色をした親子丼だった。
 静雄にはあのように言ったが、実のところ夕飯というより溜まった仕事のせいでパソコンの前から離れられず、ブロック状の栄養食品やゼリーをだらだらと食べていたので変に腹が膨れているのだ。こういったことはよくあることだったので臨也の身体もすっかりそれに慣れてしまっている。
 見た目と匂いだけではそれなりに食欲をそそるのであろう親子丼に、臨也はなんの魅力も見出せなかった。臨也の視線を背に受けて台所に戻り作業を続ける静雄は、想像していたよりずっと手際がいい。昨日から感じてはいたが、そもそも静雄が料理をしようというタイプだということが驚きだった。
 一人暮らしをする人間の食生活はだいたい三パターンに分かれる。まず積極的に料理をこなし節約と自分の健康のために時間をかけることを惜しまないタイプ。次に腹は減るが作るのが面倒だと食べる回数自体を減らすタイプ。そして最後は面倒だけれど腹は空くからと臨也が嫌いなジャンクフードやインスタント食品で済ますタイプ。
 静雄はてっきり三番目だと思っていた。街で見かける静雄の食生活は荒れに荒れており、ジャンクフードやコンビニ食ばかりで少なくとも臨也は静雄が弁当箱を持っている姿は一度も目にしたことがなかった。
「ていうかシズちゃん料理なんてできたんだね。昔はあんなにひどかったのに、化け物でも成長するんだ。いや、君の場合は人に近づくのは退化かな?」
 高校時代に家庭科の教師がもっと仲良くしなさいと、静雄と臨也を同じ実習グループに入れたことがある。そこで見た静雄は力加減が難しいのか米もろくに研げず原型を留めないほどボロボロにしてしまうし、臨也のちょっかいによって腹に溜めた怒りを力に変換してまな板ごと野菜を切るという離れ業を披露して見せた。それ以来静雄と臨也は小さな作業でも同じグループになることはなく高校時代を終えたのだ。
「何年一人暮らしやってると思ってんだ」
 あからさまに怒らせようとする臨也に静雄はふうっとため息をついた。怒りを吐き出すためというより、呆れから生じたため息だ。過激な挑発にも乗ってこなければ、化け物という静雄にとってのタブーワードを織り交ぜても反応がない。一体どうしてしまったのだろうか。短気でない静雄はなんだかこちらまで調子が狂う。
「これ、シズちゃんのご飯だろ。君が、君のために作った、君のためのご飯だ」
 小学生でも知っているような偉人の演説の言葉を借りて、いかに食べたくないのかを説得するも静雄は諦めなかった。
「俺のは別にある」
「……作ったの? まさか、俺に?」
「一応客だからな」
 なにが恥ずかしかったのか、静雄は照れたようないじけたような表情を浮かべた。昔から言葉数が少ない分表情で雄弁に語るタイプだったのはよく知っている。苦手な分、細かく観察してきたのだから。静雄の料理の腕前も気になったので、一口くらい手をつけるかと丼を側に寄せた。
「俺、こんなにたくさん食べれないけど」
「そしたら俺が食ってやるよ」
 食べるという意思表示が嬉しかったのだろうか、静雄がばっとこちらを振り返る。あからさまな反応に、臨也の胸の内側からなにかがふつふつと湧いた。かゆくて仕方がなかったが、手を伸ばして掻ける場所でもないのが余計にもどかしい。
 静雄お手製の親子丼を食べはじめてからチラチラと、静雄の視線が臨也と自分の丼を大名行列のように行ったり来たりする。直接は訊いてこないが、その目がなにを気にしているのか分からないほど臨也も鈍くはない。しつこい静雄の視線についに根負けした。
「食べれるよ、普通に。ちょっと大きめな切り口なのがいかにも男料理って感じだけど」
「そうか」
 静雄の瞳がふっと柔らかくなったのを見てしまって、やはりコメントするべきでなかったと悔やんだ。静雄が穏やかな顔を臨也に向けるたびに、激しくそれを否定したくなる。
