ひらりと、色紙が深知の足元に飛んできた。紺色のそれを拾いあげると、眼鏡越しの赤い瞳と出会う。黒いフレーム。 「ごめんね。ありがとう、拾ってくれて」 優しい声音。声の主の髪のようにふわふわとした印象を受ける、柔らかな音。 ピンクのカラーシャツにクリーム色のスラックスの組み合わせも柔和なイメージを持たせる。ネクタイピンも、可愛らしい猫を模したもので、 「猫、好きなんですか?」 拾った紙を手にしたまま、銀色に輝く猫を凝視した。悠我は一度、何のことだろうかと小首を傾げた。しかし、注がれている視線の先が己のネクタイに向けられたものだと気付いたのか、一度猫を撫でると綻ぶような笑みを浮かべた。 「それほど好きってわけではないんだけれどね。これは、友人からの贈り物なんだ」 気に入ってるんだよね、と楽しそうに話した。 「女の人ですか?」 「いや、一応男からかな」 「一応って……」 「俗に言う女顔ってやつだよ。ついでにアルビノ仲間」 悠我の集め終わった色紙の束の上に、先ほど拾った物をのせた。深知は窓の外に暗雲が立ち込めている景色。少し前までは綺麗な青空だったというのに。夏の雨は突然だ。 「雨が降りそうだね」 「傘、持ってきてないのにな……」 運がよければすぐに止むだろうが、深知は今日の朝の天気予報を見逃した挙句携帯を家に忘れてしまっていた。 窓の外を不安げに見つめる深知に悠我は廊下に誰もいないことを確認してから、深知に耳打ちした。 「送ろうか?」 ワントーン、ボリュームを下げた声音は、静かな廊下に響いたかもしれない。 「今日は残らないから僕が帰るついでに家に寄れるけど?」 「いいんですか?」 濡れて帰らずに済むことよりも、他の嬉しさがこぼれる。 「生徒をずぶ濡れにさせて帰すなんて出来ないからね。全然かまわないよ」 「じゃあ、お願いします」 深知の返事を聞くと悠我は心底嬉しそうに笑った。そして、職員室へと軽い足取りで帰っていった。 深知はピンク色の背中が見えなくなるのを待ってから、職員室とは正反対の教室に向かった。 「どうして夏は、何も降らないんですかね」 大きな雨粒がフロントガラスを打つ中、助手席から外を眺める深知はぽつりと呟いた。 「どういうこと?」 ハンドルを握りながら、小さな音を拾った悠我は深知に呟きの意味を問いかけた。 あともう少しで八月も終わる。そして今はゲリラ豪雨が町を襲っている。激しい雨。アスファルトの町で、落ちた水はどこへ逃げようかとさ迷っている最中だというのに。 深知は外を見つめたまま、しばらく黙っていた。まるで何かを探しているよう。 窓についた雫で視界はほぼ遮られていた。 「これからの秋は、枯葉が上から落ちてきます。冬には雪が降りてくるじゃないですか。 春なら、桜が舞うのに。夏だけ何もないじゃないですか」 「雨は降るけど、」 「特別がほしいんです」 悠我はあまり夏が好きではなかった。日差しが強いからだ。 先天的色素欠乏症。通称アルビノと呼ばれる症状を持った患者は、紫外線に弱い。太陽から発せられる強い光が肌を焼く。皮膚がんになる確率は健康な人よりもはるかに高かいのだ。 悠我は今日まで長袖以外で屋外に出たことはなかったし、常に日傘やUV-Aカットのサングラスや眼鏡を常備している。光を直に見ることは出来なかったし、視力も悪い。幼いころはよく目にも日焼けをしたものだ。 普通ではない。 「水占先生は、特別はほしくないんですか」 赤信号の間。深知は覗き込むようにして悠我の表情を伺っていた。 「特別は……」 もうじゅうぶんかな。そう答えようとしてやめた。悠我が持っているのは特別ではなく、特異。 「……先生?」 白い肌は見慣れている筈なのに、黒いハンドルに浮かぶ両手を切り落としてしまいたい。そんな衝動に駆られた。 だが、すぐにそれは大きく響く音によって霧散する。 「雷だ」 「けっこう音が大きかったね。案外近くに落ちるかも」 雨脚がもっと強くなる。真っ黒な雲を駆け抜ける稲妻。 深知の住むマンションがすぐ近くに見えた。 「ありがとうございました」 エントランスに続くロータリーで、深知はいつもと同じ言葉を言った。 「気をつけて、戸締りはきちんとするんだよ」 このマンションが全部屋オートロックであることを知りながらも、悠我はいつも同じことを言うのだ。そして、いつも通りなら「さようなら、また学校で」と深知が続く筈だった。 「はるかせんせい」 普段でなら、けっして呼ぶことない呼び方で、彼女は彼の名を呼んだ。 「夏の特別、見つけてください。もし先生のいらないものだったら、私がもらうので」 ひらりと、紺色のスカートが雫を払い舞う。 「見つけたら、教えてくださいね」 prev|next |