 その顔を向ける先にいるのは不倶戴天の敵の折原臨也だと、なにを腑抜けているのだと静雄を殴り飛ばしたくなる。しかしそれではこの七日間の耐久戦に、臨也が負けを認めたこととなってしまう。それだけは避けたかった。どろどろの感情を透明なグラスに注がれたお茶とともになんとか嚥下して腹に収める。
 見た目以上にボリュームのあった親子丼はすぐに臨也を満足させた。もともと食が細いということと、微妙な時間まで胃に物を入れていたということもあって頑張ってはみたものの三割は残すことになったが、臨也の残した分も静雄は難なく平らげて見せた。
 食の太さで男の魅力の全てを語れるとは思わないが、いくらでも胃に詰め込むことのできる上に余分な肉のつかない身体は羨ましい。代謝が並外れていいというのと、道中で怒りを発散する際に大きくカロリーを消耗するからだろうと羨望をゴミ箱へ放り込んだ。
 静雄がてきぱきと食器を洗っている間、臨也はぼんやりとテレビを眺めていた。それこそ静雄の破壊対象になりかねない電化製品だったが、きっと放送内容などどうでもよくて静かな空間を少しでも賑やかにするために流しているのだろう。化け物でもそれなりにひとり身の寂しさを感じるらしい。
 中身のないバラエティを観ていると、どうにも眠くなってしまい何度となくあくびを漏らす。食事を済ませた満腹感から、強烈な睡魔に襲われた。十分な睡眠を確保できていないのだから仕方ないが、これから静雄の隣で横にならなければならないのにこの状態はよろしくない。眠気覚ましにカフェインを多量に含有されている栄養ドリンクを取り出す。万が一のためにと静雄の家に来る前にドラックストアで購入したものだ。
「なんだよそれ」
 ビンのふたを開けようとしたところで、食器を片付け終えた静雄がリビングへと戻ってくる。洗い物をした名残か、袖口がまくられたままだった。
「眠気覚ましの栄養ドリンク。ちょっと前までCMでよくやってただろ?あれと似たようなやつなんだけど、これが結構効くんだよねえ」
「貸せ」
 言うや否や静雄は臨也の手からビンを取り上げ台所へと持って行き、ひっくり返して中身を排水溝へ流してしまう。慌てて止めようとしたが、一歩遅く中身はすでに空だった。
「なにすんだよ!人の持ってきたもの勝手に捨てるとかありえないだろ!」
「これから寝るっつーのにそんなもん飲むほうがありえねえだろ」
「だーかーら、これから君の隣で横にならなきゃいけないから飲むんだろ」
「手前なあ……これから残りの日、全部そうするつもりかよ。やめろ、身体壊すぞ」
 静雄には関係ないと身振りで伝え、それ以上は言い返さずにベッドへ向かった。静雄も臨也に倣ってベッドに上がり電気を消す。昨日と同じように、後ろから臨也を抱え込み抱き枕代わりにした。硬い男の身体を抱いてなにが楽しいのか臨也には理解できない。
「……シズちゃんさ、どうしてチケット落札したわけ?そもそもネットなんて文明の機器を使いこなせるようには見えないんだけど」
 昨日今日と静雄を観察していたが臨也の想像していた通り、必要以上に携帯に触れることはなかった。人と一緒にいるときに携帯をいじるのが失礼だという弁えもあるのだろうが、それでも手の届く範囲に携帯を常に置いておかないのは普段携帯をいじらない証拠だ。
「欲しかったからに決まってんだろ」
 後者には触れずにちらりと臨也の顔を覗き込んで、もう寝ると身体をさらに引き寄せた。宣言通りに静雄はすぐに寝息を立て始める。なんてのんきなのだろうと皮肉に思う。隣にいるのは、静雄の大嫌いな天敵ではないのか。その筋肉の壁を貫くことはできなくとも、指で鋭く突けば目を潰すことだってできるというのに、全くその危険性を考慮していないようだ。
 カフェイン摂取を逃し、事務所に帰って睡眠をとるのにも失敗をした身体は静雄の熱に当てられて嫌でも夢の中に引きずり込まれていく。このままではまずいと仮眠を取ることにした。
 仮眠は三十分が適切な時間だったはずだ。それ以上の時間だと睡眠慣性が働いて余計に眠くなってしまうとなにかで読んだことがある。そのなにかを思い出そうとしたが、思考に靄がかかって上手く頭が働かない。
 想定した時間ちょうどに目を覚ますのは、もともと眠りの浅い臨也の特技の一つだった。壁時計がベッドの正面にあったのが幸いである。壁時計と体内時計を頭の中で合わせて、三十分後に目を覚ますように強く強く念じた。


 夢の中で臨也を呼ぶ声がする。まだ寝ていたいと唸って、声から遠ざかるように寝返りをうった。
「おい臨也、起きろって」
 ゆさゆさと身体を揺すられてぼんやりとしていた意識が瞬間、覚醒する。がばっと音が出そうなくらいに飛び起きると、あまりの勢いにすぐ横で静雄がうおっと声を上げた。またやってしまったと頭を掻きむしりたい衝動を堪える。
 いつだ、いつ意識がなくなった。予定通り仮眠は三十分きっかりで目を覚ますことに成功したはずだ。壁時計で確認したからそれは間違いない。三時頃に新聞屋が来たのも覚えている。記憶が怪しくなったのは、部屋が少し明るみはじめてからだ。
 臨也を覗きこんだ静雄の顔が思いのほか近くにあって、表情を歪め距離を取る。静雄のその気遣わしげな態度と、学習しない自分に腹が立つ。ゆらゆらと夢うつつのままベッドから這い出ようとしたが、なぜか静雄に止められた。静雄の手が誘導するままに臨也は再び枕に頭をつける。
「どうせろくに寝てねえんだろ、そのままでいい」
 全てを見透かしたような静雄に臨也の機嫌はますます悪くなった。寝起きでなければ気が済むまで罵詈雑言を静雄に浴びせていたが、脳みそは無理やり起こされたことによってまだスイッチが切り替わっていない。
 そのままでいいと言った静雄が、なにかを思い出したように布団の中から臨也の右手を引っ張り出した。そして布団から顔を出した右手に革のケースを握らされる。目だけでこれは何だと問う臨也を察したように静雄は説明した。
「帰りが何時になるかわからねえからよ。わかった時点で連絡入れっけど、来ても開いてなかったらそれ使って先に入ってろ。この季節じゃまだ寒いしな」
 合鍵を預けられるような関係じゃないと噛みつきたかったが、喋ることすら億劫だった。低血圧のせいでなにもかも朝はどうでもよくなってしまう。どこかぼんやりとしている臨也のぐしゃぐしゃな頭に静雄の手が伸ばされた。
 叩かれるのではとびくりと首を引っ込めたがそのようなことはなく、ふんわりと臨也の頭を静雄の大きな手が行き来する。この歳になると、人の頭を撫でることはあっても撫でられることはなかったのでなんだか面映ゆかった。気持ちよさに思わず目を細める。
 おとなしくしている臨也が珍しいのかしばらく撫でていたが、静雄にしてはセンスのいいブランドの時計を確認して臨也の頭から手を離した。離れた手を思わず目で追ってしまい、それに気づいた静雄の手がもう一度ぽんと臨也の頭に乗せられる。こんなつもりでなかったと胸でひとりごちた。
「出かけるときは鍵閉めろよ。なんも盗られるもんはねえけど、念のためだ」
 玄関に行くまでに後ろを何度も振り返る静雄が鬱陶しくて、合鍵を握らせられた手を数回横にひらひらと振ると柔くはにかんだ。臨也を苛立たせるその穏やかな表情も、低血圧の前では心が揺れなかった。低血圧様々だと初めてだるい身体とまわらぬ頭に感謝する。ようやく静雄が出て行ったと思ったら、再びがちゃりとドアの開く音がした。
「臨也!今日は飯作れねえかもしれないからちゃんと食べてこいよ!」
 玄関からわんわんと静雄の叫ぶ声が聞こえる。わざわざそれを言うために戻ったのか、ご苦労なことでと返事はせずに目を閉じた。静雄も臨也の返事は期待していなかったようで、言いたいことを言ってすっきりしたのかすぐに施錠の音が響く。
 静雄がいなくなって久しぶりにベッドを独占できることを臨也は喜んだ。これで心置きなく睡眠を確保できる。もそもそと硬い布団の奥へ再び潜り込みポジションを整えた。静雄の温もりがまだ残っているも、少し肌寒い。きゅっとアルマジロのように背中を丸ませて布団を肩まで手繰り寄せた。


『もうそろそろかえれるとおもう』

 全てひらがなの非常に読みにくいメールが送られてきたのは九時過ぎのことだった。
 アパートに着いたものの家主がそこに居る気配はなく、静雄から渡された合鍵を取り出して部屋の鍵を開ける。静雄も臨也ならこれくらいのアパートであれば鍵などなくとも簡単に入れることもわかっていて、それでも合鍵を渡したのだろう。なんだか首輪をかけられた気分だと複雑な心境になる。
 ライオンの巣を好んで荒らしにくるような物好きもそうそういないだろうが、あちこちで恨みを買っていることも知っていたので念のため静雄に言われた通り鍵はかけておいた。
 部屋に入るなりとっとと畳まれたパーカーとジャージに着替える。煙草の臭いがつくのは嫌だったので、我が物顔でクローゼットを開けて脱いだ服をしまった。静雄のだぼっとした部屋着は臨也には大きすぎるが、それでも簡単に脱げるようなこともなかったので荷物が増えるよりはいいだろうとこの体制を甘んじて享受している。
 静雄が帰ってくるまでベッドに寝転び肘をついて、ぽすぽすと踵を尻にぶつけるというストレッチをしながらニュース番組を眺めた。別段臨也の心を掻き立てるようなニュースはどの番組も報じていなかったので適当にチャンネルを変える。そしてあるクイズ番組に目を留めた。
「そうなんです、カエルの入った水槽を徐々に熱していくとですね、その熱さに慣れてしまって熱くなっていることに気づかずに死んでしまうんですよ。ええ、本当に!どうにも間抜けな話ですがね」
 司会者が大仰な振り付けで場を沸かす。出演していたお笑い芸人の一人がそれにくだらないことをつっこんで、ドッと笑いが湧き起こった。
 馬鹿馬鹿しい。ブツっとテレビの電源を落として座布団にリモコンを放り投げる。司会者が解説していたのは、まさに型を取ったようにいまの臨也にぴったり当てはまるのではないかと急速に熱が冷めていく。
 なぜこうしておとなしく静雄の帰りを待っているのだろう。部屋をごちゃごちゃに荒らしたり、まだ試していない静雄を怒らせる手段はたくさんあるはずだ。テレビに触発されて夕食時の波江との会話を思い出し、冷えた心が苛立ちで波打つ。
「波江の料理ってさ、おいしいし繊細だしバランスもいいんだけど、なんか物足りないんだよね。なんだろう、もっとがっつきたいっていうかさあ」
「あなたの好みに合わせて作ってるわけじゃないから構わないわ。でもあなた、先日とまるきり反対なことを言うのね」
「先日?」
「料理は一口サイズが食べやすくて箸が進むって言ってたじゃない。それとも平和島の影響かしら?彼の料理でも食べた?ああいうタイプの作る料理はボリューム重視そうよね」
 見透かしたように冷ややかに笑う波江に箸が止まった。ギロリと鋭く波江を睨みつけるが、氷のような笑顔が崩れることはない。この程度で怯えるような女性でないのは臨也も重々承知している。
「図星だからってわたしに当たらないでちょうだい。あなたの好みでないからって変えるつもりもないわ。わたしが合わせるのは誠二だけよ」
 無表情のままどこか恍惚と、波江は耳にタコができるほど聞かされたいつもの台詞を吐き捨てた。一度食べただけの静雄の料理で食の好みが変わったなんて、ありえるはずがない。
 波江のせいで溜まった鬱憤を晴らす目的も含めて、静雄の部屋にマヨネーズでもぶちまけてやろうかと八つ当たり気味に冷蔵庫に手をかけたところで、ドアノブをガチャガチャと捻る音が玄関から響いた。全くなんてタイミングが悪いのだろう。
 仕方なく何事もなかったかのようにベッドに腰掛ける。静雄と顔を合わせる前は必ず気が重かったが、今日はいつにも増して心が沈んでいる。寝たふりでもしてやりすごそうとごわごわしている布団を引っ張った。そうすれば少しの間だけだが静雄の顔を拝む時間が減る。それにしてもと、ドアノブを回してからなかなか入ってこない静雄に不審感が募る。
 するとなにを思ったのか、おそらく静雄だと思われる玄関の前の人物はピンポンとチャイムを鳴らした。やたらと明るすぎる音が臨也の不機嫌さに油を注ぐ。どうやら臨也にドアを開けさせたいらしい。静雄は図体がでかいくせに妙に子どもっぽいところがある。
「あー無理いけなーい、今トイレー」
 扉の外にいる静雄に聞こえるわけもないと、ベッドの上で大胆な嘘をつく。出迎える気は毛ほどもなかった。それなのにチャイムの音は激しさを増していく。
 ガキかとこのまま放っておくわけにもいかず、ドタドタとあえて大きな足音を立ててドアを開ける。小さな覗き窓で人物確認をしなくとも、静雄以外にこの家に対してこのようなことをする人間に心当たりがない。
「あのさー今何時だと思ってんの。近所迷惑にもほどがあるっていうか鍵持ってるだろ?なんのための鍵だよ……てシズちゃん飲んできたでしょ! 酒くさ!」
 寒いからというだけの理由じゃない静雄の顔の赤みに眉を顰める。これは面倒なことになりそうだと露骨に嫌な顔をした。臨也が一通り文句を吐き出しても、アルコールで高揚しているのか静雄はにこにことやけに上機嫌だ。
「ただいま」
 静雄は迎え出た臨也を見るなり整った顔を破顔させ、ゴロゴロと喉でも鳴るのではないかというくらいに甘い声で帰宅の挨拶をした。どうしたものかと訝しげに観察していると、ぐいっと腕を掴まれる。
「臨也、ただいま」
 どうやらあっさりと流したように見えただけで、昨日の挨拶の件を実は根に持っていたらしい。ここで意地を通しても面倒なことになるとあっさり引き下がる。
「はいはいおかえり」
 静雄が家に入ってからもチャンスがあれば臨也に抱きつき、もたれかかってこようとするのを躱すのに四苦八苦した。どうやら酔うと絡み酒になるタイプのようだ。
「これ以上近づくな。酒臭い」
 伸ばされた手をパシリとはたき落とす。それでもベタベタ近づこうとしつこい静雄を牽制した。
「なんだよ、今更じゃねえか」
 甘えるように擦り寄る静雄を見ていると、ライオンにマタタビを与えたらこのようになるのかなど面白い絵面が浮かんだ。しかし甘える対象が臨也であるということはいただけない。
「シズちゃんさあ、パーソナルスペースって知ってる? 単語くらいは聞いたことあるよね? 別称パーソナルエリア。それ以上近づかれたら不快になる距離のことをいうんだけど、これってね、目を中心に女性は横に男性は縦に円を描くように広がってるんだよ。だからよくドラマかなんかでライバルとか嫌い合ってるような男二人が、顔を近づけて睨み合ってるシーンがあるだろ?あれはもちろん演出も兼ねてだけど実は理に適ってるんだよね。俺たちに許されてるのはせいぜい三百五十センチから百二十センチまでの手を伸ばしても到底届かない距離。つまり俺は君に百二十センチ以内に近づかれると不快なわけ」
「でも手前、」
「一緒に寝てるだろ、なんて揚げ足取りはやめてよ? あくまでお金をもらったその分のサービスだ。我慢してんの、それくらいわかんないかなあ」
 マシンガンのように並べられたうんちくに酔いが冷めてきたのか、次第に静雄の表情が色をなくしていく。今がチャンスだとここぞとばかりに煽り立てた。
「なんで殴らないわけ? いつもみたいに殴ればいいだろ。よく二日間も耐えたって。君にしては上出来だ。ほら、いまならお酒のせいだって言い訳もできるよ?」
 わずかでもその手が暴力的な意志を持って振り上げられたら、直ちに契約破棄を叩きつけて出て行くつもりだった。それなのに静雄はただ怒りをゆらゆらと瞳に湛えて静かに臨也を見据えている。
「殴られてえのか」
「誤解を生むような訊き方やめてくれるかなあ。それだと俺がドエム野郎みたいじゃないか。そんなわけないだろ」
「俺だって、殴りてえわけじゃない」
 暴力を奮うことくらいしか能が無いくせにと続くはずだった言葉は飲み込んだ。静雄の目があまりにも真剣で、思わずたじろいでしまう。
「手前よ、なにがそんなに怖いんだよ」
「……は? 俺が、怖がってるだって? 戯言もいい加減にしろよ、化け物」
「怖がってるだろ」
 カッとなって掴みかかりそうになるのをどうにか堪えた。自分が静雄に煽られてどうするのだと、深呼吸して無理やり気持ちを落ち着ける。
「知ったような口を利くな。化け物に俺のなにがわかる」
 キッと静雄を睨みつけて、臨也はもうこれ以上話すことはないと部屋の隅であぐらをかいた。少しでも静雄と距離を取りたかったが、この狭い部屋では大した距離にはならない。怒りの原因が視界に入るだけでふつふつと腹が熱くなる。
 それきり静雄のほうもさすがに気まずくなったのだろう、いつもだともう少しで手が届く位置で並んで観ていた、眠くなるまでのテレビ鑑賞の距離も縮まることはなかった。
 帰れと言われるのを期待したが、それでも就寝時の添い寝は譲らないようで眠たくなったのか臨也に声をかけてきた。
「……お風呂はいらないでベッドに入るわけ?」
「もう遅いだろ。朝シャワー浴びる」
 同衾させられてる側の身にもなれと思ったが、先ほどの口論を思い気が重くなりやめた。これから寝るというのに静雄を怒らせるのは得策でない。
 連日のように静雄が壁際をキープし、あとから臨也が狭いベッドに身体を割り込ませる。あのような後だというのに臨也を抱え込んで離さないくらいには人肌が恋しいらしい。
「思ってたんだけどよ、手前冷えよな」
 先に沈黙を破ったのは静雄のほうだった。酒臭い呼気がうなじをくすぐる。
「シズちゃんが子ども体温なだけ」
「それにしても冷えよ」
 会話を続けるつもりがないのをできるだけ声のトーンで表現したが、静雄には伝わらなかったようだ。なおも食い下がる静雄が煩わしい。冷えた臨也の足に温かな静雄の足が絡められて、体温の差が歴然とする。
「冷え性なんだよ」
「冷え性? それって女がなるやつだろ?」
「……最近はそういうわけでもない」
 筋肉量だの熱生成だのと細かい説明をする気にはなれなかった。そもそもわかりやすく説明したところで今この時間では理解しても、明日にはきれいさっぱり忘れているような脳の造りの持ち主だ。そのためにわざわざ時間を費やすことに生産性を感じなかった。 静雄の益体もない話に内側で燃えてたものがゆるやかに鎮火されていく。
 怒りを保ち続けるということは精神的にも脳の仕組み的にも難しい。アドレナリンが放出されすぎると一定時間後にそれを鎮静化させる物質が放出されて、怒りによって生じるストレスを軽減させる仕組みになっている。それくらいに怒りとは莫大なエネルギーの要するものなのだ。新羅ではないが全く人体というものはよくできている。
 久々に感情が昂る出来事が続いて、精神的にも肉体的にもとにかく疲れてしまっていた。このような粗末なベッドでも、横になると疲労感がよりはっきりとその姿を現わす。静雄の穏やかな寝息を耳に感じて、興奮していた脈拍が徐々にゆっくりとしたものになっていく。
 静雄を隣にして副交感神経が優位になっているのは、先ほどの感情の起伏の反動だと言い聞かせた。だから感傷的になってしまっているのも、きっとそのせいだ。怒らない静雄を見ていると得体の知れない感情が湧き起こり臨也を悩ませる。
 静雄を激昂させるのは、こんなにも難しいことだっただろうか。



[ next ]



[ back to title ]